今、閘門が閉じようとしています。
通行料の計算には色々な要素で計算されますが、平均して5.4000ドルです。これまで最も高額の通行料は2003年の豪華客船「コーラルプリンセス」号の22.6194ドル25セントでした。最低は1928年パナマ運河を泳いで通過したアメリカ合州国の冒険家リチャード・ハリバートンの36セントだそうです。
今船舶が閘門を越えて閘室へ入ろうとしています。右側に見えるのは狭い区間のため自力で航行できないため船舶を牽引するための電気機関車です。
我々日本人観光客へのリップサービスか、この車両が三菱重工の製品だと盛んに場内放送をしていました。
ガトゥン閘門(2007年12月20の写真で確認ください)での船舶の航行の模様を以下7枚の写真で紹介します。(同じ地点からの撮影です)
写真の右下側がカリブ海で左上の方がガトゥン湖→太平洋になります。現在閘門は開いた状態です。ガトゥン湖側の閘門は閉まっています。
パナマ運河の年間通航船舶数は1万3185隻(2002年)です。
Feng さんいつもコメントありがとうございます。バインブルクの景観はすばらしいでしょう。中国は広いですね。
写真はペデロ・ミゲル閘門の閘室です。今減水され外に出ようとしているところです。現在通過できる船舶のサイズは船長294m、船幅32.3m、喫水12m以下に制限されています。拡張工事が計画されています。
トリビア
日本のプロ野球ロッテのズレータ選手はパナマ出身でホームラン を打ったときは「パナマウンガー」と雄叫びを上げるそうです
写真の向こうに見える橋は12月20日の地図に記載されているCentennial Bridge 大陸橋です。私たちの船はこの大陸橋をくぐって太平洋に向かっています。
ついでにパナマに関係する二人の日本人を紹介しておきます。パナマ運河建設に青山士(アキラ)が従事しています。日本に帰国後その経験を生かし荒川放水路建設工事などに携わりました。東京都北区の「荒川治水資料館」は「パナマ運河博物館」と姉妹提携を結びパナマ運河コナーを設けています。
日本人で初めてこの地に足跡を残したのは1860年に日米修交通商批准書交換のために渡米した遣米使節団でした。彼らは前回紹介したパナマの鉄道を経由して渡米したのです。そのときの副使村垣範正は次のような鉄道印象記を残しています。「やがて蒸気も盛んになれば****凄まじき車の音して走り出たり*****馬の走りを乗るが如し。更に話も聞こえず殺風景」
パナマ運河の歴史をほんの少しだけ紹介しておきます。
1534年スペイン国王カルロス1世が調査を指示したことが始まりとされています。そこでパナマ市に彼の胸像がありました。(写真 CARLOS Ⅴと書かれていますがそれは神聖ローマ帝国のカール5世と同一人物からです。したがって私はこの胸像の表示には疑問を持ちました。すなわちCARLOS Ⅰと表記すべきだと思うのですが)
具体的には1880年スエズ運河で有名なフランスのレセップスの計画で始まりましたが黄熱病、技術的、資金的問題で1889年に断念します。
その前にすでに1850年~55年にこの地に鉄道が敷設されていました。これは1848年カリフォルニアで金が発見され北アメリカ東部から西部への一攫千金を目指したいわゆるゴールドラッシュに起因します。当時は東部から西部へは内陸部を通過するよりはカリブ海を南下してこのパナマ地峡を出て太平洋に入りカリフォルニアに行くのが近道だったのです。
その後アメリカ合州国は軍艦の移動を速やかにするためパナマ運河の開通を目指します。しかし当時この地はコロンビア領でしたがコロンビア議会は合州国による建設に反対します。そこでアメリカ合州国はこの地をコロンビアから切り離しパナマという国を作りそのパナマから運河建設の権利を得ることになります。(1903年)この経緯は上手にできた推理小説よりも面白いのですが長くなるので省略します。興味のある方は最近出た「反米大陸」(伊藤千尋著、集英社新書)で簡潔に紹介されていますのでご覧ください。詳しくは「パナマ地峡秘史」(ディヴィット・ハワース著、リブロポート社)をご覧ください。今も昔も変わらないアメリカ合州国の帝国主義的権謀術数が分かります。
1914年運河が開通し、運河地帯両岸にアメリカの永久租借地となった軍事施設がおかれ南米におけるアメリカの軍事拠点になります。その後1960年代からのパナマの民族主義の高揚がありついに1999年運河はパナマに返還されました。
パナマといえばパナマ運河です。画像の地図(ウィキペディアからの転載です)をご覧ください。上(北)がカリブ海、下(南)が太平洋で、パナマ運河の右に当たるところがパナマ市です。Culebra Cat とあるところより少し上に行くと湖に出会いますが、そこがガンボアで、そこまでパナマ市から専用バスで行きそこから約3時間で太平洋への出口バルボア港へのクルーズをしました。
次の日パナマ市からパナマ運河に沿ってバスでカリブ海に面したコロンに向かいました。途中でgatun locks ガツン閘門(注)の見学をしました。
(注)パナマ運河の一番上の海抜は26mあります。そこで上流と下流の端に扉を作り部屋(閘室)ができますがそれを通って船は上り下りをして運河を通過します。(約9時間)パナマ運河ではその閘門が地図で見られるように北から(上から)Gatun閘門(閘室3つ)、Pedro Miguel 閘門(閘室1つ)、Miraflores閘門(閘室2つ)です。
Fengさんコメントありがとうございます。さて中国については一番回数が多いようです。以下日付を列記します。左側のカレンダーをクリックしてご覧ください。
2006年4月12日(これは兵馬俑の発見者と私のツーショットの写真です、フイルム写真なので一回クリックして右下に出てくる拡大のアイコンをもう一度クリックしてください)。
2006年9月4日~2006年12月21日、
2007年2月28日~2007年3月6日、
2007年3月24日、 2007年3月28日、
2007年5月25日~2007年6月8日、
2007年7月30日~2007年8月9日、
2007年8月13日~2007年8月25日
以上です。お楽しみいただければ幸いです。