100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「伊藤氏寄稿文」編3 ヨルダン・コーヒー・結婚

2007年06月30日 08時44分02秒 | 伊藤氏寄稿文

中近東ではすっかりチャイに取って代わられたコーヒーですが、 ヨルダンではコーヒーではならないシチュエーションがあります。 以下はヨルダンのガイドJさんの物語です。

  2001年9月11日以降の01年、ヨルダンでは海外からの観光客がほとんどなくなってしまいフリーランスで仕事をしているプロのガイドの多くが仕事がなく厳しい日々をすごしていたそうです。 そんなとき風邪をひき泣きっ面に蜂の状態で会社の近くの薬局に行ったJさんは薬局の彼女に一目惚れしてしまった。 毎日毎日風邪薬を少量だけ買いに通った2週間後とうとう彼女がJさんに“もう治ったはずよ。そんなに毎日毎日薬を飲むのは身体によくないのよ。”とやさしく諭してくれたそうです。 そのときにJさんは自分の思いを伝えて次の週にデートすることを約束して付き合いが始まり1年後に結婚を考えるように、、。 

 まだまだ結婚に両親の関与が多く見られるイスラム圏での恋愛結婚は珍しいようです。  ご両親への挨拶は、先ず男性側が女性側にします。しかし本人が直接出向くのではなく、Jは一族で一番権威のある叔父に代理を頼みました。叔父さんは数人の代表団を結成して彼女の家に、、、。もちろん彼女側の家族もこの訪問がどんなものかは分かっています。 代表団が彼女の家について応接間に迎えられると着席。そこに必ず出されるのがアラブ式コーヒーなのだと。 コーヒーが出されると叔父さんは厚く礼を述べ、しかし厳かな口調で、来訪の意図を話し、自分たちの望みが受け入れてもらえないままではこのコーヒーを飲むわけにはいかないと伝えます。彼女のご両親も押し黙ってしばらく熟考したあと厳かに、代表団の望みを了承したことを伝えると、叔父さんは破顔して満面の笑みとともにおいしそうにとっくに冷てしまったアラブコーヒーを飲み干したあとすぐに新しいコーヒーがいれられたそうです。 現在2人には2人のかわいい子供がいてお父さんのJさんは転んでくじいた足を引きずりながらもがんばって仕事をしていました。

 (管理人)写真はヨルダンのアカバで伊藤さんが撮影したものでアラブコーヒーを入れているところ。2007年5月11日に紹介したようにここのコーヒーもトルココーヒー同じですが(こちらが元祖)トルココーヒーというと叱られるそうです。ヨルダントラディショナルコーヒーだそうです。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人5

2007年06月28日 09時13分06秒 | マリ共和国

 地中海⇔サハラ砂漠⇔トンブクトゥ⇔ギニア湾沿岸という交易中継地としてトンブクトゥは栄えたと前述しました。ところでその交易品はギニア湾沿岸からは「象牙」(ご存知の通り今でも象牙海岸という名前が残っています)、「金」(同じく黄金海岸)、「奴隷」(同じく奴隷海岸)がもたらされます。トンブクトゥを中継してそれをトゥアレグ人などの交易遊牧民がラクダ(注1)でサハラ砂漠を越え地中海交易に載せます。アラブとヨーロッパからの「ぜいたく品(luxury goods )」と途中のサハラ砂漠の岩塩を持ち帰ります。その塩はギニア湾沿岸地域へもたらされます。 

 (注1)ラクダは1500年または2000年以前(2説)にこの地にもらされ、サハラ交易が可能になりました。 

 この「金交易」について意外に知られていないことを紹介しておきます。エジプト、ギリシア、ローマなどでは昔から金は珍重されましたが、アフリカではそれほどのことはなく外部からの刺激により金採掘が行われるようになりました。そしてサハラ砂漠を中継してのこの西アフリカは11世紀~16世紀の国際経済で最も主要な金供給地(注2)になりました。中世後期ボヘミアで金鉱山が発見されるまで世界の生産量の3分の2を占めていました。

 (注2) 黄金国ジャパンを目指したコロンブスに対してポルトガルはこの金を目指してアフリカ西部海岸を南下したのです。しかしこの地に到達した頃はすでに枯渇寸前だったようです。

 「塩交易」は今に至るまで細々とトゥアレグ人によってサハラ砂漠からラクダに乗せられ運ばれています。その模様の同行取材がNHK?で最近放映されました。(今ではトゥアレグ人の大部分は定住生活をしています)

 写真はトンブクトゥの市場での塩です。厚さ5センチ、30センチ角の岩塩は日本円に換算して20円くらいでした。買って帰り食べて?見ましたが美味でした。しかし怠け者の私はそのたびにハンマーで粉砕することが面倒で5年たった今でも半分残っています。そこでグルメ嗜好の皆さんに無料で提供することにしました。先着一名様ということでお譲りします。コメントなどで最初に連絡いただいた方にお譲りします。トゥアレグ人によって運ばれてきたサハラ砂漠の塩、大変貴重ですよ。 

 次回は伊藤さんの「中東のコーヒーと結婚」の予定です。乞う、ご期待。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人3

2007年06月26日 08時52分57秒 | マリ共和国

 トンブクトゥにはかの有名な大旅行家イブン・バトゥータが1353年に訪れ半年間滞在しています。

 1588年~1853年に少なくとも43人のヨーロッパ人がここを目指しましたが成功したのはたった4人だけでした。最初に到達したのは1828年のスコットランド人のGordon Laing でしたがここで殺されます。次にやってきたのはおなじ1828年フランス人のRene Caillieでした。彼はアラビア語とイスラーム教を勉強してイスラーム教徒と偽ってここに滞在しました。ここを訪れ生きて帰りヨーロッパに情報をもたらした最初のヨーロッパ人が彼でした。写真は彼が滞在したヤヒアモスクの壁にある彼の銘碑です。

 寺島さんコメントありがとうございました。チョボひげを思い出しました。「ギリシア」編は今後断続的に掲載予定です。間違いを書く可能性もあるのでそのときはぜひこの欄でご注意をお願いします。また寺島さんのギリシアに限らず世界各地での面白い話があればこのブログに投稿してください。今後ともよろしくお願いします。


「西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人2

2007年06月24日 09時09分10秒 | マリ共和国

 トンブクトゥと聞いて何かわかる日本人は数少ないでしょう。

 しかし、ヨーロッパではすこし意味合いが違うようです。「ウイキペディア英語版」に「この町は神秘的、神話的なイメージを今日まで残している。イギリスの若者に尋ねた2006年のBBCの調査によれば34%がその存在を信じていないが、残りの66%が神話的場所(mythical place)との回答があった」と書かれています。 

 また同じウイキペディアは遠い場所を「ここからトンボクトゥまで(from here to Timbuktu)と表現すると書いています。というわけで、この町はヨーロッパ人にはかなり以前から神秘的、神話的な存在として知られていたようです。 

 このトンブクトゥ(Tombouctouは旧宗主国のフランス語で現在のマリ共和国の公用語でもあります。Timbuktuは英語)はトゥアレグ人の季節的なキャンプ地として10世紀ごろ始まります。その後地中海⇔サハラ砂漠⇔トンブクトゥ⇔ギニア湾沿岸の交易中継地点として栄えます。(交易内容については次回に紹介予定)そしてイスラーム文化、教育の中心地となり、最盛期にはコーラン学校180、人口100万人といわれました。この地を中心にいくつかの国家の興亡がありますが、対外的にこの地を有名にしたのはマリ王国(マンデ人の国家 現在のマリ共和国名はこの国名に由来します)のマンサ・ムーサ王(在位1312~37)でした。彼はメッカ巡礼に1万人(うち奴隷500人)の隊列を率い40頭のロバに大量の金を運びました。道中のカイロで気前良く金を喜捨しカイロの金相場が下落したという有名なエピソードがあります。

 これがヨーロッパの人々にこの地を神秘的なものにしました。 しかし、その後、対外戦争や、ポルトガルが直接にギニア湾沿岸に到達するなどでサハラ越えの交易が廃れ衰亡の一途をたどります。その上に最近では乾燥化が進みこの町全体がサハラ砂漠の砂に埋もれる危機に瀕しています。現在人口は2万人と推定されています。この地は世界文化遺産に1988年に指定されましたが、1990年~2005年には危機状態にあるとされました。

 写真は町のメインストリートです。


西アフリカ」編 トンブクトゥとトゥアレグ人1

2007年06月22日 08時55分45秒 | マリ共和国

 西アフリカ訪問(マリ共和国、ガーナ共和国、ベナン共和国)は2002年のことなのでフイルム写真も記憶も劣化しつつあります。そこで「中国シルクロード」「中米」「ギリシア」に続いて「西アフリカ」編を時々入れることにしました。今後4編を順番に紹介していきます。旅程図は6月16日をご覧ください。 

 最初にサハラ砂漠の周辺諸国(ニジェール、マリ、ブルキナ・ファソンなど)に100万人~350万人と推定されるトゥアレグ人を紹介します。

 トンブクトゥの空港で飛行機待ちをしていた時1人の少年に出会いました。片言の英語で話をしました。勿論マリ共和国は多民族国家なので君は何人か?と尋ねました。彼の答えは「トゥアレグ人」との答えだったので、私「ラクダドライバーだな」。彼「イエス、そしてベラはロバドライバーだ(注1)」。私(ちょとからかい気味に)「日本人は?」。彼「ヤマハ(注2)ドライバーでアメリカ人は飛行機ドライバー」という答えが返ってきました。お見事!

 (注1) ベラ人はトゥアレグ人に隷属する奴隷。これについては後述の予定。

 (注2) この地方での単車は日本のヤマハのようです。誇らしげにヤマハの自動二輪を乗り回している青年に出会いました。

  写真を見てください。(アフリカ編の写真はすべてフイルム写真なのでこの6月16日にお願いした方法でご覧ください)どうです、誇り高く、威厳のある民族でしょう。トンブクトゥでのトゥアレグ人ガイド、モハメッドさんです。それに対して隣にいる日本人(私)の頼りなさ。背景の土のモスクに突き出た棒のようなものは修理の時の足場だそうです。

 この服装から彼らは「青い民、藍の民」とも呼ばれます。彼らの宗教は民族伝統の宗教色を遺しながらのスンニ派のイスラム教徒ですが、面白いことに女性はヴェールを被りません。成年男子だけです。この服装は砂漠の風と砂から身を守るためと、悪霊から身を守る(ウイキペディア英語版説)、厳格な階層社会なので目上の人を直視しない(lonely planet 説)ためなどの説があります。

 宮崎駿の「風の谷」のナウシカのイメージのモデルはこのトゥアレグ人だそうです。

 彼らは誇り高い民族ですが、各々の国々では少数民族です。そのため自前の国家または自治権を要求してそれぞれの国と対立してきました。ここマリでも1990年~1996年にかけて内戦がありました。今は一応収まっていますが、各国ともまだ火種は残っているようです。


「世界の砂漠」編 マリ共和国 サハラ砂漠7

2007年06月20日 09時09分09秒 | マリ共和国

  ラクダドライブしていた時、砂漠の井戸に出会いました。 

 次回から「アフリカ」編としてこのトゥアレグ人とその奴隷ベラ人を紹介します。 

 (附録)  先日NHKで「新シルクロード ウズベキスタン、キルギス編」が放映されました。そこでブハラのユダヤ人が紹介されていました。このブログでも2005年12月9日、11日で紹介しているので参考にしていただければ幸いです。そこでは当時600人のユダヤ人が居住していると書きましたが、今回のテレビでは150人にまで減少しているとのことでした。画面にかってのアメリカの国務長官オルブライトさんが登場しましたが、彼女はキリスト教徒(カトリック?)のユダヤ系アメリカ人です。

 なおここはツアー観光コースに入っていません。


「世界の砂漠」マリ共和国 サハラ砂漠6

2007年06月20日 09時04分24秒 | マリ共和国

 やはり砂漠といえばここもラクダです。(こちらが本場?)このラクダに乗ってサハラ砂漠をドライブしました。ドライバーはトゥアレグ人です。

 世界各地でラクダに乗りましたが、普通、ラクダに乗るときはラクダが急激に頭を持ち上げ、降りる時は急激に頭を下げるので、特に私のように手に障害があるものには危険です。しかしここのラクダは地面に平行に行動してくれるので助かりました。さすがラクダの名ドライバー・トアレグ人です。


「世界の砂漠」編 マリ共和国 サハラ砂漠1

2007年06月16日 08時45分38秒 | マリ共和国

 地球上最大の砂漠サハラを紹介すると予告をしましたが、なぜか好い写真が見つかりません。特に飛行機から見たサハラ砂漠の間をうねるように流れるニジェール河の写真が見当たりません。というわけで今回紹介するのはマリ共和国のトンブクトゥで見たサハラ砂漠です。(正確に言えばサハラ砂漠の周辺サヘルかもしれません)風紋が鮮やかでした。

 なお写真は質の悪いプリントフイルム写真です。一度写真をクリックすればすこし拡大されますが、そのとき画面の右下に拡大のアイコンが出ますのでそれをもう一度クリックしてください。


「世界の砂漠」編 ヨルダン ワディ・ラム7

2007年06月14日 08時55分41秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

 砂漠、ラクダとくれば中東ではベドウィンです。(アラビア語ではベデゥbedu)しかし現在このヨルダンで遊牧をしている人たちは少なくなり、このワディ・ラムでは40家族ぐらいと推定されています。彼らの多くは観光業に携わっています。2006年6月14日に紹介した昼食時のCaptain Desert Camp はこのワディ・ラムにありますが、ホテル?でもあります。写真の岩山の下にある黒く見えるのがホテル?のテント客室群です。ここに泊まりたかったなー。(アルコールは厳禁ですが)