ベナンでのガイドがあまりにも頼りないので皆さんからブーイングが起き最終日には現地手配会社の社長さん自らのお出ましとなりました。写真は社長のラジンさんです。イスラーム教徒でメッカに巡礼したことのあるハッジ(注)です。彼はベナン大統領の英語通訳者でもあります。(ベナンの公用語はフランス語です)
(注)メッカに巡礼した人はハッジと呼ばれ社会的に尊敬されています。
この旅行は2002年2月でしたがラジンさんは前年アメリカ合州国で起きた9・11のテロについて触れテロそのものはよくないが、アメリカが憎まれるのは当然であるし、その報復戦争はするべきではないと批判的でした(その翌年2003年にアメリカのイラクへの侵略戦争がはじまりました)。
今回の旅行ではイスラーム教徒にもキリスト教徒にも出会いましたが、なんとなくキリスト教徒の人たちには自信がなく、自己のアイデンティティを持たないのに対してイスラーム教徒の方は自己がしっかりしているように感じました。
今回で西アフリカ編を終了します。
この海岸で子供たちが奴隷交易について勉強をしていました。
奴隷交易はポルトガルが先鞭をつけたのですが、一番利益を得たのはイギリスでした。そして最初に奴隷交易を禁止(1807年)したのもイギリスでした。そのイギリスで最も利益を得たのはビートルズの発祥地で有名なリヴァプールでした。奴隷交易の黄金時代、この交易に従事したヨーロッパの船のうち、40%以上がリヴァプールの船主でした。このリヴァプールで1999年12月9日、市参事会は、大西洋奴隷交易のなかでこの町が果たした役割を正式謝罪する決議を満場一致で採択しました、そして2007年に奴隷交易をテーマとする世界初の博物館、「国際奴隷貿易博物館」がオープンしました。(「大英帝国という経験」p173~174)
当時はもちろんこのような門(帰らずの門)があったわけはありませんが、奴隷たちはここを通って乗船しました。
アフリカからのアメリカへの奴隷の数は諸説ありますが、最新の説は1050万人~800万人のようです。16世紀のアフリカ全体の人口は5500万人と推定されているのでその悲惨さは想像を絶するものがあります。なおその流失先の地域は、ブラジル38%、英領カリブ18%、仏領カリブ17%、スペイン領アメリカ16%、英領北アメリカ4%と推定されています。ブラジルが断然トップですね。
アメリカ合州国の前大統領ブッシュがブラジルの大統領と面談した時、「ブラジルには黒人がいますか」と発言し側近をあわてさせた話は、イギリスの「首相ブレアと共に」を“with he”(正しくは”with him” 蛇足)と発言して失笑をかった話と共にちょっと有名ですね。
写真は何の変哲もないようですが、ここで奴隷たちは人間としての魂を抜きます。人間でなくなってアメリカ大陸に連れて行かれるのです。ここでわかるのはアフリカでの奴隷は3月7日に紹介したように一定の人間性を認められていますが、アメリカ大陸では全く人間でなくなるわけです。
「西アフリカ」編 アルビノ2 サリフ・ケイタ1
マリ共和国のセグーでグリオ(アフリカの吟遊詩人)のCDを探していた時店の人からグリオではないがマリで最も著名なシンガーソングライターということでサリフ・ケイタ(1949~)を紹介されました。私は音痴なのでこのCDを1,2回聞いただけで放置していました。最近整理をしようと思って念のためウィキペディアをしらべてみるとアフリカのみならずヨーロッパでも著名な音楽家でした。そして彼がアルビノであることを知りました。彼は古代マリ国王の子孫ですが、アルビノのために一族や社会から迫害を受けました。現在アルビノの人たちの支援活動にも取り組んでいます。
CDのジャケットを紹介しようとしましたが着色しているようにも見えるのでウィキペディアの写真を拝借しました。
写真を見てください。船に乗り移ろうとしている女性がいます。肌が白いですね。最初はヨーロッパ系の人がこの地に住んでいるのかと思いました。違いました。アルビノという色素の遺伝子欠損症です。
アフリカではアルビノの人は差別や迫害を受けることがあります。アルビノの足や血は薬効があるとして人身売買や殺害が行われたというニュースがタンザニアから伝わってきています。(週刊金曜日2010年9月3日)
生活は大変のようです。人口は最初2万人と紹介しましたが手持ちの“lone planet”
2002年版では2万7千人です。2万人はウィキペディア(英語版)の2010年の記録です。人口が減少しているようです。
このような湖上の不便なところに2万もの人が生活している理由は、この地の奴隷交易国家ダホメー王国の奴隷狩りから逃れるためでした。それではなぜ湖上なら安全だったのでしょうか。それはダホメー王国の宗教(ヴードゥー教?)には戦士が水の上で闘うことを禁止するというタブーがあったからでした。