かつての宮殿である墓所の正面です。
初代のガンダ国王ムテサ1世から最後の王エドワード・ムテサ2世まで4代のお墓です。ウガンダはイギリス植民地でしたが1962年に独立しその時の初代大統領になったのがエドワード・ムテサ2世で首相がオボテでした。間もなくオボテはムテサ2世を追放し自ら大統領になります。ムテサはイギリスに亡命しそこで1969年に亡くなります。オボテも陸軍総司令官アミンに追放されます。この悪名高いアミンは日本のプロレスラー、アントニオ・猪木との格闘技計画がありましたが失脚してお流れになりました。その後も相次ぐクーデタがありますが省略します。
ウガンダには57民族がありこの民族対立が国情不安定の主な原因とされています。57民族のうち4民族に王様がいるそうです。
この地域にはインド人が古くから移住してきています。差別と貧困からの脱出からか、不可触選民の出身が多いようだとは、ウガンダで出会ったJICAの関さんのお話です。写真はレソトのマセルからヨハネスブルクまでのバスの運転をしてくれた南アフリカ国籍のインド人二人です。
イギリスに忠誠を誓うインド植民地出身のエリートであったマハトマ・ガンディーは南アフリカのインド人貿易商の訴訟問題をきっかけに南アフリカに21年間留まり、その中でおのれ自身の人種差別に出会い次第にイギリスからの独立を考えるようになったことはあまりにも有名な話です。そのガンディーについては後日ヴィクトリア湖のナイル川源流でもう一度に触れる予定です。
ヨハネスブルク空港での中国人のサインです。最初アルファベットで書いたので中国文字でと頼みました。書き始めて「王榮」でしばしペンが止まりました。少し考えていました。そしてゆっくりと「傑」を書きました。どうも在南アフリカ11年で自分の名前の中国文字を忘れかけているようでした。
今回の旅行の同行者の人たちにはかなり国粋主義的?な人がいたようで、「ニーハオ」(中国語のこんにちは)と言われて私には理解できませんが、「気分が悪い」と言っていた人たちがいました。中には日本人だと訂正したところ相手が「ソーリー」と言ったと、鬼の首でも取ったように言いふらしている人がいました。在日中国人の友人を持つ私は少し悲しくなりました。
なにはともあれアフリカでは日本人の影は薄いようで東洋的な顔をした人はすべて中国人と思っているようでした。これらについてはすでに「東・南アフリカ」の2007年11月8日でケープタウンの中国語の掲示などで触れています。
アフリカでも最貧国とされ鉱物資源もないレソト(後日紹介予定)で中国人の20代から30代にかけての若者数人がマーケットリサーチに来ていたのに出会い少しびっくりしました。
写真はヨハネスブルクの空港で出会った南アフリカ在住11年になる中国人です。親日的な感じで向こうから話しかけてきました。仕事はEducation(教育)でエンジニアと言っていました。
ソエトのガイドのサインです。二番目の名前の中ほどにあるWの字をVの発音をしていたのでオランダ系であることわかります。 「いくつの言語を話しますか」の質問には4つ、「アフリカーンス」「英語」(ともに南アフリカ共和国の公用語)「オランダ語」「ベルギー語」と答えてくれました。ベルギーはご承知のようにオランダ語の方言「フラマン語」とフランス語の「ワロン語」に分かれるので「フラマン語」か、と聞くとそうだと答えてくれました。
ついでに2007年11月12日に書いている南アフリカ共和国のプレトリアの地名変更問題について、今回、新しい情報があったので紹介しておきます。2010年のサッカーのワールドカップの終了後に正式に「ツワネ」と改名されることになったそうです。
写真はこのソエトでの現地ガイドです。
ご覧のように白人なので「あなたはアフリカーナ(注)ですか」と尋ねました。彼は非常に喜んでそうだと答えたまでは良かったのですが、後がいけません。私に対して「あなたの英語は素晴らしい、ロンドンで勉強したのか」などのオベンチャラで恥ずかしくて身がすくむ思いをしました。私は英会話はほとんどできません。ただ「アフリカーナですか」と「いくつの言語を話しますか」の二つの質問をしただけです。なぜこのようなオベンチャラが出たのかと考えてみました。どうやら「アフリカーナ」という言葉が理由のようです。「アフリカーナ」と呼ばれることがうれしいようです。
レソトのマセル空港のチェックインカウンターに黒人の中で一人だけ白人の威張った感じの女性がいました。「アフリカーナ?」と尋ねた途端相好を崩してペラペラと話しかけてきました。ほとんどわかりませんでしたが、その中で「アフリカーンスを話すのか」ということはわかりましたが,これにはびっくりしました。「アフリカーンス」というのは「アフリカーナ」の母語でオランダ語の変化した言葉です。「アフリカーンス」を話す人は極めて限られているので、「アフリカーナ」がよほどうれしく、親密感を感じたのだと思いました。
もともと彼らはオランダ語の「百姓」を意味する「ボーア人」と呼ばれていました。しかし「ボーア人」と呼ばれることを好まないようです。皆さんが南アフリカ共和国を訪れる機会があった時は彼らに「ボーア人」と呼びかけるのではなく、「アフリカーナ」と呼んであげてください。
(注)2007年11月12日に「アフリカーナ」「ボーア人」などについて紹介しているのでご覧ください。左の欄の「バックナンバー」と表示してあるところの2007年11月をクリックしてください。
今回の旅行は7カ国となってはいますが、南アフリカ共和国のヨハネスブルクが南アフリカ地方のハブ空港になっているので行きも帰りもここに立ち寄りました。そこで飛行待ちの時間を利用してのソエト見学になりました。
ソエトの由来は“South Western Townships” です。かの悪名高いアパルトヘイト政策(有色人種差別隔離政策。日本人は名誉白人という不名誉な名前でこの対象にならなかった)により多くのアフリカ系の人たちがこの地に住むようになりアパルトヘイトの象徴の地といわれてきました。1976年このソエトで抗議の蜂起がありアパルトヘイト政策が国際的に大きくクローズアップされこれがアパルトヘイトの終わりの始まりとされています。1994年アパルトヘイトは廃止されこの地の再開発がおこなわれています。
飛行機待ちの時間利用なので記念碑的な建物などの見学はなくただただこの地をバスで通過するだけでした。そこでバスからみたソエトを3枚紹介します。
ソエトの入り口です。
今回訪問したアフリカ諸国はいずれもエイズ感染者が多いことで知られています。たとえば、レソトでは国民の4分の1の人たちが感染者といわれています。死を待つための病院もありました。南アフリカから来た現地ガイドは40%とも話していました。 1990年に220万人であった人口が、2006年には180万人と激減しています。平均寿命は60歳から35歳になっています。
そこで写真のような看板が首都マセルの目抜き通りにありました。
予定を2日間も遅れて16日に帰宅しました。最後の行程レソトのマセルから南アフリカのヨハネスブルグへの飛行機が悪天候のため運航中止になったためでした。写真はマセルでの悪天候のため空しく飛行場に留まる飛行機です。それほど天候は悪くないように見えますが、運航中止になった後、しだいに天候回復した時の写真です。
というわけで?構想がまとまっていないので「東南アフリカ7国」の本格的な紹介は次回からにします。また、今使用しているPCの調子が非常に悪く新しいのに買い換えることにしたので、その準備のためもあって再開は22日ごろの予定です。
オカダさんコメント有難うございました。今後ともよろしくお願いします。たくさんの批判的なコメントも含めて期待しています。