さて騎士になったドン・キホーテはいろんなことをしでかします。その一つにドン・ホーテは牛車の檻に閉じ込められ村に連れ戻されるという事件があります。(前編3p248~286)「たまたま旅籠の前を通りかかった牛車の御者と話をつけ*****。丸太を格子状に組み合わせて、中にドン・キホーテがゆったり入ることができるほどの一種の檻をつくった」(前編3p260)この写真の牛車がそれだというわけです。
この写真のスペイン語を訳してくださいと世路さんにお願いしました。この文章は「ドン・キホーテ」の本文の一節でした。
ドン・キホーテはつつがなく(ではないが)騎士の叙任式を終え旅籠(城)出発の場面でした。「ドン・キホーテが宿屋を出たのは東の空が白み始める頃だったと思われる。いまいよいよ正式の騎士になったというので胸を躍らせ、嬉々としていた彼の姿はいかにも凛々しかった。実際、彼の喜びはあまりにも大きく、あたかも馬の腹帯からも溢れ出るかのようであった」(前編1p83)
さてこの写真の場面は?と尋ねると世路さんは以下の該当ページを指摘しました。ドン・キホーテは旅籠の主人に旅籠(城)の不寝番を命ぜられます。「甲冑の不寝番が実行に移されることになった。ドン・キホーテは甲冑一式を持ち出して、庭の井戸のそばにある石の水瓶の上に置くと、盾に腕をとおし、槍をかいこんで、意気揚々と水瓶の前を行きつ戻りつしはじめた」(前編1p74)
ドンキホーテは「ラ・マンチャ地方のある村」(岩波文庫前編1p43 以下岩波文庫は省略)の郷士として登場します。(ラ・マンチャ地方は3月29日の旅程図)
騎士道物語を読みすぎて気が狂った彼は「***暴虐、正すべき不正、改める不合理、排除すべき弊害のため**」(前編1p55)旅に出かけます。ところが彼は正式の騎士ではありません。そこで彼は旅の最初で泊まった旅籠を城、宿屋の亭主を城主と思いそこで騎士に叙任してもらおうと決意します。
セルバンテスが泊まったとされるプエルト・ラピセという旅籠がラ・マンチャ地方に観光施設としてあります。以下、この旅籠にあるものを見ながらドンキホーテを紹介していきます。
写真はこの旅籠の看板です。Ventaは旅籠です。したがってキホーテの旅籠というわけです。「ドン」が欠けています。「ドン」というのは貴族の称号です。そこで私はまだ貴族にはなっていなかったので「ドン」がないのかと思いましたが、世路さんのお話ではそうではなくドン・キホーテはキホーテと呼ばれることが多いそうです。
スペインといえば、小説ドンキホーテとその著者セルバンテスを一番に思い出す人は多いと思います。ヨーロッパ連合EUの共通貨幣EUROの硬貨の片面は共通ですが、もう片面は各国別です。スペインではその片面にはサンティアゴ・デ・コンポステーラ、現国王と並んでセルバンテスが刻印されています。
というわけで今回の旅行でセルバンテス、ドンキホーテのゆかりの地を回って撮影した写真を紹介していきます。
ところが私はセルバンテス、ドン・キホーテについて殆ど何も知りません。そこで帰国後撮影した写真を持って、私の近所にお住みの著名な在野のセルバンテス研究家世路蕃太郎さん(セルバンテスを擬した筆名)を尋ねいろいろお話をお伺いしました。以下の記述は世路さんのお話が元ネタです。
写真は1930年にセルバンテスを記念して作られたマドリッドにあるスペイン広場です。中央の白い像が著者セルバンテスです。左の乗馬で手を上げているのが主人公ドンキホーテでその右が従者サンチョ・パンサです。少し離れて左側にドンキホーテが理想とする想像上の貴婦人ドゥルシネア、反対側がこの貴婦人のモデルになった実在?の百姓娘アンドレサ・ロレンソです。
フランス革命の伝統を引き継ぎナポレオンも反カトリックでした。スペイン各地で修道院、教会が破壊されました。その一つがバルセロナ郊外にあるモンセラット修道院です。
この修道院は1025年に創建され1811年にナポレオンの軍隊に破壊され、1830年代まで放置され、1858年に再建されました。ナポレオン時代多くの宝物は略奪されましたが、本尊の黒いマリア像(黒いのは元々でなく後に煤で汚れたようです)だけは土地の人が隠して守っていました。現在カタルーニア地方の守護聖人です。 写真はこの黒いマリア様です。
実はこの忠誠広場はガイドブックには記載はありませんし勿論ツアーコースにもありません。この存在を知ったのは、山川出版社の「スペイン・ポルトガル史」(p212 p240)でした。プラド通りにあるということなのでプラド美術館の観光後の自由時間に出かけることにしました。現地ガイドに場所を聞き出かけましたが、方向音痴の私はウロウロするだけです。道端に止まっていたパトロールカーの警察に尋ねました。(写真)私のお粗末な英語のせいもあって警察官も良く分からないようです。そのうち日本語が分かる警察官が来るので少し待てとのことで時間を気にしながら待っていました。スペインの警察官は親切でした。
しばらくして無線で私の英語よりはましというような日本語が聞こえてきました。そこで話しているうちにパトロールの警察官が分かった様で道筋を教えてくれました。そこでようやく見つけたのが前頁の写真というわけです。
ところがこの「忠誠広場」は閉まっていて外からの撮影になりました。周りは全く閑散としていて観光している人は一人もいません。近くで道路掃除をしている人に聞いてもその存在を知らないようです。私のお粗末な英語のせいもありますが、警察官もあまり関心のないところのようです。どうも対ナポレオンの戦いは風化しているような気がしました。
ゲリラというカタカナ言葉は誰でも知っていますが、スペイン語起源であることは比較的知られていないかもしれません。スペインは一時ナポレオンに支配されていたことがあります。ナポレオンの兄がホセ1世としてスペイン王になりました。(1808~1813)そのときスペイン各地で抵抗運動がありました。その抵抗の戦いがスペイン語のゲリラ(小戦争)でした。これ以後ゲリラという言葉が世界に広まりました。
そのゲリラの象徴的戦いがゴヤの「5月3日」(ただし一方的にスペイン人が射殺される場面)に描かれている1808年のマドリードでの蜂起です。この蜂起を顕彰して1840年に建立されたのが写真の忠誠広場のオベリスクです。
こちら側の先頭はアフリカ王という異名のあるアフォンソ5世(1432~1481)です。次が誰でも知っている喜望峰を回ってインドに到達したヴァスコ・ダ・ガマ(1460~1524)です。彼はアフリカ東海岸からインドにかけてはアラブ人水先案内人を雇いました。この海域は古くから季節風モンスーン(モンスーンはアラビア語起源)を利用しての交易が盛んでした。
この水先案内人について遠藤晴男はその著「オマーン見聞録」(p63)で以下のように書いています。「ヴァスコ・ダ・ガマの水先案内人を務めたのはオマーン人の有名な船乗りのアハメッド・ビン・マジッドで*****。筆者は、日本に最初にやってきたポルトガル船にもオマーン人が乗っていなかったと調べてみたが、その痕跡は全く見当たらない」