15日間のトルコを通じての現地ガイドはハーカンさんでした。写真はエフェソスの遺跡で説明しているハーカンさんです。
彼はイスラーム教の信者ではなくトルコでは珍しい存在だと自分で説明していました。なかなかのナショナリストでビザンチン帝国を1453年滅ぼしたオスマン帝国の征服王メフメトⅡ世(在位1951年~81)を尊敬していました。また4世紀にエジプトのカルナック神殿から運ばれてきたオベリスク(次ページの写真)がイスタンブールにありますが、これを見て私がハーカンさんにからかい気味に「エジプトが返してくれといっているよ」というと絶対に返さないと本気でいきまいていました。
彼の日本語は完璧でした。バスの中で日本からの添乗員が日本語に詰まった時すかさず助けを出した時は全員拍手喝さいでした。日本人よりも上手な日本語の使い手でした。その彼は日本語を始めてから5年くらいで、英語はコドモの時からでペラペラのようでした。英語のガイドもするそうですが、日本語の方が疲れないそうです。語順が同じからだそうです。
ちなみに、トルコでは半分以上の大学に日本語学科があるそうです。
彼の祖父は現在のギリシャ領に住んでいたそうです。第一次世界大戦でトルコが破れ当時ギリシャに住んでいたトルコ人は現在のトルコ領に戻り、トルコに住んでいたギリシャ人はギリシャに戻りました。現在のトルコ領にあったギリシャ人の住居跡(カッパドキア近くのムスタファパシャ村)が観光地になっています。(次々ページの写真)
コンヤはイスラーム教のスーフィズム・イスラーム神秘主義の一つメヴィレヴィー教団(旋舞教団)の発祥地として有名です。創始者はジャッラールッディーン・ルーミー(?~1273)です。牧野信也氏によれば「スーフィーとは神秘家をさすアラビア語であるが、元来これは(スーフ)『荒い羊毛』をまとった者、すなわちはかない現世をのがれ、粗末な衣をまとって禁欲的な生活をするムスリムを意味しており、後に神秘家そのものをさすようになった」(「イスラームの根源をさぐる」p55)また「(日本の)踊る念仏を思わせるもので、理論、理屈や教義としての宗教ではなく、体で、そして全存在で受け止め、体験できるものであったので、忽ち、民衆の間に広まっていった」(p59)
私たちはイスラーム教にはスンニ派とシーア派しかないような理解をしていますが、このスーフィズムはイスラーム教史で重要な役割を果たしています。
さてこの旋舞教団の創始者ルーミーの廟(博物館)に彼の言葉が書かれていました。近くに日本語訳もありました。(写真をなぜか写していない)「私のもとへ来なさい。あなたが無神論者でも偶像崇拝者でも拝火教信者でもかまわないから来るのです」私たちが理解するイスラーム教ではないですね。
1927年アタチュルクによってこの教団は解散されましたが、ルーミーの廟は博物館になっています。そしてその特異の旋舞も観光用として毎年12月10日~17日だけ公開されているとガイドブックには書いてありましたが、なぜか2000年10月でも見ることができました。(写真)ガイドブックにもこの写真が載ってないので貴重?のような気がしたので紹介します。
トルコのコンヤで早朝の散歩をしていた時、写真のようにパンを売っていた青年?に出会いました。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が出てきました。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。
トルコはクルド人を迫害し、アルメニア人の虐殺に対しても謝罪もしていません。しかし一人一人のトルコ人は非常に親切でした。しかも親日的でした。
ブルガリアのプロヴディフ民族博物館で奴隷が描かれている壁画を見た時、ふとスパルタクス(注)の故地がブルガリアではなかったかと思いテオドラさんに確認しました。すると彼女は誇らしげにそうだと答えモニュメントは何処そこにあり、その他詳しく話してくれました。(英語なので殆ど理解不能)そこで私は今の話を同行の皆さんにも話してくださいと頼みました。彼女答えて曰く「日本人観光客はパチパチ(写真を写す格好)とショッピングだけに興味があるようなので」ということで話してくれませんでした。これにはひどく傷つきました。この一言で彼女は私の忘れえぬ人になりました。旅行するたびにこのことを思い出します。
(注)ブルガリアの地の先住民トラキア人の剣闘士奴隷で古代ローマを震撼させた奴隷反乱(BC73~71)の指導者。ハリウッド映画にもなっていて、確かカークダグラスが主演。
なお剣闘士奴隷について余談話を少しだけ。彼らは奴隷の中でも最下層とされていましたが、一面、現代のアイドル的な存在でもあリました。有名なポンペイの剣闘士訓練所の遺跡に貴婦人の遺体が発見されています。(未公開)アイドルとのデイト中にヴェスヴィオ火山が噴火したのです。
プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならないという観光小冊子に次のような文章がありました。
The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .
(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさに1人のトラキア人であったことは疑いありません)(私注 実は古代ローマでの剣闘士奴隷にはトラキア人がかなり多かったようです)
写真は観光案内の掲示板です。普通英語表示を期待するのですが、ここでは違いました。ブルガリア語、ドイツ語、ロシア語でした。ドイツ人観光客がここでは一番多いそうです。ご覧のごとくブルガリア語はロシア語と同じキルル文字で表記されます。ちなみにブルガリアの北隣のルーマニアはラテン文字です。
お金がなく、しかもケチで、外国語がダメで、体に少し障害があり、年寄りで、そのうえ稀代の方向音痴の私にとって外国旅行はパックツァーでしかありません。そうするとその土地の人たちとの「出会い・ふれあい」はほとんどありません。その数少ない「出会い・ふれ合い」を紹介します。
ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました)
テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。 長くなりそうなので次回へ。
(注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を 一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりま した。