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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ロマンチック・ドイツ」編 ミュンヘン

2021年05月21日 07時53分11秒 | ドイツ

 今回の旅行の最終地はミュンヘンでした。今回の旅行でずっと気になっていたことの一つに写真左中のようなヨーロッパで珍しい物貰いの人たちでした。特にミュンヘンで多かったような気がします。”Ich habe Hunger”(わたくしは飢餓状態です)と書いた札を掲げていました。教会の前が多かったようです。どうやらトルコ人のようでした。1998年ことですが今は?
 街をぶらぶらしているとこのような日本語での案内の店がありました(写真左下)
 写真左上は1972年のオリンピック競技場です。
 写真右下の中ほどの建物はBMW本社です。
 写真右上はミュンヘン郊外にある1869年から17年にかけて建てられたノイシュヴァインシュタイン城です。
 今回で「ロマンチック・ドイツ」編を終了します。次回からは?
 

「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道4 アウグスブルグ フッゲライ

2021年05月18日 07時51分35秒 | ドイツ

 わたくしたちのロマンチック街道の旅はアウグスブルグが終着点でした。この地での観光はなぜか「フッゲライ」だけが記憶に鮮明であとは忘却(1998年のことですから)(以下2008年9月15日の修正再録)
 このフッゲライは通常たいていのパックツアーでは観光コースに入っていません。 このときも予定には入っていませんでしたが、私がしつこくバスの運転手を巻き込んで頼み込み、行くことができました。通常はこのような変更を旅行業者はしません。
 しかしアウグスブルクを観光される方には必見のところです。                                      
そのフッゲライというのはドイツ後期中世の大富豪フッガー家(注)が貧民救済のため1517年~1525年に建てた「世界最初の社会福祉集合住宅」です。現在も入居者は年に日本円にして約100円というウソのような家賃で55歳以上のアウグスブルク市民で既婚者、双方がカトリックという条件です。

(注)フッガー家は有名なイタリア フィレンツェのメディチ家の数倍の資金力を持つ大富豪で当時のヨーロッパの政治を左右できるほどの力がありました。宗教改革の発端となった贖宥状(免罪符)の販売はフッガー家がカトリック教会に貸し出した資金の回収のためでした。また神聖ローマ帝国皇帝カール5世選出の買収資金もフッガー家から出ていました。

通常は一部屋が一般公開されていますが、このときはなぜか公開されていなく見学できませんでした。文献によれば間取りは3部屋、台所、風呂場つきで60平方メーターです。部屋数は文献によって多少の差が有りますが大体100室程度のようです。
 ここで見かけた仲のよい幸せそうな老夫婦の姿が、一生の殆どをひとりで生活してきた私には23年(1998年)経過した今でも忘れられません。 
私たちが訪れた時、キリスト教の儀式が行われていました



「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道3 ディンケルスビュール

2021年05月15日 07時52分47秒 | ドイツ

 ディンケルスビュールも中世の面影を強く残す城壁と濠に囲まれた町でした。写真右上は城門です。ここから入ります。写真左は15世紀創建の聖ゲオルグ教会です。この塔に上りみた市街地風景が写真右中です。濠にも囲まれているディンケルスビュールです。(写真右下)

「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道2 ローテンブルク

2021年05月12日 07時52分30秒 | ドイツ

 ロマンチック街道次の訪問地はローテンブルクでした。観光はフリーでした。街をぶらぶらしました。「全ドイツを通じて、これほど中世都市の姿の姿を今日再現できた町はない」(ブルーガイド・ワールド ドイツP15 )と記述されてように町は中世的雰囲気を漂わせていました。(写真下)街頭でリンゴジュースを売っていました。ノンアルコールで濃厚ビタミンと書かれていますね。いただきました。美味しかったです。(写真下右) 
 「中世犯罪博物館」を訪れました。しかしなぜかアルバムに写真が一枚もありません。というわけで、ここでいただいたリーフレット日本語版の一部を紹介します。(写真上)左は責め道具です。「1」木のカラー;服装規定違反女性のため 「2」辱め用のマスク;おしゃべりの過ぎる女性用 「3」大きなロザリオ;不熱心な信徒用 「4」辱めのマスク;長い鼻付き 「5」飲んべえ用の樽;居酒屋の常連の大酒のみを懲らしめるため 「6」辱め用のマスク;豚のように振る舞う男性用 「7」貞操帯;既婚女性の貞操のため 「7」 二輪首かせ;ふたりのいがみ会う女性用
 厳しいですね。この件に関して「ドイツ歴史の旅」(坂井栄八郎著)は以下のように叙述しています。
 「中世の諺に『都市の空気は自由にする』(Die Luft der Stadt macht frei)というのがある。***これは領主に隷属する農奴身分の者も、都市に逃げ込んで無事に逃げこんで無事に1年と1日を過ごせば、農奴身分から解放されて市民の仲間にいることができる(という意味) ***ここで勘違いして、領主の法はきびしく、都市の法はあまかった、などと考えてはいけない。***都市というのは***同格者のヨコの連帯を組織原理している***これを破れば***きびしく罰せられる。***いまは観光用の見世物になっているが、(この博物館のこと)都市当局の拷問のすさまじさはほかの権力に劣るものではない」(p120)


「ロマンチック・ドイツ」編 ロマンチック街道1 ヴュルツブルク

2021年05月09日 07時51分38秒 | ドイツ

 ヴェルツブルグ〰フッセンまでの350㎞の道がロマンチック街道と呼ばれています。わたくしたちの旅は途中のアウグスブルグまでで東のミュンヘンに向かいました。写真左の地図をご覧ください。(ルフトハンザ航空案内パンフレット日本語版から)
 まずはこの街道の出発地ヴェルツブルグから。写真右上は12世紀から18世紀まで大司教の居城マリーエンブルク要塞です。現在ブドウ畑に囲われた博物館になっています。わたくしが購入したフランケンワインはこの畑のブドウかな?中世ヨーロッパ特にドイツではカトリックの大司教と世俗の領主を兼ねているところがありました。
 18世紀になりこの世俗の領主と大司教を兼ねた領主は町の中心に移りました。レジデンツ(宮殿)と呼ばれています。写真右中はその内部です。ここの天井フレスコ画は世界最大だそうです。
 写真右下はこの町で出会った親子です。赤ちゃんは泣いているかな 笑っているのかな。

「ロマンチック・ドイツ」編 バンベルク

2021年05月06日 07時53分40秒 | ドイツ

 バンベルクでの一番忘れられないものは、燻製ビールとフランケンワインです。自由時間に一人で出かけて燻製ビールの操業1678年の醸造元の酒場でいただきました。写真右上はその時のコップのコースタ―です。フランクトゥールというドイツ文字で読みにくいですが、操業1678年とRAUCHBIER(英語でsmoky bier、燻製ビール)とありますね。その由来などについては2021年2月3日に紹介しているのでご覧ください。
 フランケンワインはこの町のメッサーシュミット(ヒットラー時代の戦闘機の名前―わたくしの軍国少年時代の懐かしい名前)という店で比較的安い値段で自分用の土産として3本購入。わたくしは安いワインしか飲んだことがないのですが、少なくとも今までのわたくしの経験で一番美味しかったワインです。フランケンワインの白のtrocken(辛口)です。2012年10月5日に紹介しています。
 写真左上は市街地展望です。
 この街の真ん中をレグニッツ川が流れているのですが古くは左岸が司教区で右岸が商人漁民区でした。そこでその中間すなわちレグニッツ川の中洲に市庁舎ができました。写真右下はその中州にある旧市庁舎です。
 この街は西ヨーロッパでは珍しく鯉料理が名物です。旅行社の案内では夕食に出る予定でしたが季節外れということでダメでした。
 写真左中下はレグニッツ河です。


「ロマンチック・ドイツ」編 ドレスデン

2021年04月30日 07時52分26秒 | ドイツ

 ドレスデンは1945年英米空軍の猛爆によって灰燼と帰しました。その後社会主義体制の下での復興は遅々として進まず、わたくしが訪れた時も盛んに修復工事が行われていました。その中で最も早く復旧した一つがツヴィンガー城でした。(写真上)ツヴィンガー城は1709年〰28年かけて建てられたバロック様式に宮殿でドレスデンの象徴的存在です。
 写真下はマイセン陶器の陶板2万5000からなる長さ100m以上の大壁画です。ザクセン王の行列描いたものです。圧巻です。

「ロマンチック・ドイツ」編 マイセン

2021年04月27日 07時53分36秒 | ドイツ
 
 日本の伊万里焼の影響もあると言われて世界的に有名な磁器の町マイセンを訪れました。工場を訪れて最初に見たのが写真上です。窓に書かれているマイセンの商標です。マイセン磁器に剣のマークが入るようになったのは1720年後ごろからだそうです。
 マイセンは旧東ドイツの領域でした。 わたくしの訪問は1998年で、統合は1990年なので土地名などが新旧混在していました。写真下の向こうにかすかに見える橋はデミトロフ橋でした。デミトロフ(1882~1949)はブルガリア共産党員として活躍、ベルリン国会議事堂放火事件で逮捕、その後コミンテルン書記長になった人物です。旧東ドイツ時代にその名を記念してつけられた橋でした。
その橋を見ようと思いホテルのフロントに尋ねましたがわかりません。このフロントは非常に親切な方で各方面に電話をしてくれてそのデミトロフ橋が今はアウグスブルグ橋に変名していることを確かめてくれて場所を教えてくれました。この名前は分裂以前の名前のようです。ありがとうございました!
 変名していないところもありました。ローザ・ルクセンブルグです。写真右に見にくいですがRosa-Luxenburg  Platz(ローザ・ルセンブルグ広場)とか書かれていますね。これは町をぶらぶらしているときに偶然見つけました。彼女は(1871~1919)は革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創立した人です。今も残っているかな!

「ロマンチック・ドイツ」編 ライプツィヒ

2021年04月21日 07時52分45秒 | ドイツ

 ライプツィヒでの昼食は一流ホテルの中にある「大和」いう日本料理店でした。何が出されたか忘れましたが、箸の包み紙にドイツ語で使用法が書かれていました。(写真上)
 ヨーロッパでは日本に比べて街中に銅像が多いような気がします。特にこのライプツィヒでは。以下3つ紹介します。
写真左上は「メドラーパッサージュ」というアーケードの中にある像です。 ゲーテの「ファウスト」の一場面を表わした像だそうです。 写真右上はゲーテの像です。
 ライプツィヒは音楽家たちの街としても有名です。シラー(写真省略)バッハなどが有名です。(写真下

「ロマンチック・ドイツ」編 ベルリン

2021年04月18日 07時53分52秒 | ドイツ

 写真上はドイツ東西分裂時代の象徴的存在だったブランデンブルク門です。もともとは市内に18個所あった関税門の一つでした。1945年ドイツの敗北によって米英仏、ソ連に東西に分割占領され1949年にそれぞれが東西ドイツに分割独立しました。その時ベルリンも東西に分割されます。その時その国境線にあったのがブランデンブルク門(東ベルリン側)でした。当初はその間を自由に出入りできましたが、1961年にベルリンの壁ができ自由な往来ができなくなりました。1989年ベルリ位の壁が崩壊し1990年東西ドイツが統一しその後分裂時代の象徴として現在にいたっています。
 したがってベルリン市内には東西を分ける国境線が張り巡らされていました。写真中は少し見にくいですが道路に赤線が見えると思いますが、それが当時の国境線です。

 写真下はユグノー教会です。わたくしは無学ためここ来るまでこの存在を知りませんでした。手元にあるガイドブック、そして現地でのリーフレットなどにも記載はありませんでした。
ユグノーは16世紀〰18世紀のカルヴァン派新教徒で旧教徒との衝突があり1598年ンナントの直令でいったんは信仰の自由が認められました。
しかし1685年10月18日、フランス国王ルイ16世は信仰の自由を撤廃しました。それまでもしばしば迫害を受けていたユグノー教徒の多くは、これを機に国を去る決意をすます。そのわずか11日後、ベルリン・ブランデンブルクの大選定候フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ポツダム勅令を発表して彼らの受け入れを決めました。約30万人の難民のうち、この地域に逃れて来たユグノー教徒は約2万人に上り、うち5500人がベルリンに定住した。これは当時のベルリンの人口の7分の1を占める数です。そして1705年に建設されたのがこのユグノー教会です。わたくしはこの歴史事実を知りませんでした。恥ずかしい。旅行社に感謝。

「ロマンチック・ドイツ」編 ポツダム

2021年04月15日 07時51分57秒 | ドイツ

 ポツダムといえば「ポツダム宣言」ですね。(若い人はダメかな)1945年のポツダム宣言を日本が受諾してようやく敗戦し戦争終結をしました。そのポツダム宣言が出されたところがポツダムにあるツェツィーリエンホーフ城(写真上)です。最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)が皇太子時代、妃のツェツィリエのために建てた城です。
ここでちょっと余談話。この城に図書室があったので現地ガイドにからかい気味に”Mein Kampf”はあるかと尋ねました。現地ガイドは慌てた様子で”Nein Nein”(無い、無い)と答えました。”“Mein Kampf“(我が闘争)はヒトラーの著書で当時(1998年)ドイツでは禁書でした。2014年に出版が合法化されました。戦時中日本語訳が数冊出ましたが、日本を馬鹿にしたところは省かれていました。ただし最近そのうち2冊は完訳されていたとの説もあります。(ウイキペディア)戦後は角川文庫から完訳が出ています。わたくしはヒトラー、ナチズム、現代思想理解の必読の書だと思っています。
こんな問答をしていて書棚を見ていると、日本人の書いた本らしきものが見えました。著書名は
“Nikudan”著者名はSakura”でした。
写真中はプロイセン王国時代の1745年から1747年にかけて、フリードリヒ2世(大王)(在位1740~1786)の命によってわずか2年で建てられたサンスーシー宮殿です。フリードリッヒ大王は啓蒙的専制君主として知られています。その啓蒙的側面を表すものとしてこの宮殿の敷地内にある「風車」がありますが、それについては今年の2月20日に紹介しています。
フリードリヒ大王は1786年8月17日、サンスーシ宮殿で老衰により崩御しました。遺体は遺言に相違して、ポツダム衛戍教会に葬られました。その後、第二次世界大戦中に遺体は各地を転々とさせられるなどの運命をたどりましたが、ドイツ再統一後の1991年、サンスーシ宮殿の庭先の芝生に墓が移されました。その時の記念式典には10数万人の見物人が集まりました。(写真下)花が置かれていました。彼は今も一定の評価を受けていると感じました。
その後、「孔雀島」を訪れました。(写真省略)そこでの現地ガイドは東ドイツ出身で日本語がわかるので少し会話が弾みました。コミュニズムについて尋ねると「理想としては良いと思うが現実は」という答えでした。今旧東ドイツでの問題は分裂時代旧東ドイツから西ドイツに亡命した人の不動産の所有権争いということでした


「ロマンチック・ドイツ」編 クヴェトリンブルク

2021年04月12日 07時54分20秒 | ドイツ

 中世の街並みを残すゴスラー、ヒルデスハイムを紹介してきましたが、人口2万4千のクヴェトリンブル(旧東ドイツ)は世界大戦の被害がほとんどなくその面影を最も色濃く残す街でした。1994年には町全体が世界遺産に登録されました。(写真右左上 )写真左上のMarktplatz(中央広場)でこのような美人二人に出会い撮影を承諾してもらいました。Vielen Dank !
しかし、一歩中心街を離れるとこのような廃墟に出会いました(写真右下)

「ロマンチック・ドイツ」編 ゴスラー

2021年04月09日 07時52分52秒 | ドイツ

ゴスラーには11世紀に王宮が置かれ、ザリエル朝時代ドイツ国王・皇帝のお気に入りの滞在地で、13世紀まで帝国会議が頻繁に行われました。そのため、美しい街並みが形成されました。(写真右下)は中央広場です。このようなところもありました。(写真左下)
 ゴスラーは魔女の街といても有名です。いましたね。(写真右上)
 (写真左上)早朝一人で散歩していたらこのような建物に出会いました。わたくしは一瞬日本の神社かと思いました。キリストの教会でした。わたくしはこのような教会の建物に出会ったのは初めてでした。なぜか忘れられない建物(教会)です。

「ロマンチック・ドイツ」編 ハノーファー、ヒルデスハイム

2021年04月06日 07時54分03秒 | ドイツ
 
 現イギリス王朝の出身地ハノーファーを訪れました。1714年この地のハノーファー公がジョージ1世としてイギリス国王になりました。したがってこの王朝名はハノーヴァ朝といいます。Hannoverがドイツ語ではハノーファーで、英語でハノーヴァと発音します。国王は英語は話せませんでした。
 この地の観光はヘレンハウゼン王宮庭園でした。(写真上)
次の観光地はヒルデスハイムでした。この町は 第二次世界大戦で、歴史的建造物を含む街の多くが破壊されましたが、現在までにその多くが再建され、かつての中世風の町並みも再現されています。この木組みの建物がそれです。(写真中) 中世街並みの美しいMarktplatz(中央公園)でしばしのコヒーを楽しみました。(写真下)