この墓地の麓に鄭和を祀る宝山亭サン・ポ・コン寺院あります。ここを通りかかった時「ここですよ」の声に運動神経の鈍い私はカメラを向けるのが一瞬遅れ、この寺院をとらえることはできませんでした。写真の右上にかすかに見えるのがその一部だと思います。
この墓地の麓に鄭和を祀る宝山亭サン・ポ・コン寺院あります。ここを通りかかった時「ここですよ」の声に運動神経の鈍い私はカメラを向けるのが一瞬遅れ、この寺院をとらえることはできませんでした。写真の右上にかすかに見えるのがその一部だと思います。
マレーシアは多民族国家です。大まかな分類では、マレー系65%、中国系(華人)26%、インド系8%、その他1%です。中国人のこの地への移住は古くからのようですが文献に表れるのは15世紀初頭の明朝永楽帝に派遣された鄭和使節団の来訪です。イスラーム教徒で宦官の鄭和(1371?~1435?)はコロンブスやヴァスコダガマに始まるヨーロッパの大航海時代に先立つこと100年前に彼らの船の10倍ほど大きさの船で7回にわたり南シナ海からアフリカ東岸まで航海をしています。最近の研究では鄭和はコロンブスのよりも前にアメリカに到達し説が発表されているそうです。(「旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア」p85)
その鄭和がマレーシアのマラッカに入りその地のスルタンに永楽帝の皇女リー・ポーを嫁がせました。その後、マラッカ河の近くの岡が彼女たちの居住地、墓地になりました。そこをブッキ・チナ(中国人の丘)と言います。現在1万2千500以上のお墓が遺されています。
ツアーではこの地を訪れことにはなっていませんでしたが、お願いして墓地の麓を通っていただきました。
この鐘霊中学校より少し極楽寺よりのところにある記念碑(写真)を現地ガイドが紹介してくれました。中国語は良く読めませんが「華僑抗日」はわかります。最初は鐘霊中学虐殺追悼碑だとの説明だったようですが、よくこの碑を見ると、それだけではなくこの地の日本軍の「敵性華僑狩り」全体への追悼碑のようです。
「アジア・太平洋戦争」は「太平洋戦争」という呼称に代わって現在歴史学会では一般的になってきています。ただ始まりを1931年9月18日からとする学者と、1941年12月8日とする学者がいます。1941年12月8日は日本軍の真珠湾攻撃が始まりと一般的には信じられていますが、それより1時間5分前に当時イギリス領のマレー半島コタ・バルに日本軍は攻撃を仕掛けています。
このマレーシアでの日本軍の侵略戦争の惨禍の実態を高島伸欣琉球大学名誉教授が長年にわたって調査・研究をされその成果の一部が「旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア」(梨の木舎)という本になっています。この本と「観光コースでないマレーシア・シンガポール」(陸培春著)(高文研)という本を今回の旅行に先立って読みました。しかし「ない」の言葉に表れているようにパック旅行のコースにはこの本に紹介されているようなところには行きません。そこで添乗員、現地ガイドに観光のコースに近いと思われるところをピックアップしてお願いしてみました。そのうちの一つ鐘霊中学校をペナン島の極楽寺に行く途中に見ることができました。(写真はバスの中からの見た鐘霊中学校)
鐘霊中学校はウィキペディア(英語版)にも記載されているような1917年創立のマレーシアきっての名門校ですが日本占領期に反日活動をしたという理由で教師8人、生徒46人が日本軍に虐殺されました。校内には記念碑があるとのことですが、これは勿論?見ることはできませんでした。なお、この虐殺事件については「旅行ガイドにない**」p61、「観光コースにない***」にはより詳しく(p161~172)、紹介されているので興味のある方はご覧ください。
キャメロン・ハイランド(後日紹介)の屋台マーケットでドリアンを見つけました。ぜひ食べたいと思いましたが、アルコール飲料を飲むとお腹をくだすという話を聞き逡巡していました。その時写真のご夫妻が自分たちが購入して食べていたドリアンを食べなさいと勧めてくれました。感激して遠慮なく頂きました。
「ミャンマー」編はまだ半分ぐらい残っていますが一時中断して後日再開予定です。
雑誌「週刊金曜日」3月14日号に「在留邦人が急増! 日本人は何故マレーシアに向かうのか?」という記事が掲載されていました。今回の旅行でも沢山のマレーシア長期滞在者に出会いました。その理由についてこの記事はいくつか指摘していますが、私の今回の旅行で感じたのはマレーシア人の「オモテナシ精神」でした。
今回私が受けたオモテナシを2件紹介します。
参加者は13名でしたが、12名が成田→クアラランプール→ペナンで私だけが関空→クアラランプール→ペナンでした。方向音痴の私はクアラランプールでの乗り継ぎに苦労をしました。その時私を助けてくれ、かなりの距離を手を引くようにしてペナン行きのゲートまで連れて行ってくれたのが写真の方です。そして漸く成田グル―プに合流できました。
「マレー半島の歴史の街々とボルネオ島・ブルネイ王国」というツアーに参加します。出発は9日で帰国は21日です。その間、このブログを休み、再開は3月25日の予定です。
旅程図は「旅のデザインルーム」のホームペイジからの転載です。
写真はこの洞窟の入り口付近です。巨大な蜘蛛と弓を構えた人物がいます。伝説によればこの地の7人の王子たちが突然の嵐から避難してこの洞窟に入ったところ悪の「ナッ」(ミャンマーの伝統的神―後日紹介)が巨大な蜘蛛になって襲いかかってきました。悲鳴を聞つけてKummabhayaという王子が現れ、矢でこの蜘蛛を退治し7人の王子を助けました。
バガンに残る唯一のヒンドゥー寺院です。11世紀に建立されというのが通説ですが、歴史家によっては10世紀を唱える人もいます。この場合はバガン王朝が仏教を取り入れる以前と言うことになります。ヴィシュニ神と仏陀が祀られていました。
ツアーコースには入っていないので現地ガイドのオウマさんに頼んで連れて行ってもらいました。彼女もその存在を知りませんでした、現地のバスの運転手さんが知っていたようでした。
2月21日に紹介したようにミャンマーでは悟りを開いたブッダが4人いると信じられています。このアーナンダ寺院にもこの4人のブッダの像がありました。その一つです。2月27日に紹介したチャンスィター王によって建立されました。