サラエヴォを世界史的に有名にしているのはこの地で起きた事件が第一次世界大戦の発端のきっかけになったことです。1914年6月28日この地を視察中のオーストリア=ハンガリー帝国の次期継承者フランツ・フェルディナンド夫妻がセルビア人の青年ガヴリロ・プリンツイプによって暗殺されそれかきっかけになり第一次世界大戦が勃発しました。
その現場にはこのような石碑が残されています。”assassinated”(暗殺した)という単語がありますね。
2010年12月23日に紹介したようにキリスト教圏に比較してオスマン帝国は宗教的寛容があったので多くのユダヤ人がここバルカンに生活していました。特にここサラエヴォでは1931年の統計ではユダヤ人が人口の51%を占めていました。特に1492年スペインから追放されたスファラディウム系のユダヤ人が多数でした。したがってユダヤ博物館などユダヤ系の施設が沢山あります。しかし事前に旅行社にその見学をも申し入れていたにもかかわらずここがシナゴーグ跡ですという案内だけで素通りでした。あわてて撮った写真がこれです。多分現在は博物館でしょう。今回の旅行で最大の心残りはここサラエヴォでのユダヤ人関係の観光が無かったことです。悔しい!
サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都です。ここの子供たちの笑顔をご覧ください。スカーフをかぶっている子がいますね。イスラーム教徒でしょう。その他の子はキリスト教徒ではないでしょうか。子供たちは屈託がないですよね。
ここバルカンは戦争の悲惨さを残す所が多いのですが、1969年のアカデミー賞候補映画「ネレトヴァの戦い」で有名なヤブラニッツァもその一つです。第二次世界大戦1943年チトー率いるパルチザンと、ドイツ、イタリア枢軸軍と国内のこの両国に加担した勢力との最大の決戦場の一つがここヤブラニッツアでした。戦いとしてはパルチザンが多大の犠牲を出しこの地を去ることになるのですが。戦略的には枢軸側の敗北とされています。
パルチザン側はこの地を去る際に敵の追撃を防ぐためにネレトヴァ河に架かる橋を破壊しました。現在も写真のように当時のモニュメントとして破壊された橋がそのまま残されています。
「くろいぬ」さん、fengdanさんコメント有難うございました。今後ともよろしく。
オスマントルコにはキリスト世界に比べて宗教的寛容さがあったのでここバルカンに多くのユダヤ人が暮らしていました。しかしなぜか日本のツアー?はイスラエルを除いてほとんどシナゴーグなどの観光はありません。
過去ウズベキスタン(2005年12月9日~11日)、モロッコ(2008年12月17日~27日、2009年2月7日)、チェコ(2005年12月17日)でのシナゴーグ観光はすべて自由時間の利用でした。今回偶然このモスタルでユダヤ人、シナゴーグ跡に出会いました。