“旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営”
私の軍国少年時代の懐かしい歌です。日露戦争中1905年旅順攻防戦の停戦条約が締結されたところが水師営です。ロシアの将軍がステッセルで日本の将軍が乃木大将というわけです。現在の建物は老朽化していたものを1996年に復元したものです。会見場と書かれていますね。
露国コンドラチェンコ少将戦死の碑がありました。私はコンドラチェンコという人を全く知りませんでした。日本軍を最も悩ましたロシアの司令官でここで日本軍の狙撃により戦死します。その勇士振りをたたえて日本軍が建立し、それがこのように今も残されていました。私はいつもは嫌いな「武士道」という言葉を使って思わず「日露戦争まではまだ日本に武士道は残っていたのだな!」とつぶやいてしまいました。
余談噺
82歳になりました。(7月25日)「思えば遠くへ来たものだ」 写真のボケと同じくこの文章もますますボケてきたようです.何時まで続くかな?このブログ!
203高地は私たちの世代以前の人は誰でも知っています。ところが今回訪れた東鶏冠山北保塁は私にとってははじめての知る所でした。旅順攻防では203高地での戦闘よりここ東鶏冠山北保塁の方が悲惨な戦いだったのですね。知りませんでした。その内容は省略します。写真はその記念碑です。
写真の説明文にあるように日露戦争後乃木将軍は高地に散乱していた砲弾などを集めてここに「爾霊山」と記した戦死者を慰霊する碑を建てました。それが現在も残されていました。「爾霊山」は「ニレイサン」→203ということです。
私はここの土産物店の日本語がわかる女性に嫌味な質問をしました。(ゴメンナサイ)「日本軍が御地の方々に大きな損害、迷惑をかけ、嫌な思い出のこの場所を整備し、こんなにたくさんの中国人がやってくるのはなぜですか」 この女性は屹度した表情と口調で「今は桜の季節で花見にやってくるだけで、平素は閑散としています」という返事でした。
写真は旅順攻防戦の日本側の総司令官乃木希典の次男保典の戦死場所の表示です。どうも最近のもののようです。私はこれを見て仰天し次いで不愉快になりました。これは商魂たくましさから来る日本人観光客への媚だと思いました。これは結果的に中国政府が一番危惧する日本軍国主義復活を夢見る日本のウルトラ保守主義者への媚にも通じます。商売と政治は別?