100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ちょっと珍しい」インド 蛇使い2

2006年06月30日 08時44分30秒 | インド

 ついでにもう一枚

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「ちょっと珍しい」インド 蛇使い1

2006年06月30日 08時41分55秒 | インド

 ニューデリーで見かけた蛇使いです。6月22日に紹介した洗濯村と同じく「不可触民」で「蛇使い村」の人たちです。

 五島昭氏がその著「インドの大地で」(p68~69)で次のように紹介しています。 

  ニューデリー南東120キロのウッタルプラデシュ州モラウバンド村の住民49   6人は全員蛇使いとその家族。全国蛇使い協会会長のドゥルガトナ曰く。「冬の10月~12月をのぞけば全員商売に出ています。ニューデリー、カルカッタ、ボンベイなどインドの都会は勿論、遠くネパールのカトマンズにも足を延ばします」

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ちょっと珍しい」編 インド サティー

2006年06月28日 08時41分14秒 | インド

 インド(ヒンドゥー教徒)ではつい(最近まで)、夫に先立たれた妻は、夫を葬る荼毘の火中に身を投じて殉死することが美徳とされました。これをサティーといいます。写真はジョードブルのメルハンガル城塞で見たその殉死をした妻たちの手形です。19世紀以来たびたび禁止命令が出されましたが最近では1987年のサティーが話題を呼びました。賛美者が毎日数千人参拝に訪れました。賛成派、反対派で議論が沸騰しました。私は今でも非公然の形で行われているのではないかと疑っています。

 ついでにインドの女性に関する風習を紹介しておきます。結婚時に、花嫁の家族から花婿および花婿の家族に対して支払われる持参財をダウリーといいます。この持参財の額が桁外れで花婿の年収の数倍から数十倍になります。嫁入り先で持参財が少ないため追加要求され、いびられ自殺したり、殺されたりする例が1961年に「持参財禁止令」が出されたにもかかわらず年々増加しています。

 私は以前国別の男女の平均寿命を調べたことがあります。人間(他の動物も気にかかっているのですが)はどういう理由からか、女性の寿命は長いのですが、インドではほぼ1対1で世界で一番男女の平均寿命が接近していました。このサティーとダウリーなどが関係しているのではないかと思っています。ちなみに男性の対女性比で一番寿命が短いのはロシアでした。ウオトカのせいですかね。出生率も世界の平均値よりもかなり女性が低いのです。

 追加 前々回インドの現地ガイド、セチさんについて少し紹介しましたが、思い出したことがあるので二つ追加しておきます。(何せ10年前のことですから)ある街でのこと、彼曰く「この町はイスラム教徒が多いいので、スリ、かっぱらいなどに気をつけてください」もう1つ。私に職業を尋ねたので「インドでは多分賎業だと思いますが夜警の仕事をしています」と答えました。その後彼の私に対する態度がかなり変わりました。

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「ちょっと珍しい」編 インド2 牛の糞2

2006年06月26日 08時46分56秒 | インド

もう一枚

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「ちょっと珍しい」編 インド 牛の糞1

2006年06月26日 08時44分20秒 | インド

  写真は牛糞です。 ヒンドゥー教では牛の糞は、非常に聖なるもので、穢れを取り除く力があるとされます。したがって家の壁に貼り付けているのは魔よけのためです。その後燃料になります。

 同じヒンドゥー教国のネパールでは、食後の土間をきれいにするのに牛糞を使うそうです。床に散らばった食べかすなど牛糞でえぐりだすようにして包み込んでふき取っていくということです。(「ネパール紀行」p190三瓶清朝著)

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「インド不可触民」編 洗濯村3

2006年06月24日 09時00分40秒 | インド

 ムンバイにも大きな洗濯場がありました。10年以上経過した安物のプリントで、しかもインドで購入したフイルムが粗悪品だったので見づらいですが目を凝らし想像力を働かして見てください。

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「インド不可触民」編 洗濯村2

2006年06月24日 08時53分29秒 | インド

 この洗濯村での老婆と老爺(私)と子供たちの写真です。

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「インド不可触民」編 洗濯村1

2006年06月24日 08時47分47秒 | インド

  洗濯村1 ガンジス河の沐浴(このブログの左の欄の日付をクリックして2005年10月27日をご覧ください)で有名なバナラスでの自由時間に現地ガイドのセチさんは普通、観光客が行かない「洗濯村」を案内してくれました。(写真)「洗濯」は不可触民の典型的な職業の1つです。(インドでは職業と身分とが密接不可分です)ところがセチさん(彼は日本語が非常に達者)は私の質問に「シュードラ」(注)と答え「不可触民」の存在など知らないといった様子を見せました。 

 (注)バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの下が「不可触民」 

 余談になりますが、インドは長期間ヨーロッパの植民地であったにもかかわらず現在に至るまでキリスト教徒が少ない理由は、最初に不可触民がキリスト教徒に改宗したのでそれを上層のカーストが嫌ったからだという説があります(「アジアの聖と賎」野間宏、沖浦和光共著p74)

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「インド不可触民」編1 アンベードカル写真追加

2006年06月22日 08時49分11秒 | インド

 前の項はアンベードカルの写真が拡大出来ないようなのでもう一枚。

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「インド不可触民」編1 アンベードカルの場合

2006年06月22日 08時32分48秒 | インド

  インドムンバイ(旧称ボンベイ)の街中をバスで走っていると銅像が見えたので現地ガイドのセチさんに尋ねるとアンベードカルという人でインド独立後初代の法務大臣という説明でした。慌ててバスの中から写真を撮りました。私が写真を撮った理由は彼が法務大臣であったからではありません。彼は不可触民出身でその解放に一身を捧げその方法について、かのガンディーと鋭く対立しヒンドゥー教を捨て、最晩年に仏教徒へ改宗しました。それが理由でした。

 不可触民についてはご承知の方が多いと思いますので簡単に説明しておきます。 ヒンディー語でアチュート(触ってはいけない)が英語のuntouchable になりそれが日本語訳で「不可触民」になったようです。ガンディーが名づけたハリジャン(神の子)は当該の人たちには不評のようです。彼らはインド独特のカーストの最下層というよりはアウトカーストと呼ばれるように制度の外に存在し「穢れ」て、いるとされ差別を受けてきました。現在は法的には差別はなくなりましたが社会的には強く残っています。数は全人口の約15%で1億5000万人になるとされ、日本の被差別民に比べて非常に多いのです。

 15日間通じての現地ガイド、セチさんはこの存在について最後まで言及しませんでした。(次回紹介)彼は最上層のバラモン(ブラーフマン)の出身でした。余談ですが彼の毎日読むのはヒンディー語新聞ではなく英字新聞だそうです。 アンベードカルとガンディーとの対立について少し紹介しておきます。「ブッダとそのダンマ」(山際素男訳、光文社新書)というアンベードカルの著書に寄せた山崎元一氏の解説(p397)に次のような簡潔な文章があります。 

  「ガンディーが不可触民制はヒンドゥー教そのものとは関係なく、その廃絶は        カースト=ヒンドゥーの懺悔・改心を通じてもたらせると主張したのに対し、  アンベードカルは、不可触民制の廃絶はカースト制度とヒンドゥー教を打倒す  ることによって、また不可触民自身の自覚と向上によって得られると唱える」

 このようにしてアンベードカルは早くからヒンドゥー教から決別していましたが正式に仏教徒への改宗宣言は1956年のブッダ生誕2500年祭でのことでした。その年12月に享年65歳で「ブッダとダンマ」の最終稿に目を通しつつ世を去りました。この著書で彼は仏教が神と霊魂の存在を否定する宗教であることなど主張しています。     

 この本以外に彼の業績とカースト制について興味のある方は少し古くなりますが(1979年)「インド社会と新仏教」(山崎元一著 刀水書房)が参考になると思います。

 また、日本からインドへ国籍を移し彼の衣鉢を継ぎ彼のこの新仏教の布教に奮闘している佐々井秀嶺氏が最近TBS系テレビの「不思議発見」で紹介されていました。

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「世界の子供たち」編 インド2

2006年06月20日 08時25分16秒 | インド

 翌日、大商人の館が観光地になっている中庭でこれらの子供たちが芸にもならない芸を観光客に見せていました。

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「世界の子供たち」編 インド1

2006年06月20日 08時14分52秒 | インド

 私はこの写真のすぐ後に起きた事柄を10年たった今も忘れることは出来ないし、一生忘れないでしょう。 

 この写真はインドのジャイサメールというところのキャラバンサライ(隊商宿)がホテルになった、そして多分その昔、隊商たちのラクダを繋いだと思われる中庭でのものです。私と同行の1人とその中庭のテーブルでビールを飲んでいました。と見ると庭の片隅に父子が地べたに座ってみやげ物らしきものを広げていました。そこで私たちは子供にはつまみ、お父さんにはビールを勧め椅子に座るよう言いました。ところが二人とも椅子に座ろうとしません。地べたに座り込みました。どうやら彼らは不可触民(次回紹介)で同席は出来ないと思ったようです。 同行の人が写真を撮りお父さんに送るから住所を書いてくださいといいました。お父さんは書けません。ホテルの人に書いてもらいました。

 そのときです。ホテルの人が住所を書いている手元に子供は食い入るような視線を投げかけていました。文字を知りたい、学校へ行って文字を習いたい、学校で勉強したいという強烈な眼差し、顔つきでした。多分プロの写真家であればその一瞬を切り撮っていたでしょう。私には出来ませんでした。

 しかし私の脳裏には強く焼きつき消えることはありません。今こうしてこの文章を書きながら老いの眼から涙が止まりません。

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「サッカー」編2

2006年06月18日 08時23分12秒 | 北欧

 ついでにもう一枚。

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「サッカー」編

2006年06月18日 08時20分45秒 | 北欧

  サッカーのワールドカップのフィーバー(マスコミだけか?)に便乗して。

 トキは4年前の日韓共同開催のワールドカップの開催時。

 トコロはユーラシア大陸の反対側スウェーデンのストックホルム(現地時間2002年6月29日午後)の目抜き通りでの写真です。当日午後自由時間になりストックホルムの繁華街でヨイク(2005年12月25日のこのブログを参照してください)の音楽CDを探していました。突如ケタタマシイ車の(タクシーが多い)クラクションとともに旗を掲げ、警察に付き添われたデモ隊らしき一団に出会いました。かなり長く行列は続きました。何事かと野次馬に聞いたところ彼らはトルコ人の一団でワールドカップで韓国に勝利し3位になったことを喜ぶ祝賀パレードだったのです。よく見れば旗はトルコ国旗でした。

 ドイツにはトルコ人の出稼ぎ労働者が多くいることは知っていましたが、スウェーデンにもこんなに多くのトルコ人労働者がいたとは。 余談ですが、私は各種のスポーツ国際大会で日本の若者が日の丸を片手に「ニッポン ニッポン」叫んでいるのを聞くと生理的嫌悪感を催すのですが。

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「ヨルダン、シリア、レバノン」編 パルミラ4

2006年06月16日 08時37分16秒 | ヨルダン・シリア・レバノン

 パルミラ遺跡の全景です。ホテルから写したのですが不鮮明ですので目をよく凝らしてみてください。パルミラ遺跡についてはこのブログの5月15日、17日、19日を参照してください。左の欄の該当の日付けをクリックすれば出ます。

 「ヨルダン、シリア、レバノン」編は一応これで終わります。まだ残したところがありますが、別の「編」で紹介します。次回はサッカーです。

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