通常お土産は自分自身の物でCD,チーズ、アルコール類に限られているのですが、ルーマニア旅行では小さい1メートル四方の絨毯を買いました。いま座っている椅子の下で6年たちますが綻びもせず健在です。なぜ買ったのか? それは写真をクリックしてみてください。
ネ お分かりでしょう。チビちゃんの持っていたのがいま我が家にあるというわけです。
今回で「番外編 お墓」を終えます。まだレーニン、ホーチンミン廟とか、プロイセンのフリードリッヒ大王(写真)(注)とか、などなどのお墓は観光したのですが誰でも知っていることなので紹介の必要はないと思います。ただ一つ写真はないのですがなぜか10年以前にもかかわらず脳裏から消え去らないシチリアのパレルモで見たフェデリコ皇帝(神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒⅡ世 1194年~1250年)のお墓について少しだけ。
(注)ベルリンのサンスーシー宮殿の庭園で見かけたものですが、最近作ら れたように思います。というのは“DER GROSSE ”と書かれているのは最近の正書法で、古くは“DER GROßE ”であったはずだからです。
パラティーナ礼拝堂の彼の棺の前には絶えることのないドイツ人観光客からの花束が手向けられていました。このことが彼の棺を忘却の彼方に追いやらない理由のようです。
彼はドイツ人でしたがイタリアで生まれ育ちその殆どの生涯をイタリアで過ごしたイタリア語を話すノルマン・イタリア国王でもありました。アラビア語その他数ヵ国語も話す彼は度重なる教皇の十字軍遠征の要請に対しても返事を延ばし、いざ出兵となると、事前にスルタンと交渉して無血でエルサレム王国の支配権を確保し、自らエルサレム王位につきました。
このノルマン・シチリア王国は異文化共存の国家で近年注目をされています。
追記 2005年12月17日「番外編 お墓 アルメニア1」でアルメニア人大量虐殺に関する発言で、国家侮辱罪に問われたトルコ人作家オルハン・パムクの朝日新聞の記事を紹介しました。1月25日の同じ朝日新聞の報道によれば23日トルコ、イスタンブール地方裁判所は訴訟の取り下げを決定したと報じています。
次回からは最初の「ルーマニア編」に戻ります。
1991年1月ソ連邦からの離脱を求めたリトアニアに対してソ連邦政府は武装部隊を送りました。そのとき首都ヴィリニュスの議事堂を守るため数万人が集まり抵抗をしました。そのときに造られたコンクリート・バリケードが記念に残されていました。(写真) 現地ガイドもこれに参加したと話してくれました。
以前紹介したチェコ、プラハのユダヤ人居住地の近く旧市街のフスの像がある広場でビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620年11月)で破れ処刑された27人のチェコプロテスタント貴族の碑銘を探しました。
1人の自由時間での行動で現地ガイドも、添乗員もいなく(あとで聞くと添乗員も知りませんでした)よくわかりません。近くの高校生らしき集団に尋ねました。知りませんでした。あきらめて引き返そうとした時、引率の先生らしき人が慌てたようにやってきて、「ここです」と教えてくれたのが、この写真です。27個の十字架の石碑が写真のように埋められていました。
ビーラー・ホラの戦いは1618年に勃発した30年戦争(1618~1648)の初期に起きチェコ(当時ボヘミアと呼ばれた)が完全にオーストリアハプスブルグ家の直轄支配に組み込まれることになる事件です。チェコ人はスラブ系の民族で、オーストリア人はドイツ人です。
ヨーロッパ全体を巻き込みドイツでは人口が30%減少したといわれる30年戦争はこのチェコのプラハから始まりました。1618年プラハの王城でチェコ人のプロテスタント貴族がカトリックの信仰を押し付ける皇帝の代官を窓から突き落とすことから始まりました。(この部屋を見たかったのですが私たちの観光コースに入っていないということで見学できませんでした)
前述のようにプロテスタント貴族は敗北しこの十字架石板のあるところで処刑されました。 集合場所がこの近くだったのでこの場に添乗員、同行の人たちを案内して私がコウシャクをタレルということになりました。こういうことをするから私は添乗員から嫌われます。
このときの旅行ではチェコとハンガリーを訪ねたのですが、チェコではかつてのお城の領主がすべてドイツ人で、同じオーストリア支配下にあったハンガリーではハンガリー人でした。この1620年のビーラー・ホラの敗北でチェコ人貴族は一掃されたことをこのことで実感させられました。
カトリック教会での観光の時「イエスはこんなに派手に飾られるとは思っていなかっただろうね」と私がつぶやくと、日本人男性と結婚しているというチェコ人現地ガイドは「でしょう!」と同意をしてくれ自分はカルバン派の新教徒でチェコでは20%くらいがそうであると教えてくれました。
1996年5月フィレンツェのシニョーリア広場で私はサヴォナローラが火刑された場所を探していました。なかなか見つかりません。
団体旅行ですから時間があります。慌てて現地ガイドをつかまえてその場所を聞きました。その円形の石版は雑踏の観光客の足元にありました。(写真)
ドメニコ派の修道士であったサヴォナローラは15世紀後半フィレンツェの享楽と堕落を非難し、その中心であったロレンツォ・ディ・メディチや時の教皇を罵倒しました。 そのため1498年この広場で彼は火刑に処せられました。この有様をボッティチェリ、マキャベリー、ミケランジェロが見ていました。
フィレンツェへ旅行の機会があればイタリア・ルネサンスの別の一面に想いをめぐらし、観光客の足元で今では殆ど振り返られることもないこの石版をご覧になることをお勧めします。
このミュンヘン博物館には日本に関係するものもありました。何だと思いますか。面白いものですよ。それは後日「世界で見た日本編」で紹介します。お楽しみに。
飛行機の展示会場にひときわ小さなそして貧弱な飛行機がありました。その説明を見て軍国少年時代の記憶がよみがえりました。ナチスドイツが誇った戦闘機メッサーシュミットでした。(写真)私は戦争物語が大嫌いなので武器など戦争用具ことなどあまり知りません。それが思い出したのです。名前ぐらいしか知りませんが。先日紹介したバンベルクではメッサーシュミットというワインレストランもありました。
余談なことを思い出しました。英国でロンドン、オックスフォード、エディンバラの書店を各々数軒入ってみました。そのすべての書店には“MIRITARY HISTORY “(軍事史)というコーナーがかなり広いスペースをとってありました。びっくりしました。
この「世界のコドモたち編」はまだ続きますがここでいったん中断して次回から「番外編お墓」に戻ります。
ミュンヘンでの自由時間にはドイツ博物館へ行きました。ガイドブックによれば世界最大の規模を持つ自然科学、産業技術などの大博物館だそうです。
そこで母子三人に出会いました。いつもはカメラをかざしてOK?などといって撮影するのですが、今回はNHKラジオドイツ語講座で覚えた「写真を撮っても良いですか」というドイツ語で許可を求めました。(いまはもう忘れました)岸田今日子さんに似たお母さんが“Natürlichナテュアリッヒ”(勿論いいですよ)と答えてくれました。覚えたてのドイツ語が通じたのでうれしくなり感激の一枚でした。
外国でコトバが通じたときのうれしさは私のような語学音痴にとっては大変なものです。逆に通じなかった時は悲惨です。初めての海外旅行のエジプトで”water”(水)が通じなく紙に“water”と書いた想い出があります。ロンドンでは集合場所のピカデリーサーカスを警官に聞いて通じないのでやけくそで「ピカデリー」と声を張り上げて通じたことがありました。どうやら「ピ」にアクセントがあるのですね。
同じミュンヘンの別の博物館(城?)でのことです。入口でガードマンらしきオジサンに“Grüß Gott“ グルスゴットと挨拶しました。(ドイツでは普通「今日は」は”Guten Tag“グーテンタークなのですがミュンヘンなど南ドイツとオーストリアではこのグルスゴットが喜ばれる?ようです)このオジサン一瞬きょとんとしていましたがすぐに分かったのか 、私のグルスゴットの発音を直してくれました。数回の練習の結果「“Sehr Gut“ゼアーグート 大変よろしい」とほめてもらいました。ここを出る時このオジサンは私のところまでわざわざ来てお互いに「“Auf Wiedersehen“アウフヴィーダゼーエン さよなら」を言い交わしました。あの時のオジサンの笑顔は忘れることができません。
私のような語学音痴でもその地域の「今日は」「ありがとう」「さよなら」の三点セットコトバを覚えておくだけで旅行が10倍楽しめることを発見しました。まだ実行していない人はぜひお試しあれ。
ダルメシアンはダルマチア(クロアチアのアドリア沿岸地方)原産です。写真はそのダルマチア地方で見かけたダルメシアンです。
写真がないのが残念ですが、オランダでは日本の秋田犬と散歩をしているオランダ人を見かけました。日本の犬ですか、と訊ねると、そうですと、うれしそうに返事が返ってきました。
フランスでは犬の糞に悩まされました。たびたびフンをフン付けました。他の国ではそのような経験はありませんでした。
ヨーロッパでは犬はよく躾けられています。犬同士が吼えあうこともなく、ましてや人に吼えるような光景も見ませんでした。日本では良く見かけるワンちゃんが飼い主を引っ張りまわすような場面にも出会ったこともありません。以前はこのヨーロッパ流が良いと思っていましたが、私は最近ではこのことについて少し疑問を感じています。もう少しワンちゃんの本来の姿を認めても良いのではないかと。人間が完全なワンちゃんのボスにならなくてもよいのではないかと。皆さんはどのように思われますか。
「特別編ワンちゃん」は終了します。
写真は}チェルマットの中心部です。車はすべて電気自動車です。チェルマットにはガソリン車は乗り入れ禁止です。したがって馬車も活躍しています。(私のスイス旅行は1996年のことです。10年前ですね)
きれいな花が目を引きますが、このような観光地だけでなく一般の民家でも色とりどりの花が飾ってありました。スイスは花の国ですね。