100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡30 ヴィア・ドロローサ3

2010年06月29日 08時32分59秒 | イスラエル・パレスチナ

 アルメニア教徒の巡礼者のための旗籠屋ですね。

 なぜか私はアルメニア教に関心があるようで?2005年12月17日、19日 2008年6月24日、2010年6月5日などでアルメニア人、教について紹介しています。

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡29 ヴィア・ドロローサ2

2010年06月29日 08時29分02秒 | イスラエル・パレスチナ

 イエスが3度目に倒れたとされるところにコプト教会があります。コプト教はエチオピア、エジプトで信仰されているキリスト教で古い歴史を持っています。写真でも創立325年と表記してあります。

 余談ですが、エジプト出身の年6代目国連事務総長(1992年~1996)ガリ氏はコプト教徒です。1996年アメリカだけの反対で再選されなかったという話は有名です。

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡28 ヴィア・ドロローサ1

2010年06月29日 08時24分23秒 | イスラエル・パレスチナ

 イエスはエルサレムで官憲に逮捕されユダヤ教の大祭司に「神殿冒涜」の罪で有罪判決を受け、ローマ総督ピラトゥスによって十字架刑に処せられます。その十字架を背負って処刑場ゴルゴダへ向かいます。このゴルゴダへの道がヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれています。

 写真は途中でシモンという人がイエスの代わりに十字架を背負った場所とされるところです。(マルコ15:21)

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡27 万国民の教会2

2010年06月27日 08時28分36秒 | イスラエル・パレスチナ

 内部にあるビザンツ様式のモザイクのユダの裏切りの接吻の場面です。「イエスを裏切ろうとしていたユダは『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、(官憲に)前もって合図を決めていた(マタイ26-48、その他)。 

 これはキリスト教では常識化されている話ですが、最近「ユダの福音書」が2006年に一般に公開されこの常識に波紋を投じました。

 福音書というのはイエスの言行録の形をとった文書でイエスの死後数十種類あったとされます。それが現在正典として新約聖書におさめられているのがマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの4福音書だけです。

 ここでまた余談話。マリアのお母さんはアンナという名前で宗教絵画では時々出てきますが、正典新約聖書には出てきません。排除された福音書「ヤコブよる原福音書」に出てくるだけです。

 元に戻って、20世紀になり聖典から排除されたて知られなくなっていた福音書がたくさん見つかるようになりました。その一つがこの「ユダの福音書」で1970年代にエジプトで発見されましたが長い間日の目を見ませんでした。それを「ナショナル・ジオグラフィック社」が学者に依頼して科学的検証を行い2世紀ころギリシャ語からコプト語に訳された本物の写本であることが証明されました。

 その内容は今までのキリスト教の常識を覆すものでした。その内容を「ユダの福音書」を翻訳したマービン・マイヤー氏の文章で紹介します。

 「『ユダの福音書』で、すべてを説明し終えたイエスはユダの方に向き直り、『お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう』と語ります。イエスはユダに自分を裏切り、肉体から、内部にある真実の霊的自己を解放するように頼んでいるのです。ユダ自身も変容し、覚醒を自覚します。そして彼はためらうことなく、イエスが望んだとおりに官憲に引き渡し、磔刑へと導くのです」(ナショナル・ジオグラフィック2006年9月号特別付録p8) 

 つまり卑俗な言い方をすれば、磔刑はイエスの自作自演というわけです。

 イエスが神(の子)であり、イエスの死と復活がキリスト教の成立の絶対不可欠要件だとするとユダが裏切ったのではないというこの話の方が一番自然だと私には思えるのですが。皆さんどう思われますか。 

 どこかの国のどの美術館であったかも忘れましたが、マリアがほほえみの表情を見せたピエタをみた記憶があります(記憶違いかもしれません)。もちろん一般的にはマリアがイエスの屍を抱く悲しみの図像ピエタなのですが、私はキリスト教の教えからいってほほえみの方がむしろ自然なような気がしています。そしてこの「ユダの福音書」の話とも一致するように思えるのですが。 

 ついでにまた余談話を。このピエタの状況の絵画や、彫刻はキリスト教国では氾濫していますが、聖書には一切記載がありません、この「ユダの福音書」について詳しく知りたい方は上記の「別冊付録」、「ナショナル・ジオグラフィック日本版2006年5月号」、ナショナル・グラフィック社のDVD「ユダの福音書」をご覧ください

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡26 万国民の教会1

2010年06月27日 08時23分50秒 | イスラエル・パレスチナ

 ゲッセネマにある教会内部です。万国民と名付けられていますが、12の国の人々からの寄付で造られました。

 イスラエルの山崎さんから「ケレン・ハオール」(2010年6月17日参照)の最新号2010年6月25日号(7号)を送っていただきました。この「イエスの足跡」を終了した後、積み残しの松村ヤスミンの記事を含めて紹介の予定です。ご期待ください

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡 25 ゲッセマネの園

2010年06月25日 08時34分29秒 | イスラエル・パレスチナ

最後の晩餐をすませてイエスはゲッセマネで祈ります。写真は「ゲッセマネの園」(ヘブライ語で油絞り)と呼ばれているオリーブの庭園です。今、ここに見えるオリーブの木は樹齢1300年だそうです。

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡24 最後の晩餐2

2010年06月25日 08時31分06秒 | イスラエル・パレスチナ

中に入ると写真のように大勢の人で混雑して何が何だかわからないうちに退散しました。

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡23 最後の晩餐1

2010年06月25日 08時27分09秒 | イスラエル・パレスチナ

「イエスの足跡」を再開します。

 ガラリアでのイエスの宣教は、わずかな同調者を得ただけで、あまり成功したと言えないのでイエスはエルサレムに向かったとされています。そこでいくつかの過激な?言動をして十字架に架けられます。その最後の夜12人の弟子と共に「最後の晩餐」をします。有名なダ・ヴィンチの絵画でよく知られています。その跡とされたところに建物があります。

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「イスラエルとパレスチナ」編 臨時特別の巻 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会5

2010年06月23日 08時33分32秒 | イスラエル・パレスチナ

 山崎さんの奥さんの記事です。彼女はユダヤ人ですが、その数奇な運命については2010年4月6日に少し紹介していますので未見の方はぜひご覧ください。

      アラブの中学校の本音

         山崎エステル

        子どもたちの意見調査から

 私たちの共学共存活動の大きな課題は、アラブ側の現場の声を多く集めて新聞に掲載することです。今回はこの課題に取り組みました。しかしこの仕事は現実にはなかなか難しく、アラブ側の声を集められない理由がいろいろあります。

 その最大の理由は、アラブ人社会が大家族的な環境にあり、何か起こるとあっという間に噂が隅々まで広がることです。つまり共学共存の活動に従事する人々は、村人の反応を気遣わなければならないのです。学校関係者は特に周囲の噂に神経を遣っています。当然のことですが、村人全てが共学共存に賛成している訳ではなく、反対派、過激派もいるのです。そんな環境のアラブの村に、私は何度も足を運んでいます。もちろん、私たちが村で活動すると非常に目立ち、多くの視線が向けられているのを感じます。毎回のアラブ村訪問には若干抵抗もありますが、中学校の生徒たちから直接に率直な声を聞くため、そんな気持ちを克服して情報収集をしようと張り切って訪問しました。

 いつものように、夫を運転手兼アドバイザー役で同伴して中学校に行きました。早速校長室に通されました。校長先生は開口一番、「生徒たちの個人名や写真は公表しないでください」と厳しく注文されました。これは活動内容が公表されることにより、周囲から反発が発生する可能性を防ぐためです。それでも校長先生から快く訪問を許可していただけたのは、アラブ側も本音では共学共存の糸口を捜している証拠なのだと思います。受け入れ姿勢も非常に友好的で、校長室で和やかに談笑できました。この現場の声は現在の社会情勢を超えて、平和を望む本音なのでしょう。共学共存の重要性を十分認めておられるという感じが溢れていました。「ケレン・ハオール第3号」に、今回取材した中学校の生徒たちの素直な意見を、皆様にお届けできることに喜びを覚えます。同時に、この訪問を実現させてくれたアラブ村の学校関係者の協力に深く感謝します。

 アンケートと回答 (13歳から15歳までの生徒20人が参加)

 Q: イスラエル独立前、あなたの 家族や親戚は、どこに住んでいましたか

 A: 全員がパレスチナ国と回答(歴史上、パレスチナ という国名は存在しませんが、彼等はパレスチナ国と明記しました) (実施されたアンケ-ト用紙の例)

 Q: 現在、あなたの家族や親戚は、どこに住んでいますか A: 全員がイスラエル国のカッセム村と回答 Q: あなたは、どこの国の人ですか

  A: パレスチナのアラブ人 - 13人 (65%) 占領された土地に住むパレスチナのアラブ人 - 3人 (15%) イスラエルのアラブ人 - 2人 (10%) パレスチナ人 - 2人 (10%)

  Q : 「パレスチナ」の意味を説明してください

 A: パレスチナとは、私の両親が土地の所有者という意味で、イスラエルの占領と同時に土地を捨てて逃げた人がパレスチナ人と呼ばれ、占領されても土地に住み続けた人がイスラエルのアラブ人である。

  Q:共学共存のための合同活動を始めた時と、最近の活動の後とでは、何か違いを感じますか

 A: 大した変化は感じない - 6人 (30%) ユダヤ人は私たちを好きになれないと思ったが、面談の後では好きになってくれると感じた - 11人 (55%) 合同活動の後ではお互いに良い絵が描けると思った - 1人 (5%) 変化は感じなかった。「ユダヤ人はユダヤ人だ」と思った - 1人 (5%) ユダヤ人は好きになれない。合同活動の後も同じだった - 1人 (5%) しかし、次の活動を心待ちにしていると付け加えた生徒が6人(30%)いた。

  Q: 共学共存活動は重要だと思いますか

 A: 重要だと思う -18人(90%) その理由は: お互いにありのままの姿を知る機会となる 共通の話題を見つけられると思う 協力し合う必要性を感じた 同じ国に住む以上お互いを知る必要があり、交流の回数を重ねて関係を強めていきたい さほど重要ではない - 2人(10%) ユダヤ人とは仲良くなれないと思っていたが、面談の後では仲良くなれると思うようになった

  Q: 共学共存活動は将来のために役立つと思いますか A: 仲良く暮らす必要があるから役に立つと思う - 19人(95%) Q: このような活動は国にとっても役に立つと思いますか

 A: 共学共存活動に参加したユダヤの子供が政治家に育てば、平和は開けると思う お互いが理解できれば平和は近づく ユダヤ人たちがアラブ人は良い人たちだと感じるようになれば、平和はやってくると思う

(アンケート設問と調査実施: 山崎エステル、翻訳: 山崎智昭)

 その他、中島ヤスミン氏の「ユダヤ・アラブ少年政治懇談会を見学して」の記事がありますが、後日紹介予定です

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「イスラエルとパレスチナ」編 臨時特別の巻 ユダヤ・アラブ平等教育ハガール協会4

2010年06月21日 08時24分11秒 | イスラエル・パレスチナ

 山崎さんのエッセーです。すごい人ですね。

「息子の入隊と平和活動の狭間で  日本の終戦記念日によせて」

 私は、終戦の年1945年に旧満州(現中国東北地方)で生まれました。つまり私の人生は日本の終戦から歩み出したことになります。戦争についての知識は親から聞かされた話と歴史から知る範囲のものでした。その私が戦争を何度も通過してきたイスラエルに移住して、実際に従軍し何回か戦争を体験してきました。私のイスラエル生活は35年間にもなり、私自身も還暦を過ぎてしまっているのです。実は去る5月24日に私の三男オオレンのイスラエル軍隊入隊式が挙行されました。イスラエルは徴兵制度の国です。これで私の3人の息子たちは例外なく徴兵制度で軍隊に入隊したことになります。

 過去の話になりますが、私自身も徴兵に応じて数年間軍隊生活を体験しました。あの頃「息子たちの時代は徴兵制度も緩和されて、彼等は軍隊に行かずに済めばいいなあ」と皆で願ったものですが、それは虚しい夢でした。 私の軍隊生活は数カ月の新兵訓練の後、10年間にわたり毎年30日間、予備役徴兵で厳しい軍人訓練を受けました。国の為に軍隊で行動する意味は何かを私自身の体で学びました。その当時私の場合は徴兵拒否の選択肢もありましたが、あえて徴兵に真正面から応じることにしたのです。それは私が亡き祖父、そして亡き父と続いた陸軍士官学校出の軍人家族で生まれ育ったからではなく、イスラエルという国で生きる為にはその国に敬意を表し、その国の規則に従おうと考えたからです。

 軍隊生活で私は、つい最近も戦禍に見舞われた ガザの街を隅から隅までパトロールで歩いた記憶もあります。そのほかにも、現在ではパレスチナ自治政府が管理している地域のほとんどを軍のパトロールで歩き回りました。 壮絶な体験は、第一次レバノン戦争(1982.06.06ー1985.01)でチドンの南ザハラー二川キャンプに駐屯した時のことです。ここから、レバノン山間奥深く遠征しました。あの時は実際に、このまま戦死するかもしれないと感じた瞬間が何度かありました。一方、その体験があるので生きる意味を深く学び命の尊さを知ることができました。

 軍隊だけではなく、実生活においても国の宗教であるユダヤ教の教えに敬意を表して、神学校にも通いました。お陰さまでユダヤ教の基礎知識も一通り学びました。日本では、幼い頃カトリックの幼稚園に通い賛美歌を習った事実も記憶しています。今でも讃美歌の歌詞もメロディーも覚えています。 小学校の頃は、明治生まれの亡き祖母と叔母のお供で金光教という宗教とも出会いました。祖母から何度も教えられた『お陰さまに感謝しなさい』の言葉は、今日でも私の信念として生きています。あの当時の亡き祖母の信仰の強さには、子供ながらに目を見張りました。祖母は貧乏な生活だったあの時代に、何とか家計のやり繰りをして金光教の親先生{三宅先生}に献金すると言って送金を続けていました。今は亡き祖母の、あの頃の後ろ姿が鮮明に記憶に残っています。これらの記憶が私の人生哲学の基礎となっています。

 私は幾度かの戦争を通過してきましたが、心の底では常に戦争のない平和な世界を夢見ていました。そんな折、今から数年前に妻のエステルがユダヤとパレスチナの共学共存を目指す中学校クラブ活動の指導者に選ばれました。この活動が中学校の生徒だけの枠組みを超えた、両親や地域にも拡大していくコミュニティー平和推進活動だと知った頃から、私は共鳴して積極的に奉仕参加を始めました。 活動開始当初、エステルは何度もアラブの村へ足を運びました。その都度私も彼女の要請でアラブの村訪問に同伴しました。通常は近づかないアラブの村なのですが、彼女は私が日本人なので一緒に行けば安全だと笑って言いました。これはまんざら嘘でもなかったようです。訪問の回を重ねることにより、自然にアラブの村に何人もの友人を持つ結果となりました。

 私たちは、このようにして共学共存の現場の奉仕活動に生きがいを見つけたのです。しかしながら我が家では息子たちは好むと好まざるに関わらず、徴兵制度という歯車の中で、対アラブ軍事活動をしているのも事実なのです。 このように、私たちは家庭の中でも相反する複雑な共存思考の中にいるのです。今、エステルと現場の共学共存推進活動で子どもたちの輪の中にいて彼らの輝く瞳を見つめる時、大いなる喜びを感じています。もちろん 共学共存推進支援には、絶対に欠かせない組織力の重要性も充分認識していますが、本音を言えば私は身体で行動する現場の活動が好きなのかも知れません。 そんな時に、松村さんという素晴らしい仲間との出会いがあって、更に大きく活動できる環境が整ってきたのです。松村さんの平和に対する姿勢や、共学共存への大和魂的人生哲学は、素晴らしいと思っています。お互いに学ぶものが沢山あると感じながら、これから先も力を合わせて進んでいこうと思っています。 日本の終戦記念日を前にして、イスラエルという国の終戦とはなんだろう、平和は到来するのだろうか等々を自問しながら、より強く共学共存推進支援活動を進展させようと静かに意気込んでいます。日本の仲間の皆様の応援をお待ち致しております。 (2009年終戦記念日を目前に、イスラエルのキブツにて)

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「イスラエルとパレスチナ」編 特別臨時の巻3 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会3

2010年06月19日 08時25分30秒 | イスラエル・パレスチナ

送っていただいた資料は最初画像としてしかコピーできないと思っていました。しかし試してみるとワード文章としてコピーができることがわかりました。そこで冒頭の記事と山崎さんのエッセーと山崎さんの奥さんの3本の記事を紹介します。

 冒頭の記事

 ガザ戦争(08.12.27~09.01.12)の結果、今年は新年早々からネゲブ地域のアラブ人とユダヤ人のコミュニティー間で双方の嫌悪感がつのり暴力沙汰が増えました。アラブ人とユダヤ人の間に築かれた今までのデリケートな均衡関係が崩れるのではないかという危機感もありました。私たちはこの問題に直接取り組まなければなりませんでした。中東とイスラエルのこの地に新しい未来を切り拓きたいと行動してきた私たちの努力と成果が、水の泡になる懸念が出てきたのです。

  しかしこの試練を通して、私たちは今まで以上に「ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会」(注)の活動に確信を持ち、鍛えられたと感じています。戦争という暴力に対処する唯一の解決法は、真の共存を推進していくことです。今日、ネゲブ地域に私たちと同じ夢を持つ人々が増えています。この9月に始まる新学期から新しい20家族以上の人々が、ユダヤ・アラブ・バイリンガル・多文化容認校での教育を選択しました。ベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール校では、3~7歳の子どもたち約70人が人種差別のないバイリンガル・マルチカルチャーの統合学校で学習を始めます。

 (注)2006年、イスラエル南部のベルシェバ地域でユダヤ・アラブの平等教育推進のために設立されたNGO組織。会員はユダヤ人アラブ人25名から成る。ユダヤ人とアラブ人の親たち、教師、コミュニティー活動家、ベルシェバの市民から構成され2民族間の協力、相互理解と信頼を築くために活動している。2007年4月イスラエル法務省よりNGO組織として正式に認可された。

  一年生の登録者は25名で、開校が保証されました。そこで、今年3月に二つの重要な会合が持たれました。一つはベルシェバ市庁職員との会合、もう一つはイスラエル教育省職員との会合でした。この会合でユダヤ・アラブの共同事業は、ベルシェバ副市長であり教育担当官ヘフツイ・ゾハル博士と地域教育視学官であるユディット・ブルーム女史から祝辞を受けました。

 その後、ベルシェバ地域教育視学官の先導で関係3団体の実行委員会が組織されました。私たちの共通の目標を実行に移すためです。すでに、1年生の年間学習計画と教授法の規範設定任務も終わりました。

  ベルシェバ市庁はハガール校に最終敷地と施設を譲渡することを宣言し、このことに対し「ハガール協会」は満足しています。ハガール小学校は、人口の老齢化により例外的に生徒数が減尐し、閉校寸前のデガニア校の中に併設されます。校舎は古いけれど広いです。校庭は残念ながら荒れています。ハガール校併設の提案は、デガニア校とその周辺地域に活力を与えるために出されたものですが、その提案を私たちは受諾しました。そして、ハガール校が発展した暁にはハガール校の最終校舎になるという確約があります。この校舎は、ベルシェバ市庁が割り当てたハガール幼稚園と尐々離れていますが、二施設はハンド・イン・ハンド・ハガール校として一体です。

  奨学金制度も発足しました。今年は、経済的な理由から援助を必要としている家族に奨学金を支給するため、ソーシャル・ワーカーとコミュニティー代表、ハガール協会代表から成る独立した委員会を設置しました。2008 ~2009年度は、10、000ドルの予算が組まれ、子ども一人あたり75ドル(295シェケル)から、1、550ドル(6、000シェケル)までの奨学金が授与されました。ハガール協会は、質の高い教育がすべての子どもに行きわたるよう配慮しています。私たちは経済的援助を求めた全家族に奨学金を与えられたことを誇りに思っています。 このように、開校のための条件がそろいました。親たちやボランティアの活動で校舎や校庭も整いつつあります。私たちは、胸を踊らせて、9月1日のベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール小学校開校と1年生の入学式を待っています。(翻訳と要約:松村)  

 右の写真はタルブッカと呼ばれるアラブの太鼓演奏です。スカーフをしている子とそうでない子がいますね。

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「イスラエルとパレスチナ」編 特別臨時の巻2 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会2

2010年06月17日 08時36分43秒 | イスラエル・パレスチナ

 写真は同じく雑誌の表紙の写真でベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール幼稚園4-5歳児の童話劇の一コマです。

 冬目漱石さんコメント有難うございました。興味深くご紹介のブログを拝見しました。私は以前にも書きましたようにラディカルな無神論者です。その私のイエスの認識にはキリスト教徒の皆さんには間違いであったり、不愉快な思いをさせるのではないかといつも気にしています。間違いなどぜひコメントにてご批判賜れば幸いです。

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「イスラエルとパレスチナ」編 特別臨時の巻1 ユダヤ・アラブ平等教育推進ハガール協会1

2010年06月17日 08時26分01秒 | イスラエル・パレスチナ

 2010年4月4日に現地ガイド山崎さんのアラブとユダヤの「共学・共存」運動につて紹介しました。

 その具体的な運動の様子を伝える資料が山崎さんより送られてきました。山崎さん有難うございました。2006年イスラエル南部ベルシェバで設立されたユダヤ人・アラブ人の平等教育推進ためのNGO組織の2009年8月発行のケレン・ハオールという名前の機関紙第3号です。

 冒頭の記事は人種差別のないベルシェバ・ハンド・イン・ハンド・ハガール小学校の開校を伝えています。

 山崎さんの「息子の入隊と平和活動の狭間で」というエッセーがあります。山崎さんの奥さん(すでに紹介したようにユダヤ人)のアラブの中学校訪問記事もあります。

 中島ヤスミン氏の「ユダヤ・アラブ政治懇談会を見学して」という記事の中に「外見だけでは識別できないユダヤ人とアラブ人の顔、顔」という話もありました。今イスラエルに住むユダヤ人よりも現在パレスチナに住むアラブ人の方が離散(ディアスポラ)以前のユダヤ人に遺伝子が近いという説がかなり有力なようです。またアシュケナジウム系のユダヤ人のハザール人起源説もかなり有力なようです。その説については2009年7月1日に紹介しているのでご覧ください。

 その他多くの興味ある記事の満載です。残念ながらすべてを紹介できませんので、興味のある方はコメントで連絡いただければ、メールの添付資料として全文を送らせていただきますので是非ご一報ください。

 画像は雑誌の表紙の題字です。左上がアラビア語、右上がヘブライ語ですね。このケレン・ハオールというのはヘブライ語で「暗闇の中へ差し込む一すじの光」という意味だそうです

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡22 山上の垂訓教会2

2010年06月15日 08時29分03秒 | イスラエル・パレスチナ

 山上の垂訓教会の内部です。

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「イスラエルとパレスチナ」編 イエスの足跡21 山上の垂訓教会1

2010年06月15日 08時23分37秒 | イスラエル・パレスチナ

 写真は「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである」に始まるイエスのもっとも有名な山上の説教(マタイ5章~7章)があった場所に立つ山上の垂訓教会です。

 以前からこの「心の貧しい人」という意味がわかりませんでした。そこで少し調べてみることにしました。ルカ6章―20~21節には同じような言葉があります。「貧しいものは幸いである。****今飢えている人々は幸いである」 こちらの方はよくわかります。イエスは私のような貧乏人の味方なんだな!と。

 田川建三氏はマタイの「心の貧しい人」を「霊において貧しい人」(ギデオン聖書英文ではthe poor in spirit)と訳してこれはマタイの著者の付け加えとしています。その意味は「金がない人ではなく、『霊』に置いておごり高ぶっていない者、神に対して謙虚であるものが祝福の対象」としてこの思想をユダヤ教の伝統だとしています(「イエスという男」p72)。高尾利数氏はこの田川氏の説を踏まえルカのほうがイエスの本来の教えでありマタイの「心の***」はルカの本来の意味を「換骨奪胎」(イエスとは誰だ)p290)したものだと断じています。

 いやはや聖書、キリスト教は難しい。

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