100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「フィリピン」編 多民族多言語国家2 イフガオ族の美人

2018年01月30日 08時18分22秒 | フィリピン

 

 写真は棚田で有名な(後日紹介予定)イフガオ族の雑貨屋さんです。彼女はイフガオ族の言語、多数民族タガログ族の言語を基にしたフィリピン語、それに英語が話せます。勿論私より英語はうまいです。私の聞き間違いでなければ19歳を筆頭に3人子供がいるそうです。美人で若く見えますね。フィリピンではフィリピン語(タガログ語)と英語が公用語です。したがってタガログ族以外の民族は最低自分の母語に英語とフィリピン語が必修というわけです。

 この店にはただ暇つぶしに入っただけでしたがこの若い美人のおかーさんは親密に話しかけてくれました。そこでバナナチップス買うことになりました。ここだけではなく何処でも「おもてなし」、ホスピタリティー精神、気遣いはすばらしいと感じました。フィリピン人は「介護」の仕事でたくさんの人が日本にきているそうですが、私もフィリピン人の介護を受けたいと思いました。(フィリピン人の海外出稼ぎ労働者は800万人 総人口は1億人)

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「フィリピン」編 多民族多言語国家1“VERGIE  SOULIS”さん 

2018年01月30日 08時13分46秒 | フィリピン

 

写真はルソン島での(8日間)の現地ガイドの“VERGIE  SOULIS”さんです。祖父は日本人で母方はスペイン系だそうです。殆ど訛りのない日本語ぺらぺらの方でした。英語(公用語)は勿論スペイン語もおできになるそうです。(スペイン語は1986年まで公用語)聞き損ねたのでよくわかりませんが他の言語もおできになるようです。このようにフィリピン人以外の人たちとの混血児は珍しくないようです。歴史上活躍した人々は圧倒的にメソティーソとよばれる混血の人が多いようです。経済界は中国系のメソティーソが牛耳っているようです。

 フィリピンでの民族も多様でウイキペディアの記載によれば母語集団172とあったとか思えば行を進めると100以上の言語集団とあり、よくわかりませんが、とにかく多様なようです。

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「フィリピン」編 マニラ空港にて2

2018年01月27日 08時14分18秒 | フィリピン

 

 そうです。このような表示がありました。

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「フィリピン」編 マニラ空港にて1

2018年01月27日 08時12分00秒 | フィリピン

 

 マニラ空港に降り立ち国内線を待つ間、周辺をキョロキョロしていると、このようなところがありました。よく見るとかなりの数があります。どうやら日本庭園のようです、なぜこんなところに?答えは次項。

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「フィリピン」編 機内で

2018年01月27日 08時08分23秒 | フィリピン

 

 フィリピン航空でマニラに向かいました。座席の前にあるテレビ画面を見ていると、このような画面が現れました。10分ほどの間隔で現れます。鈍い私には暫しわかりませんでした。よく見ると”mecca”という字に気がつきました。それがアラビア文字にもなります。ようやくわかりました。イスラーム教徒の礼拝の方向を示しているようです。イスラーム国のエミレーツの飛行機にも乗ったことがありますが、このようなものは初めて見ました。イスラーム教徒の宇宙飛行士がメッカの方向はどちらか、と騒いだ話を以前聞いたことを思い出しなした。

「台湾」編は一時中断します。

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「フィリピン」編 予告

2018年01月12日 08時13分33秒 | フィリピン

 

 これからフィリピン旅行に出かけます。帰宅は24日になるので、その間このブログを休みます。再開は27日の予定です。いつものセリフ「これが最後の旅行にならないことを念じて」

 旅程図は「ワールド航空サービス」の案内リーフレットからのコピーです。

 このフィリピン旅行を決めたとき一番先に思い出したのは「桂・タフト密約」でした。

これは1905年に成立したアメリカと日本の、フィリピンと朝鮮の支配権を相互に認めた秘密の分割協定です。この秘密協定が日本で明らかになったのは敗戦後のことです。日本はこのアメリカの同意の下、「断固たる手段」として韓国併合を進めていく、一方アメリカは、フィリピン併合を確固たるものにしたのでした。

なぜかこの密約は日本近代史でもあまり取り上げられていません。日本のフィリピン関係の書物でも私が知る限りでは見当たりませんでした。

こんなことを思いながらのフィリピン旅行出発です。

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「台湾」編 台南8 延平郡王祠2

2018年01月09日 08時19分49秒 | 台湾

 彼の日本人の母「田川松」の位牌も安置されているとウィキペディアにはありますが、残念ながらお目にかかれませんでした。蓮舫さんのことを思い出しながらの1日でした。

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「台湾」編 台南7 延平郡王祠1

2018年01月09日 08時17分32秒 | 台湾

 

 鄭成功を祀っている延平郡王祠は今回のツアーコースにはなかったのですが、私がお願いして立ち寄っていただきました。

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「台湾」編 台南6 安平古堡2

2018年01月09日 08時15分12秒 | 台湾

 

 やはり鄭成功の碑があります。

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「台湾」編 台南5 安平古堡1

2018年01月09日 08時12分14秒 | 台湾

 

 前回紹介した赤崁樓より少し以前1624年最初にオランダ人が立てた城塞がこの安平古堡です。オランダ人の命名はゼーランディアでしたが鄭成功が安平古堡と命名し当初はこちらが政治の中心でしたが、清朝時代になり赤崁樓に移ります。

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「台湾」編 台南4 赤嵌楼(セッカンロウ)4

2018年01月06日 08時18分19秒 | 台湾

 

 ここにこのような日本人の像がありました。私はこの羽鳥又男(1892~1975)を知りませんでした。びっくりしました。彼は1942年に台南市長になりこの赤嵌楼の修復したことでこのように碑まで建立されたようです。

 「赤崁樓の修復作業は1943年3月1日に始められ、1944年12月20日に完了した。総工費65,000円。この修復作業は台湾總総督府の支持を得られず、日本軍も作業を妨害したが、羽鳥は赤崁樓の修復を完遂した」(ウィキペディアより)

 ついで余談話を一つ。

 1897年森川清次郎という36歳の日本人が巡査として台湾に赴任しました。その彼が今村の廟に慈愛公として永遠の村の守護神として祭られています。その詳細は「台湾の歓び」(四方田犬彦著)p303~305をご覧ください。

 以前台湾の親日は2・28事件に由来すると書きましたが、それだけではないようですね。

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「台湾」編 台南3 赤嵌楼(セッカンロウ)3

2018年01月06日 08時15分51秒 | 台湾

 

 オランダと鄭成功の戦いの船の模型が展示されていました。

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「台湾」編 台南2 赤嵌楼(セッカンロウ)2

2018年01月06日 08時13分48秒 | 台湾

 

 というわけで鄭成功の碑がありました。

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「台湾」編 台南1 赤嵌楼(セッカンロウ)1

2018年01月06日 08時11分00秒 | 台湾

 

 高雄から台南に向かいました。台湾(島)には2千数百年前にオーストロネシア語族が住み始め約400年前まで近代的意味での国家は形成されていませんでした。そこに国家権力を背景にしたオランダ人が來島し、中国大陸からは漢民族の移住が始まります。そこで両者の争いが始まり、その主要な舞台が台南でした。それ故この地には両者の争いのあとが残っています。その代表的建物が赤嵌楼です。1653年にオランダ軍が建てプロビデンシャル城(紅毛城)と呼ばれていました。1661年日本でも有名な日本人を母に持ち浄瑠璃「国姓爺合戦」のモデルになった鄭成功がオランダを駆逐します。そしてこの赤嵌楼は台湾全党の中央機関になります。清王朝と対立していた鄭成功は病死しこの地は清王朝の支配下になります。その後は略。

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「台湾」編 高雄6 蓮池譚3 龍虎塔

2018年01月03日 08時16分49秒 | 台湾

 

 この公園の目玉はこの龍虎塔のようです。台湾では一二支の中で龍がよい動物で虎が悪い動物だと信じられています。そこで龍塔から入り虎塔を出ると善人になれると信じられているそうです。または厄除けになるという説もあるようです。私も龍から虎の口を出てみました。

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