100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「出会いふれあい」トルコのコンヤで

2024年07月12日 07時54分17秒 | 出会いふれあい

写真上はコンヤで早朝の散歩をしていた時に出会った子供たちです。朝食のパンを売っていた青年?にも出会いました(写真中)。メルハバ(今日は)というトルコ語の挨拶をしてその後無言の会話?をしました。そこへ弟らしき中学生が現れました(写真下)。彼は弟にお茶を持ってくるように指示したようでした。香草が入ったお茶を勧めてくれました。大変おいしくいただきました。彼らも商売だろうと思い代金を支払おうとしましたが受け取りませんでした。海外旅行中に出会った忘れられない人物の一人です。
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「出会いふれあい」編 フランス人の傲慢さ

2024年07月09日 07時51分51秒 | 出会いふれあい

  イギリスに反してフランスの現地ガイドの傲慢無礼さにはまったく不愉快でした。添乗員に英語で説明した後、いかにも小馬鹿した発音で“understand?”(分かったか) を繰り返しました。27年経過したいまもこの不愉快なアンダースタンドの声が耳から消えません。また ガイド中に他国人ツアーの悪口を盛んに言ったガイドもいました。
 別れ際に私に次回はフランス語を勉強してフランスへ来てくださいと言ったガイドもいました。フランス語帝国主義メ!
 フランスでは犬の散歩の時糞の始末をしないようです。あちらこちらに糞が放置したままで、たびたびフンづけをしました。というわけでこの犬の糞ともに食べ物を除いてフランス(イタリア料理の方が好き)に私は良い想い出はありません。美人にもあまり出会いませんでした。 
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「出会いふれあい」編 イギリス人の親切

2024年07月06日 07時51分49秒 | 出会いふれあい

海外に出かける時その目的地について濃淡はありますがある程度のイメージは持って行きます。そのイメージどおりの時は「やっぱりそうか」と思い、違っていれば「ヘエー ホントー」となり、それが旅行の楽しみの一つでもあります。
 イギリスではその二つがはっきりした楽しい旅でした。
 まず「やっぱり」の方はやっぱり食べ物でした。まずいです。食べ物のうまい、まずいは個人の好みの問題で個人差がありますが、この国は私のような味痴でもわかる「まずい国」です。特にこの年(1997年)は狂牛病が問題になっていて肉類は七面鳥だけでした。これはまたまずい。皆さんイギリスにお出かけの際は、醤油、マヨネーズ、ドレッシング、味噌などの持参を勧めします。今から135年ほど前に欧米を視察した久米邦武が「諺ニ曰ク、倫敦(ロンドン)ノ食倒レ、巴里(パリ)ノ衣倒レ」(「米欧回覧実記3」岩波文庫 p53)と書いているのは不可解です。
 「ヘエー」のほうです。イギリス人は個人主義が徹底して冷たい人だというイメージを待っていました。ところがこれはまったく間違っていました。親切で、暖かい人たちでした。(特に女性)自由時間にロンドンのハイドパークを散歩して方向音痴の私は帰り道がわからなくなって地図を見ながらキョロキョロとしていると30代くらいの女性が寄ってきて何処へ行くのか尋ねてくれました。ホテルの名前を言うと親切に教えてくれました。本当を言うと英語なので半分ぐらいしか分からなかったのですが。私の最大限の英語力で“Thank you very much for your kindness” と言うと、バスに乗り込もうとしていた彼女はこちらを向いてにっこりと微笑んでくれました。旅行中に方向音痴の私はキョロキョロすることが多いのですがこんなことは初めてでした。
 イギリスのスコットランド、エディンバラでのことです。1人でお店の準備をしていた50代くらいの女性に両替所を尋ねました。私の唐人ぶりをすばやく察知したのか、お店をそのままにして両替所の所まで手をとるようにして連れて行ってくれました。
 イギリスでの現地ガイド(女性)も親切でやさしくてわかりやすい英語での案内でした。なぜか、男性の英語はむずかしかったです。Later(後で)をラターと発音した男性運転手がいました。日本からの留学生に偶然カフェで出会いそのことを話すと、同感との返事でした。

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「出会い・ふれあい」アルメニア人のおもてなし

2024年07月03日 07時49分37秒 | 出会いふれあい

2003年のコーカサス旅行で出会ったアルメニア人の「おもてなし」にも感激しました。生贄の儀式が現在も残っているという古いアルメニアのゲガルド修道院で子供づれの生贄の羊のバーベキューパーティーに出会い大歓迎を受けました。自家製のワイン、焼肉などご馳走になり土産まで持たされました。我々のバスにはいつも周辺の人々が手を振って歓迎してくれました。このような歓迎をうけた国としては私の乏しい海外旅行の中ではルーマニア、トルコがありました。なぜこのようにアルメニアの人々は他国の人にこれほど親切なのでしょうか。
    
アルメニア人はユダヤ人についでディアスポラ、世界に離散した人々が多いのです。ヨーロッパ各地を旅行していると各地にアルメニア教会を見ることができます。この地域は古くから東西交流の接点でもあり言葉を代えれば東西の強国にはさまれ双方から強奪にあった地域です。その証拠は各地の破壊された遺跡に残っています。最近では19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてのトルコによる百万とも二百万とも言われる大虐殺があります。なおこのときにもクルド人の悲劇がありました。アルメニア人を殺せばクルドの独立を認めるというトルコ政府の扇動に乗ってこの虐殺にクルド人も一役買ったのでした。(この部分の説明は私の質問に現地ガイドが答えたもの)しかしトルコはいまだにその事実を認めようとせずしたがって謝罪もしていません。現地のガイドは虐殺博物館で事実を述べただけでしたが、夕食時での私との個人的な話のとき(英語ですからほとんどわかりませんでしたが)apologize(謝罪)という言葉が強く私に迫ってきて日本政府のことを思い出していました。
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「出会いふれあい」編 ルーマニアの手編みセーター

2024年06月30日 07時53分20秒 | 出会いふれあい

 ルーマニアで吸血鬼ドラキュラーの舞台となったブラン城を訪れたとき、ご婦人たちがセーターを編んでいました。私は旅ではめったに物は買わないのですが、このときはなぜか血を吸われる心配よりはルーマニアのおもてなしと家庭を持たない私はアットホームを感じて8ドルで購入しました。25年たった今もセーターとともに懐かしい思い出のシーンです。齢を重ねるごとに冬の寒さが身にしみてきます。そしてこの手編み純毛セーターのありがたみを感じます。しかし、この冬はこのセーターを着られる可能性はかなり低いようです(地獄では着られません)

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「出会い・ふれあい」編 ルーマニア人のおもてなし

2024年06月27日 07時57分28秒 | 出会いふれあい

お金がなく、ケチで、外国語がダメで、体に少し障害があり、年寄りで、そのうえ稀代の方向音痴の私にとって外国旅行はパックツァーでしかありません。パックツアーの最大の欠点は決められたところを現地ガイドの説明(日本語のガイドでない場合は添乗員の日本語訳で)を受け多人数の時は質問もできなく時間に縛られて急いで次の観光場所へ移動の繰り返しでその土地の人との「出会い・ふれ合い」はほとんどないことです。その数少ない貴重な「出会い・ふれあい」のいくつかを以下紹介します。
ルーマニアにはブルガリアからドナウ河国境を越えたのですが、入管事務所の役人の威張った態度に一同憤慨してこの先の旅に不安を覚えました。当日ブルガリアからルーマニア入国までの現地美人ガイド、テオドラさんが念入りにお化粧した意味はこれにあったようです。(考えてください)     
 ところが入国してみてルーマニア人の温かいもてなしには感激しました。ビカズという町のガソリンスタンドでトイレ休憩の時でした。私は用がなかったので向かい側で果樹園の手入れをしている母子の写真を無断で撮影しました(冒頭写真)。それを感知した息子さん(30歳くらい)がこちらに向かって来ました。てっきり叱られるものと思っていたら手招きして中に入れといっているようでした。家の中まで案内されブドウとクルミをご馳走になりました。お母さんはデカンターにワインを入れて持ってこようとしていました。その間、トイレを済ました同行の人たちは私のいないのに気づき騒ぎになっていました。探し出されてバスに戻りました。そのときお母さんはたくさんのブドウを持たせてくれました。
 皆さんにお詫びを言いながらそのブドウを配りました。そのとき名古屋の人に「トイレ休憩はトイレ休憩だけにしてチョ」と叱られたのも想い出の一つです。 いまどき見知らぬ人、それも外国人を家の中まで案内し、ワインまでご馳走しようとする人がこの地球上に存在していたことに感激でした。
自由時間にキオスクみたいなところでビールを求めそこのテーブルで一人飲んでいました。そこのテーブルは空きが沢山あったにもかかわらず若い男女がわたくしのテーブルに向かい合って座りました。彼らは私がつまみなしにビールを飲んでいるのを見て彼らのつまみを勧めてくれました。何でもないようですが旅人の私には寂寥感もあったので大感激でした。写真がないのが残念。  
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「ツアーコースにない所」チェルニフィツイのユダヤ人

2024年06月24日 07時56分07秒 | ツアーコースにないところ

チェルニフィツイはルーマニア、モルドヴァに近い国境の街です。歴史的には沢山の国がこの地を支配しました。(モルダヴィア公国→オスマン帝国→ポーランド共和国→ハプスブルク帝国→ルーマニア王国→ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国→1991年ウクライナ)
 したがって2001年の統計では65の民族の都市です。1930年の統計ではユダヤ人が最大で29%、ルーマニア人23%、ドイツ人21%、ウクライナ人19%の人口構成でしたが、現在(2012年)はウクライナ人80%、ロシア人11%になっており、Lonely planetの表現によればユダヤ人、ルーマニア人、ドイツ人の社会は今やghostly presence (幽霊のような存在?)になってしまいました。
 そのghostly presenceの一つがかつてのシナゴーグで1954年劇場になりました(冒頭の写真)。私には全然理解できませんがlonely planetによればアフリカ・中近東様式の建物だそうです。
 Lonely planetにも記載がありませんが、街でこのような建物を見ました。この地のユダヤ人の歴史・文化博物館と表示されています。中に入って見学をしたかったー!
 1908年に第1回イディッシュ世界会議が開かれていることからもこの地のユダヤ人の重要性は見てとれます。
 世界的に有名な詩人Paul Celan というドイツ系ユダヤ人の出生地です。私はこの人物を全然知りませんが、興味ある人がいらっしゃる、かもと言うことで紹介します。彼の記念館もあるようです。
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「ツアーコースにない所」リヴィウのユダヤ人

2024年06月21日 07時53分08秒 | ツアーコースにないところ

  リヴィウはポーランドに近いところに位置していていますが、現在ウクライナ民族意識の強い地域です。このリヴィウには第2次世界大戦以前には10万人のユダヤ人が住んでいました。大戦中にはドイツ、ポーランドからナチスに追われポーランド地域も含めてリヴィウ近郊のユダヤ人人口は60万になりました。そしてここに侵攻したナチスによって虐殺され生き残ったのは2名だけでした。(ウクライナ全体では90万人がナチスドイツに虐殺されました)現在のリヴィウのユダヤ人は約2000人です。
現在リヴィウには多くのユダヤ人に関係するところが残っていますが、訪れることができたのは市の中心部に残されていた14世紀(lonely  planetでは16世紀後半)に建設され1941年にナチスよって破壊されたGolden Rose Synagogueと呼ばれているシナゴーグ廃墟跡でした。繁華街の中心部にあり隣はレストランのオープンカフェで200坪ぐらいのフェンスで囲まれた廃墟でした。この地域のユダヤ人によるシナゴーグのレプリカ再建計画はあるとはLonely planet の記述です。ここでもその存在を知らない人が多くて同じ路を何度も行ったり来たりして尋ね歩き、歴史の移ろいを感じました。
 フェンスにはその歴史と往年の写真が置かれていました。
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「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人2

2024年06月18日 08時01分52秒 | ツアーコースにないところ

 冒頭の写真は玄関から入ったところです。ホロコーストで多くの人が殺害されましたがキエフでは現在6万人のユダヤ人が生活しています(2012年現在)。
 2階からの写真です。1階の大広間(?)は暗いので私のカメラでは撮影できませんでした。
  席にはこのようにキルル文字(ロシア語?ウクライナ語?)とヘブライ文字での聖書が置かれていました。各冊ともかなり読み込まれているようで汚れて?いました。
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「ツアーコースにない所」キエフのユダヤ人1

2024年06月15日 07時55分01秒 | ツアーコースにないところ
 
 ウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ系であることをご存じの方は多いいと思います。
 ウクライナは古くから多くの民族が通過し、定住した地域です。その中でもユダヤ人は政治・経済・文化的にも世界史に多くの影響を与えてきました。しかし現在はポグロム、ホロコーストなどと呼ばれている虐殺などでその多くはアメリカ合州国、イスラエルなどに移住してその数は非常に少なくなっています。
たとえばオデッサでは20世紀初頭、市の人口の3分の1を数えるまでになっていました。ところがポグロム(1905年)、ホロコースト(1941年―ナチ)により10万人のユダヤ人はアメリカ合州国ニューヨークなどに移住しました。現在ニューヨークには“Little Odessa”(小オデッサ)と呼ばれている街があります。
そこでこの地のユダヤ人の痕跡を訪ねてみようと思いましたが、このツアーのコースには入っていませんし、日本で最も読まれているガイドブック「地球の歩き方」にはユダヤ人についての記述は全くありません。したがって?日本人観光者には興味がない人が多いようです。Lonely planet“Ukraine “ にシナゴーグ(ユダヤ教の教会)などがキエフ、リヴィウ、チェルノフッイにあると記述されていました。
そこであらかじめ添乗員の堤さんにlonely planet にある地図のコピーを渡して見学可能性を確かめてもらいました。そして幸いにも3か所とも見学できました。
キエフではホテルの近くにシナゴーグがあり見学できました。冒頭写真のように立派なシナゴーグでした。しかし、方向音痴のわたくしはこのシナゴーグにたどり着くまでは一苦労でした。「シナゴーグ。」と言って訪ね歩きましたが多くの人が首を振るだけでした。
最後に出会ったのが写真の人でした。道路の掃除をしていた彼は掃除道具をその場に放置したまま足早にシナゴーグまで連れて行ってくれました。ユダヤ人ですかと尋ねるとそうだと答えてくれました。
 写真はこのシナゴーグの標識です。キエフユダヤ人共同体センターと書かれていますね


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「ツアーコースにない所」編 煙突掃除組合

2024年06月12日 07時53分49秒 | ツアーコースにないところ

2001年、 オーストリアのウイーンでの昼食時に現地のガイドにウイーンでは煙突掃除士がいるそうですねと以前読んだ本を思い出して尋ねてみました。するとこの近くにその組合事務所があるとの返事なのでラッキーと早速出かけてみました。写真はその「ウイーン煙突掃除業者組合」の看板です。 
 堀野収氏の「ウイーン素描」JTB出版によって少し紹介しておきます。(p12~26) 人口160万人のウイーンに250人の掃除士がいるそうです。3年制の養成学校があり資格認定の試験があって合格者がこのウイーン市認定の組合(ギルド)に入ることが出来ます。このギルドに入らなくては煙突掃除の仕事は出来ません。ギルドといえば世界史に出てくる過去のものと思いますが、現在も約60のギルドが当局から認定されています。 煙突掃除士は法律と条例で防火の責任と義務が負わされています。煙突については警察のような強力な調査権を持ち、煙突掃除士の来訪を受けた家庭は、どんな場合でも入室を拒否できません。
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「ツアーコースにない所」編 マラケシュのユダヤ人居住区4

2024年06月09日 07時53分25秒 | ツアーコースにないところ

 墓地に行くことにしました。道はすでに分かっていたのですが、シナゴーグでのポン引きガイドがくっついて離れません。今回は入口は開いていたのですが、入ると同時に制止されました。またも怪しまれたのです。今回も他の団体と一緒になだれ込みました。ビックリしました。広大な墓地でした。警備のような人からは付きまとわれるし、約束の時間は迫っているし、慌てて撮った写真なので分かり難いかと思いますがとにかく広大な墓地です。肉眼、カメラの視界を越えて広がっていました。1537年以来の墓地ですね。
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「ツアーコースにない所」編 マラケシュのユダヤ人居住区3

2024年06月06日 07時54分55秒 | ツアーコースにないところ

シャバトで悔しい思いをしたのですが、マラケシュでは3日の滞在で最終日にこのシナゴーグの近くの観光があったのでその観光をから抜け出してもう一度出かけることにしました。ところが添乗員がこれを許しません。「駄目だ」と強い調子です。押し問答の末時間を厳しく制限されようやく許可が出ました。パック旅行のつらいところ。急いで前回の同行者と出かけました。ところが前日の入口は入れたのですが、中の肝心のシナゴーグは開いていなく管理人のような人物が(前日とは違う)カギを開けてくれません。押し問答をしていると忽然と現れたポン引きガイド(注)が間に立ってとりなしてくれたのですが駄目です。そうこうしいるうちに団体の観光客が入ってきました。彼らには入口をあけて入れました。そのどさくさにまぎれて一緒になだれ込みました。入口の道路には警察がいました。どうやら我々二人は怪しまれたようです。前々回紹介したようにモロッコは他のイスラーム圏に比してユダヤ教徒には寛容ですが、2003年にカサブランカでは爆弾テロ事件があり33名死亡100名の負傷者が出ています。
冒頭写真はこのシナゴーグの内部です。 
(注)モロッコにはこのようなポン引きガイドが古くからいるようです。古くは1939年に旅した山田吉彦の「モロッコ」(岩波新書)にはこのようなポン引きガイドとの交情が書かれていますし、角田光代の「いつも旅のなか」(角川文庫)では以前紹介したトドラ渓谷(2008年11月17日)でのポン引きガイドが紹介されています。いずれも個性豊かなガイドです。
 本がたくさんありました。旧約聖書、トーラー、タルムードなどでしょうか。
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「ツアーコースにない所」マラケシュのユダヤ人居住区2

2024年06月03日 07時53分28秒 | ツアーコースにないところ

次に案内されたのはユダヤ人の墓地でした。しかしここもシャバトで中に入れません。写真はその入口です。ヘブライ文字が書かれています。数字の1537はキリスト教暦(所謂西暦)の年号で建立時を表わしていると思われます。もう一つの数字5227はユダヤ暦だと思います。
この1537年という年号で以下のようなことが読み取れます。8世紀に始まり1942年に完了するイベリア半島(スペイン・ポルトガル)からのキリスト教徒によるイスラーム教徒駆逐の運動レコンキスタによりイスラーム教国で共存していたユダヤ人もイベリア半島から追放されました。これにより15世紀にモロッコに移住してきたユダヤ人は6~8万人といわれています。ということでこのレコンキスタによりこの地に移住してきたユダヤ人の墓であろうと思われます。なおスペインからの移住者については2007年7月4日でも取り上げています。
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「ツアーコースにない所」 マラケシュのユダヤ人居住区1

2024年05月31日 08時04分26秒 | ツアーコースにないところ

モロッコのマラケシュで自由時間があったのでメラー(ユダヤ人居住区)に出かけました。同行の1人が付き合ってくれたのでタクシーで出かけました。タクシーを降りるとき運転手がポン引きガイドを紹介してくれました。lonely planet にはシナゴーグに行くには現地ガイドが必要と書いてあったので好都合でした。現地ガイドが私に”Japanese Jew?”(日系ユダヤ人か?)と尋ねました。多分メラーやシナゴーグを訪ねる日本人は珍しいのでしょう。
 さてシナゴーグに到着したのですが入口には閉まっていて入れません。ごたごたしていると人が出てきて今日は「シャバト」(土曜日でユダヤ教徒の安息日)で見学はできないとのことです。あなたはユダヤ人ですかと尋ねるとそうだとの返事です。そういえば「キッパ」を被っていました。(キッパについては2005年12月7日をご覧ください)あなたと入口の写真を、と頼みましたが、拒否でした。そこでそこを遠くから盗み撮りしたのがこの写真です。狭い路地の左側に少し見える人物が彼です。この写真でも分かるとおりここのメラーは高い塀で囲まれていました。
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