100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

番外編 お墓 イタリア ローマ カタコンベ(カタコーム)1

2005年12月27日 09時05分41秒 | 

 1996年イタリアを南はシチリア島から北は高級別荘が立ち並ぶコモ湖までパック旅行をしました。ローマでは午後の自由時間を利用して予てから行きたかったアッピア街道(注1)を歩きました。 

  (注1) BC312年に完成したローマからナポリ近くのカプアまでの最初の「高速幹線」路。

    「すべての道はローマに通ず」の元祖?

 カラカラ浴場(注2)までタクシーで行きそこからアッピア街道を徒歩で南下しました。勿論現在も利用されていて石畳の上をガタガタと車が走っていました。しばらくしてマイルストーン(注3)を発見しました。何の標識(当時は)もないので少し疑問に思いましたが、日本に帰って調べてみるとどうやら本物のようでした。ただし最近になって塩野七生氏の「ローマ人の物語の旅」を見ると本物ではなくレプリカで本物はカピトリーノの丘にあるそうです。 

  (注2) AD3世紀にカラカラ帝によって造られた大浴場。一度に1500人以上入れたそうで    す。

  (注3 )ローマから1ローマ・マイル(約1.5キロ)ごとに幹線道路に置いた大理石の円柱。  

 視界が広がり街道の脇に人が集まっていました。近づいて見るとカタコンベの入口でした。勉強不足のためここにカタコンベがあるとは予想していませんでした。そのとき昔学校で習ったカタコンベについて思い出していました。

 現在の高等学校の世界史教科書では

 「キリスト教徒は、ローマ皇帝の迫害に対し、カタコンベ(地下墳墓)にかくれて信仰を守っ  た」(三省堂世界史{B}2003年版p40)、

 「ローマ帝政時代に迫害されたキリスト教徒の地下の墓所兼礼拝所」(三省堂 詳解世界史p81 平成5年版)、

 「このような地下墓所は、禁圧されたキリスト教徒の集会場」(山川出版社 詳説世界史p39 2003年版) と記述され、

 いずれも「迫害」と「カタコンベ」との関連性が述べられています。この時点での私の理解もこの程度でした。しかし、このとき何かおかしいな、とも思いました。というのは、アッピア街道という日本では東海道に相当する交通量の多いいところ、気づかれ易いところにわざわざ隠れ場所を作るはずがないということです。目立たない人里はなれたところに作るはずだと。中に入って説明を受けたのですが英語だったので殆ど分かりませんでしたが、迫害の話はなかったような気がしました。長くなるので次回へ。写真はカタコンベ内部での説明会。

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番外編 お墓 カンボジア 4

2005年12月23日 09時37分57秒 | 

 同じ写真です

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番外編 お墓 カンボジア3

2005年12月23日 09時33分49秒 | 

 写真はトゥールスレン刑務所内に貼られていた処刑者の写真です。なぜか処刑される前に写真を撮ったそうです。

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番外編 お墓 カンボジア 2

2005年12月21日 09時09分07秒 | 

 写真はトゥールスレン刑務所です。

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番外編 お墓 カンボジア 1

2005年12月21日 09時04分51秒 | 

  この写真は何だと思いますか。クリックして拡大してみてください。ポル・ポト政権下で虐殺された人たちの頭蓋骨で形作られたカンボジアの地図です。 

 カンボジアのプノンペンではポル・ポト政権が作ったトゥールスレン刑務所(元高校校舎)を訪れました。そこでの写真です。ここに約2万人が収容され6人だけが生還しました。

 1975年に成立したポル・ポト政権は1979年までの4年間に200万~300万人(国民の約三分の一)の自国民を虐殺しました。特にインテリ層が対象になりました。メガネをかけているだけでインテリとみなされ処刑されました。いままでナチスのユダヤ人虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺を紹介してきましたが、カンボジアでは自国民虐殺です。アフリカのルアンダ、ダンフールの虐殺も他民族です。その点カンボジアの例はきわめて特異であると思います。

なぜ、人間は人間を殺すのですかね?

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番外編 お墓 アルメニア2

2005年12月19日 09時28分53秒 | 

  写真はエレバンから見たアララト山(大、小)です。アララト山は旧約聖書のノアの洪水で方舟がたどり着いたされるところです。したがってキリスト教徒であるアルメニア人には聖地です。アルメニア人の民族意識の中心となる聖地です。ところが現在はトルコ軍の管理下にあり、アルメニア人の立ち入りは禁止されています。

 アルメニア共和国の現外相はインタビューに答えて次のように言っています。「このビルからあの山までわずか40キロ。手を伸ばせば届きそうなほどです。それなのに私たちは決してあの山には行けません。アララト山はアルメニア人の誇りであると同時に、挫折の象徴なのです」(NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版2004年4月号p130)

 また余談ですが、アルメニアのキリスト教を東方正教会の一つと誤解している人がいます。確かに典礼は良く似たところがありますが違います。アルメニアキリスト教会は451年のカルケドンの宗教会議で単性論を理由に異端とされています。その流れにはエジプト、エチオピアのコプト教があります。アルメニアを旅行される方はこのことを踏まえて教会観光をされることを勧めます。

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番外編 お墓 アルメニア 1

2005年12月17日 09時25分46秒 | 

  アルメニアの首都エレバンではジェノサイド(虐殺)博物館へ行きました。アルメニア人大虐殺ついてあまり知られていないのでご存知ない方もおありと思いますので簡単に紹介しておきます。

 ヒトラーが以下のようなことを言っています。「アルメニア人殺しがすでに忘れ去られようとしていると同じように私のユダヤ人殺しもまもなく忘れ去られるであろう」 ヒトラーのユダヤ人大虐殺の先生がトルコのアルメニア人殺しだったのです。

 アルメニアは古くからの伝統を持つ国で、世界で最初にキリスト教を国教にしたことを誇りにしています。(301年)ヨーロッパを旅行していると各地でアルメニア教会に出会います。エルサレムにもあります。アルメニア人は当時オスマン帝国に支配されていました。19世紀の終わり頃より独立運動が盛んになり弾圧も激しくなり虐殺もされました。それがピークに達したのが1915年のことでした。100万人~200万が虐殺されと言われています。1922年ごろまで続いたといわれています。したがって現在のトルコ共和国を作った人たちも関係していたと言う説もあります。

 なお独立運動のみが虐殺の原因ではないと思われます。商売では三人のユダヤ人が一人のアルメニア人にあたるといわれることがあります。オスマン帝国末期に商売上手なアルメニア人が経済的地位を高めてきました。それに対して政治支配階級の領主と貧困な一般民衆の両者からの妬みがこの悲劇の根本的理由かもしれません。

 このときクルド人の悲劇がありました。アルメニア人を殺せばクルドの独立を認めるというトルコ政府の扇動に乗ってこの大虐殺にクルド人も一役買ったのでした。(この部分は私の質問に現地ガイドが答えたこと)

 そのため多くのアルメニア人は世界各地に離散しました。現在、アルメニア人の総人口は700万人でそのうち400万は海外に居住しているといわれています。トルコに復讐するための秘密結社があるといわれています。フォーサイスの小説にもチラッと出ています。

 しかしいまだに現在のトルコ政府はこれらの事実を認めようとせず、したがって謝罪もしていません。最近の朝日新聞は次のように伝えています。

 ノーベル文学賞に最も近いトルコ人作家といわれるオルハン・パムク氏が「100万人のアルメニア人が殺された。だが私以外にだれもそのことを語ろうとしない」と発言したことを理由に国家侮辱罪で起訴されている。

  皮肉なことにイスラエルはトルコ政府のアルメニア人虐殺否定に同調しています。

 トルコのEU加盟をめぐってこの問題が国際的にクローズアップされることが十分に考えられます。

 現地ガイドは虐殺博物館では事実を淡々と述べただけでしたが、夕食時での私との話の時(英語なので殆ど分かりませんでしたが)apologize(謝罪)という言葉が私に強く迫ってきました。写真は虐殺博物館の入口の掲示板です。

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番外編 お墓 アフリカの巻2

2005年11月13日 10時18分59秒 | 

 写真はガーナで撮影したものです。 

 ”SLAVE EXIT TO WAITING BOATS ” 待機中の船への奴隷出口とありました。

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番外編 お墓 アフリカの巻1

2005年11月13日 10時00分08秒 | 

 写真はアフリカ ベナンの海岸線にあるお墓です。内陸部から拉致された奴隷がアメリカ大陸へ移送されまでこの地で待機させられ、その間に死亡した人たちのお墓です。写真の向こう側は大西洋です。

 奴隷(交易)については後日「アフリカ編」で触れるつもりなので今回はこれだけにとどめておきます。一つだけ余談ですが触れておきます。アフリカ黒人奴隷がアメリカ大陸のどの地域に一番多く連れて行かれたか皆さんご存知ですか。アメリカのブッシュ大統領が「ブラジルには黒人がいるのですか?」といって世界の人々にその無知を笑われたそのブラジルが一番多かったのです。

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番外編 お墓 アイルランドの巻

2005年11月11日 10時07分18秒 | 

 アイルランド旅行に出かける前にガイドブックLONELY PLANET を見ていたらコークの市内地図に“Hiroshima & Nagasaki Monument “ と書いてありました。説明はありませんでした。日本語のガイドブック(地球の歩き方)にはありませんでした。このパックツアーの観光コースにも入っていません。そこで宿泊のホテルの近くだということを確認して早朝出かけることにしました。 しかし私は稀代の方向音痴(今回ダブリンで集合場所を間違えて皆さんにご迷惑を掛けました)なのでホテルの受付で場所を尋ねました。係りの人は暫し首を傾げていましたがようやく分かったか説明してくれました。しかし方向音痴と英語力の不足のためよくわかりません。ままよ、と出かけ途中でたずねましたが殆どの人は知りませんでした。地図を示しながら尋ね歩きました。一人の中年の男性が私の唐人ぶりをすばやく察知して非常に丁寧にゆっくり話し教えてくれ、最後には彼から握手まで求めてきてくれました。(Irish Hospitality ?)

 ようやく目的地に到達しました。3メートルほどの石碑が建っていました。しかしよく見ると「小さな国の自由のために第一次第二次世界大戦で戦った人のため」といった内容のものでした。アレッと思ってキョロキョロと周りを見渡すと1メートルもない石の碑がありました。そこには

”IN MEMORY OF THE VICTIMS OF HIROSHIMA & NAGASAKI . It must not happen again . 1984 “(広島、長崎の犠牲者を追悼。二度と再び起きてはならない。1984)

 という文章が刻まれていました。花束も供えてありました。感動しました。  日本に帰ってから、日本原水協に問い合わせてみるとその存在を知らないということなので、上記の文章と写真を送りました。「原水協通信」第717号にこの文章と写真がそのまま載りました。また広島市にも知らないということなので送りました。記念館にこの写真が飾ってあるかも。  

 広島、長崎の原爆投下は人類最大の悲劇の一つですが、次回からあと二つ人類最大の悲劇を取り上げます。                  

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番外編 お墓 ウズベキスタンの巻 最終回

2005年11月09日 08時54分31秒 | 

  10世紀以前のこの地の支配的宗教はゾロアスター教でした。そこでの葬送は鳥葬といわれるもので遺体を鳥に食べさせ、残ったお骨を壷に入れて埋葬します。この壷を「オッスアリー」といいます。いくつかの博物館で見ました。ところが鳥がいない土地では犬葬が行われたそうです。あらかじめそのために飼育しておいた犬に遺体を食べさせるというわけです。いやはや。

 次回はアイルランド感動の巻です。

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番外編 お墓 ウズベキスタンの巻7

2005年11月07日 10時13分37秒 | 

 写真はナヴォイ劇場の壁にはめ込まれている銘です。ロシア語、日本語、英語で書かれています。写真が少し見にくいので全文を書いておきます。

 「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百人の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

 次回で「お墓 ウズベキスタンの巻」は終わりなります。最終回は鳥肌が立つようなおぞましい話です。請うご期待。

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番外編 お墓 ウズベキスタンの巻6

2005年11月07日 09時55分47秒 | 

 タシケントにはナヴォイ・オペラ・バレエ劇場という大きな建物があります。これは旧日本人捕虜の強制労働で建設されたものです。日本人が建てたこの劇場は、地震のもびくともしなかったといわれているそうです。

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番外編 お墓 ウズベキスタンの巻5

2005年11月03日 11時13分34秒 | 

 日本人捕虜たちの足跡は砂漠の中の電柱設営、劇場建設などに見られます。 写真は彼らが設営した砂漠の中の電柱。緑が見えますが、当時はまったくの砂漠だったのですが、アムダリア河からの運河が近くを通るようになってこのようになったそうです

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番外編 お墓 ウズベキスタンの巻4

2005年11月03日 11時01分35秒 | 

 この墓地の近くには今では日本で見かけることのできなくなった大きな桑の木が実を付けていました。食べてみました。懐かしい味でした。日本人捕虜たちも食べたのでしょうか。この地は絹の絨毯の生産が盛んで街路樹などにも桑の木がたくさんありました。バザールでも桑の実が売られていました。 

 写真はこの墓地にあった不戦の誓いの碑です。

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