オスマントルコにはキリスト世界に比べて宗教的寛容さがあったのでここバルカンに多くのユダヤ人が暮らしていました。しかしなぜか日本のツアー?はイスラエルを除いてほとんどシナゴーグなどの観光はありません。
過去ウズベキスタン(2005年12月9日~11日)、モロッコ(2008年12月17日~27日、2009年2月7日)、チェコ(2005年12月17日)でのシナゴーグ観光はすべて自由時間の利用でした。今回偶然このモスタルでユダヤ人、シナゴーグ跡に出会いました。
オスマントルコにはキリスト世界に比べて宗教的寛容さがあったのでここバルカンに多くのユダヤ人が暮らしていました。しかしなぜか日本のツアー?はイスラエルを除いてほとんどシナゴーグなどの観光はありません。
過去ウズベキスタン(2005年12月9日~11日)、モロッコ(2008年12月17日~27日、2009年2月7日)、チェコ(2005年12月17日)でのシナゴーグ観光はすべて自由時間の利用でした。今回偶然このモスタルでユダヤ人、シナゴーグ跡に出会いました。
中世最大のユダヤ人哲学者マイモニデス(1135~1204)の像もありました。
実はこのコルドバではハスダイ・イブン・シャプルト(915~970または990)という人に出会いたかったので5月6日に紹介した現地ガイドに尋ねてみました。彼女は知っていましたが、彼を偲ぶ物は何もないとのことでした。そこで少し余談話ですが彼を紹介しておきます。
彼はこのコルドバ生まれのユダヤ人で医者、外交官、科学の後援者でした。私の関心は外交官としての彼です。 7世紀~10世紀にかけてカスピ海、黒海にかけハザールというトルコ系遊牧国家がありました。国王(カガン)が730年にユダヤ教に改宗しました。(最近の研究では支配層のみならず一般民衆にまでユダヤ教化が進んでいたと考えられています)そのハザールに後ウマイヤ朝の外務大臣であったハスダイが同じユダヤ教徒としての誼で手紙を送っており、それに対してカガンから返事が来ています。この往復書簡が現存しており、これがハザールという国を知る最も重要な史料とされています。
もう少し余談を続けます。このハザールは10世紀後半に消滅しますが、このユダヤ教徒がアシュケナジムの先祖ではないかという説が最近強く主張され始めています。アシュケナジムというのは東欧系ユダヤ人のことで現在のイスラエル国家でもっとも強い力を持っているとされています。但し、東欧ユダヤ人=ハザール起源説を、ユダヤ人の「イスラエル帰還」の正当性を脅かす「反ユダヤ主義者の反イスラエル・プロパガンダ」として否定する親シオニストの考え方もあります。なお、1492年以後スペインキリスト教国から追放された人たちをセルファディウムといいます。アシュケナジムとセファディウムが現在のイスラエルの2大勢力です。余談が過ぎたかな。
ユダヤ教のシンボル「ダビデの十字」の付いた家屋もありました。
なお、このブログでは世界各地のユダヤ人のゆかりの地をかなりたくさん紹介しているので興味のある方はぜひこのブログの左下にある検索欄に「ユダヤ」と入れて検索してみてください。
AD1世紀頃からユダヤ人はイベリア半島(スペイン・ポルトガル)住み始めたとされ自由な生活をしていましたが、589年に西ゴート王国がカトリックに改宗して以後ひどい迫害を受けるようになりました。しかしイスラームの侵攻とともにユダヤ人は再び自由を取り戻しました。しかし1942年グラナダがキリスト教徒により征服されて以後、再びユダヤ教徒への迫害が始まりました。しかしイスラーム時代のユダヤ人たちの痕跡はスペイン各地に残されています。コルドバにはそれがたくさんあります。
写真はコルドバにあったシナゴーグ(ユダヤ教教会)の跡の標示です。
2008年12月17日にモロッコではフェズ、マラケシュ、エルジャディーラでユダヤ人ゆかりの地を訪れた、と記しましたが、ここエッサウィラを失念していました。この砲台がある近くにシナゴーグ(ユダヤ教教会)の廃墟がありました。「ダヴィデの星」(ユダヤ人を象徴するしるし)が見えますね。したがってこのあたりがメラー(ユダヤ人居住区)です。
エルジャディーダ(10月7日地図)は1514年にポルトガルによって造られた城塞交易都市です。(世界遺産)ここではポルトガル商人とともにユダヤ人が裕福な商人として活躍し豊かなユダヤ人共同体を作っていました。しかしメラーはありませんでした。ということはモロッコのここだけはイスラーム教徒、カトリック教徒などと平和的に混住していたのです。写真は今は使われなくなったシナゴーグです。上部に私には良く見えなかったのですが、ユダヤ人の象徴である「ダヴィデの星」があります。このむこうにはやはり広大なユダや人墓地がありました。
墓地に行くことにしました。道はすでに分かっていたのですが、シナゴーグでのポン引きガイドがくっついて離れません。今回は入口は開いていたのですが、入ると同時に制止されました。またも怪しまれたのです。今回も他の団体と一緒になだれ込みました。ビックリしました。広大な墓地でした。警備のような人からは付きまとわれるし、約束の時間は迫っているし、慌てて撮った写真なので分かり難いかと思いますがとにかく広大な墓地です。肉眼、カメラの視界を越えて広がっていました。1537年以来の墓地ですね。
写真は同じくシナゴーグの内部です。ポン引きガイドは説明をしてくれますが英語なので殆ど分かりません。ただ1949年にこのシナゴーグが建立されたということだけは聞き取れました。前回紹介した1537年と時期的に一致します。すなわちレコンキスタにより追放されたユダヤ人たちのシナゴーグなのです。
シャバトで悔しい思いをしたのですが、マラケシュでは3日の滞在で最終日にこのシナゴーグの近くの観光があったのでその観光をから抜け出してもう一度出かけることにしました。ところが添乗員がこれを許しません。「駄目だ」と強い調子です。押し問答の末時間を厳しく制限されようやく許可が出ました。パック旅行のつらいところ。
急いで前回の同行者と出かけました。ところが前日の入口は入れたのですが、中の肝心のシナゴーグは開いていなく管理人のような人物が(前日とは違う)カギを開けてくれません。押し問答をしていると忽然と現れたポン引きガイド(注)が間に立ってとりなしてくれたのですが駄目です。そうこうしいるうちに団体の観光客が入ってきました。彼らには入口をあけて入れました。そのどさくさにまぎれて一緒になだれ込みました。入口の道路には警察がいました。どうやら我々二人は怪しまれたようです。前々回紹介したようにモロッコは他のイスラーム圏に比してユダヤ教徒には寛容ですが、2003年にカサブランカでは爆弾テロ事件があり33名死亡100名の負傷者が出ています。
写真はシナゴーグの内部です。
(注)
モロッコにはこのようなポン引きガイドが古くからいるようです。1939年に旅した山田吉彦の「モロッコ」(岩波新書)にはこのようなポン引きガイドとの交情が書かれていますし、最近では角田光代の「いつも旅のなか」(角川文庫)では以前紹介したトドラ渓谷(2008年11月17日)でのポン引きガイドが紹介されています。いずれも個性豊かなガイドです。
次に案内されたのはユダヤ人の墓地でした。しかしここもシャバトで中に入れません。写真はその入口です。ヘブライ文字が書かれています。数字の1537はキリスト教暦(所謂西暦)の年号で建立時を表わしていると思われます。も一つの数字5227はユダヤ暦だと思います。
この1537年という年号で以下のようなことが読み取れます。8世紀に始まり1942年に完了するイベリア半島(スペイン・ポルトガル)からのキリスト教徒によるイスラーム教徒駆逐の運動レコンキスタによりイスラーム教国で共存していたユダヤ人もイベリア半島から追放されました。これにより15世紀にモロッコに移住してきたユダヤ人は6~8万人といわれています。ということでこのレコンキスタによりこの地に移住してきたユダヤ人の墓であろうと思われます。なおスペインからの移住者については2007年7月4日でも取り上げています。
Meghさんありがとうございました。面白そうな雑誌ですね。
さてシナゴーグユダヤ教の教会)に到着したのですが入口には閉まっていて入れません。ごたごたしていると人が出てきて今日は「シャバト」(土曜日でユダヤ教徒の安息日)で見学はできないとのことです。あなたはユダヤ人ですかと尋ねるとそうだとの返事です。そういえば「キッパ」を被っていました。(キッパについては2005年12月7日をご覧ください)あなたと入口の写真を、と頼みましたが、拒否でした。そこでそこを遠くから盗み撮りしたのがこの写真です。狭い路地の左側に少し見える人物が彼でそこがシナゴーグの入口です。この写真でも分かるとおりここのメラーは高い塀で囲まれていました。
前述のようにここも王宮の近くにありlonely planet によれば「王室は多くの言語を話す宝石商、銀行家、商人であるユダヤ人社会の才能を正当に評価した」(p300)とされています。