教科書にも記載されているトゥール・ポワティエの戦い(732年)で有名な地ポワティエを訪れました。その時の痕跡は何もありませんが、写真上は街頭風景です。写真左下は12世紀創建のノートルダム・ラ・グランド教会です。写真右下はこの教会の内部の柱です。当時のわたくしのメモには「彩色された柱が珍しい?」とありましたが、後日ガイドブックを見ると「色彩鮮やかな幾何学模様の柱が見事」(JTBフランス自遊自在p317)と書かれていました。
ルイ14世(1638~1715)がヴェルサイユ宮殿に移るまではフランス国王の居住地はロワール河下流地域でした。それゆえこの地には王侯貴族のゆかりの名城が多く残されています。300以上といわれています。
その中のアンボワーズ城(写真上)、シュノンソー城、ジャンボール城(写真中)、ブロワ城(写真下)を訪れました。
アンボワーズ城は11世紀に起源し現在の城塞になったのはシャルル8世(1470~1498)時代でした。たくさんの逸話がある城ですが、一つだけ紹介。レオナルドダヴィンチがここに招かれこの地で死、ここで埋葬されました。
ジャンボール城はフランソア1世(1494~1547)の狩猟小屋に始まる城ですがこの地最大で、建設にはレオナルドダヴィンチの協力があったといわれています。美的感覚ゼロの私の当時メモには「ゴタゴタゴテゴテ」とありました。
ブロワ城は歴代フランス王の幾人かが住居とし、またジャンヌダルクが1429年、オルレアンからイギリス人に向けて軍を出発させる前に、フランスの大司教から祝福を受けた場所でもあります。写真下はメインエントランスにある王の騎馬像です。
フランス西海岸に浮かぶ小島に世界的に著名な修道院モンサンミシェルがあります。カトリックの巡礼地で世界遺産に登録されています。以前は干潮期に陸地続きになっていましたが満潮期には陸から切り離され逃げ遅れた巡礼者が溺死したことがありました。私が訪問した(1997年)時は完全に陸続きになっていました。しかし現在は潮の流れを止めることになり良くないということで陸続きの道路を取り除き橋が架かっています。写真左上は当時陸続きになっていた道路から見たモンサンミシェルです。
起源は708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたことに始まります。先日TVでレポーターがこのモンサンミシェルを見て「要塞だ!」と叫んでいましたが、百戦争時には要塞としての役割も果たしました。
写真右下は修道院の中庭と回廊です。回廊の柱は127本あります。
この地の名物料理は卵焼き(写真左下)ですが、その大きさにはちょっとびっくり!
それでは良い御年を!
写真にみられるように城壁に囲まれた要塞の街です。第2次世界大戦でアメリカの爆撃を受け、街の80%が壊滅。すべてを壊して新しく建て直すか、壊滅した状態を保存するか、元の街を再現するかの選択を迫られ、結局元の街を再現することを選びました。
歴史的にこの街が有名なのは英語でprivateer 私掠船と呼ばれフランス語でコルセールと呼ばれる国王公認の海賊の拠点でした。イギリスの私掠船は有名ですがフランスのコルセールにつてはここで初めて知りました。略奪したものの分け前は国王3分の1、船の提供者3分の1、海賊に3分の1でした。
この地の海賊で最も有名なのがRobert Surcouf(1773~1827)です。写真左下は1903年建造の彼の像です。フランス革命のただなかでの活動で舞台は一般によく知られているカリブ海ではなくインド洋でした。「10年間のうちに3650隻を襲った。400人の兵隊や水夫がいた船を、わずか120人で襲って略奪をしたこともある。多大な富を手にした彼は、ナポレオンよりも裕福で彼に金を貸していたともいわれている」(観光リーフレット) このリーフレットには記載がないのですが、ウイキペディア(英語版)によれば当時すでに禁止されていた非合法の奴隷交易にも携わっていました。また“Five ships of the French Navy have been named in honour of the 19th century privateer Robert Surcouf”と書かれていました。なぜhonourなんでしょうね。
印象派画家たちが愛したオンフルールが次の観光地でした。左上の写真とほぼ同じの構図(人物は除く)のモネの絵画がありますね。セーヌ河が英仏海峡に流れ込む河口にある港町です。イギリスのリバプールと同じ奴隷貿易港であったことも知っていてもよいと思います。
写真右はフランス唯一の木造教会サントカトリーヌ教会です。左中はその内部です。「屋根が奇妙な形をしているのは、15世紀、百年戦争で英国軍に破壊された石造の教会を再建しようとしたものの資金不足だったため、腕に覚えの船大工たちが木で船底を作り、これをエイヤッとひっくりかえして屋根にしたから」(「JTBのフリータイムフランス」p216)
写真左下は昼食レストランです。当時のわたくしのメモは「前菜に味噌汁に似たスープが出る。一同美味いという。後にわかったことであるがブイヤベースのスープと同じものであった。シードル(リンゴ酒)を飲む。美味い」
パリからジャンヌダルが処刑された地として有名なルーアンに向かいました。ところがジャンヌダルクに関係する写真が一枚もありません。わたくしのメモには「なぜかジャンヌダルクの処刑場を写真にとっていなかった。隣にジャンヌダルクを記念するヴァイキングの舟形を模した教会が1978年に作られていたがそぐわない感じ」とあります。
というわけで、写真上はジャンヌダルクとは関係にない11世紀創建のルーアン大聖堂です。尖塔の高さはフランス一の135mだそうです。またこのルーアンの街は木造建築の民家でも著名です。(写真下)
1997年10月7日〰21日フランス物語」というツアーに参加しました。
前回まで紹介してきたイギリスの現地ガイドのやさしさ丁寧さに比べてフランスの現地ガイドの傲慢無礼さは全く不愉快でした。まずは、ヴェルサイユ宮殿での日本語の現地ガイド。ガイドをしながら他国の観光客の悪口。また、別のところでの現地ガイド。添乗員に英語で説明した後、いかにも小馬鹿にした発音で”understand?”(わかったか?)を繰り返しました。23年経過した今もこの不愉快な「アンーダスタンド?」の声が耳から消えません。
別れ際に私に、次回はフランス語を勉強してフランスに来てくださいといったガイドもいました。
フランスでは犬の散歩のとき糞の始末をしないようです。あちらこちらに糞が放置されたままでたびたびフンづけました。というわけでわたくしの訪れた103ヶ国では一番:***。
さてフランスでの最初の観光はパリでしたがヴェルサイユ宮殿がツアーコースにはなかったので別行動でヴェルサイユ宮殿に行きました。ルイ14世(1638~1715)(写真上)の建てた宮殿でフランス絶対王政の象徴する建造物といわれています。なぜか内部の写真がありません。なぜかよく記憶にはないのですが、撮影禁止? 内部での案内は前述の他国の悪口を言うガイドでわたくしは頭に来ていました。そこで王妃の部屋の紹介があったときその後の説明がなかったので、王妃の出産にはたくさんの人が立ち会っていたこと、そしてその意味を説明しろとケチをつけたことがこのヴェルサイユ宮殿の一番の思い出です。