3ヶ月続いた中村勘三郎披露公演が終わったので、6月の歌舞伎座は、何時もの静けさを取り戻した。
連日、殆ど満員御礼でお祭り騒ぎであった客席も空席がちらほら、特に、出し物や役者の質が変わったわけでもないが、襲名披露の威力、それに3ヶ月も続けて公演をした勘三郎の人気と実力は見上げたものである。
今回は、昼の部を見た。
最初は、「信州川中島合戦の輝虎配膳」。敵方の軍師山本勘助を味方につけるため母親を懐柔しようとする輝虎を梅玉、毅然として断る母越路を秀太郎、切り捨てようとする輝虎を琴の弾き語りでなだめようとする妻お勝を時蔵、33年ぶりの公演とかだが、秀太郎の進境に感じ入った。
次は、狂言を舞踊化した「素襖落」。太郎冠者が吉右衛門、大名が富十郎、姫御寮が魁春、芸達者な吉右衛門と富十郎のコミカルな掛け合いと踊りが面白い。
今回興味を持ったのは、最後の「恋飛脚大和往来」の封印切と新口村の段。近松門左衛門の「冥土の飛脚」の歌舞伎版だが、大分中身も印象も、オリジナルを踏襲している文楽版と違う。
一番違うのは、問題の封印切りの扱い方。遊女梅川を身請けする為に、金のない忠兵衛が、切羽詰ってご法度の公金の封を切ってしまう場である。
文楽の方は、男が立たなくなって自分自ら封印を切るが、歌舞伎の方は、敵役八右衛門に煽られて火鉢に小判を叩き付けている間に偶然に封印が切れる。
忠兵衛と八右衛門のかけあいと奈落に突き進む忠兵衛の心の変化が面白いが、これはむしろ改悪だと思っている。
忠兵衛を染五郎、梅川を孝太郎が演じている。若い二人なので、実に新鮮な舞台で、前回見た仁左衛門と玉三郎の舞台の印象とは全く違う。
元々、欠陥商品の忠兵衛の全く身勝手な振る舞いによって、周りの人間の運命を奈落の底へと暗転させる物語であるが、仁左衛門と玉三郎は、人間のどうしても逃れられない相と業、そして、その肺腑を抉るような慟哭を、実に、美しく詩情豊かに演じていた。
一方、この若い二人の舞台は、芝居を観ると言うよりは、現実の世界を観ているよう感じで、印象が直に飛び込んでくるのである。
仁左衛門は、敵役の丹波屋八右衛門と父親孫右衛門の二役を演じる。文楽と違って八右衛門は、完全な悪役になっているが、実に小気味よいテンポで大阪弁を連発し忠兵衛を詰問・罵倒し、封印切に追い込む。
がらりと変わって、死の逃避行の忠兵衛をかき抱き、義理と人情の板ばさみに、断腸の思いで逃避を見送る哀切迫る別れを、実に感動的に演じている。
この舞台、当然、松嶋屋型で演じているのだが、やはり、仁左衛門の存在は大きい。
仁左衛門は、ただの役者ではない。東京歌舞伎座の襲名披露で演じた助六など、お家芸の団十郎に優とも劣らないいきでいなせで、それでいて、義理人情に厚い骨太の胸のすくような男達(おとこだて)を演じていた。
和事のガシンタレの大阪の男をやらせても、荒事や骨太の立ち役をやらせても、仁左衛門ほど素晴らしい芸を見せる歌舞伎役者は稀有である。
孝太郎は、父親の仁左衛門の忠兵衛で相手役の梅川を演じているので、実に情感たっぷりな演技で余韻を残す。
少し軽い感じがするが、染五郎の忠兵衛は、実に初々しくて素晴らしい。今後、忠兵衛が強力な持ち役となり、近松もの、そして、関西和事の世界に入っていくのではなかろうか。
連日、殆ど満員御礼でお祭り騒ぎであった客席も空席がちらほら、特に、出し物や役者の質が変わったわけでもないが、襲名披露の威力、それに3ヶ月も続けて公演をした勘三郎の人気と実力は見上げたものである。
今回は、昼の部を見た。
最初は、「信州川中島合戦の輝虎配膳」。敵方の軍師山本勘助を味方につけるため母親を懐柔しようとする輝虎を梅玉、毅然として断る母越路を秀太郎、切り捨てようとする輝虎を琴の弾き語りでなだめようとする妻お勝を時蔵、33年ぶりの公演とかだが、秀太郎の進境に感じ入った。
次は、狂言を舞踊化した「素襖落」。太郎冠者が吉右衛門、大名が富十郎、姫御寮が魁春、芸達者な吉右衛門と富十郎のコミカルな掛け合いと踊りが面白い。
今回興味を持ったのは、最後の「恋飛脚大和往来」の封印切と新口村の段。近松門左衛門の「冥土の飛脚」の歌舞伎版だが、大分中身も印象も、オリジナルを踏襲している文楽版と違う。
一番違うのは、問題の封印切りの扱い方。遊女梅川を身請けする為に、金のない忠兵衛が、切羽詰ってご法度の公金の封を切ってしまう場である。
文楽の方は、男が立たなくなって自分自ら封印を切るが、歌舞伎の方は、敵役八右衛門に煽られて火鉢に小判を叩き付けている間に偶然に封印が切れる。
忠兵衛と八右衛門のかけあいと奈落に突き進む忠兵衛の心の変化が面白いが、これはむしろ改悪だと思っている。
忠兵衛を染五郎、梅川を孝太郎が演じている。若い二人なので、実に新鮮な舞台で、前回見た仁左衛門と玉三郎の舞台の印象とは全く違う。
元々、欠陥商品の忠兵衛の全く身勝手な振る舞いによって、周りの人間の運命を奈落の底へと暗転させる物語であるが、仁左衛門と玉三郎は、人間のどうしても逃れられない相と業、そして、その肺腑を抉るような慟哭を、実に、美しく詩情豊かに演じていた。
一方、この若い二人の舞台は、芝居を観ると言うよりは、現実の世界を観ているよう感じで、印象が直に飛び込んでくるのである。
仁左衛門は、敵役の丹波屋八右衛門と父親孫右衛門の二役を演じる。文楽と違って八右衛門は、完全な悪役になっているが、実に小気味よいテンポで大阪弁を連発し忠兵衛を詰問・罵倒し、封印切に追い込む。
がらりと変わって、死の逃避行の忠兵衛をかき抱き、義理と人情の板ばさみに、断腸の思いで逃避を見送る哀切迫る別れを、実に感動的に演じている。
この舞台、当然、松嶋屋型で演じているのだが、やはり、仁左衛門の存在は大きい。
仁左衛門は、ただの役者ではない。東京歌舞伎座の襲名披露で演じた助六など、お家芸の団十郎に優とも劣らないいきでいなせで、それでいて、義理人情に厚い骨太の胸のすくような男達(おとこだて)を演じていた。
和事のガシンタレの大阪の男をやらせても、荒事や骨太の立ち役をやらせても、仁左衛門ほど素晴らしい芸を見せる歌舞伎役者は稀有である。
孝太郎は、父親の仁左衛門の忠兵衛で相手役の梅川を演じているので、実に情感たっぷりな演技で余韻を残す。
少し軽い感じがするが、染五郎の忠兵衛は、実に初々しくて素晴らしい。今後、忠兵衛が強力な持ち役となり、近松もの、そして、関西和事の世界に入っていくのではなかろうか。