私たちの住処である自然界は、生物の巣で出来上がっており、家は、人の巣であると言って、映画の大林監督が、面白い文明文化論を語った。
やはり、映画監督であるから、スクリーンは命なのであろうか。会場に登場すると、真っ先に、スクリーンに向かって恭しく一礼して、スクリーンをお尻にして話すのは気が引けると言いながら、話を始めた。
撮影の時は、こんな声を出すのだと言って、演台から離れて、口元に手をあって「ヨーイ! スタート!」と大きく叫び、声が出る限り現役だと言いながら、マイクが言うことを聞かず必ずストライキしたと黒沢監督の逸話を語った。
映画は、人の喜怒哀楽を伝えるジャーナリズムだと言う。
映画は、人間が傷つけ合い、許しあって愛を覚える、そんな人間の世界を描く。
ゆっくり話し合えば許しあえる、そして、共に生きる喜びを感じる、その幸福感が、愛であり、映画を通じて、人々に発信し続けてきたのだと言う。
失われつつあるスローライフ、温故知新の世界を、ふるさとの尾道の生活や風景とを重ね合わせながら、熱っぽく語り続けた。
監督の作品は、「虹をかける少女」しか見ていないが、WOWWOWで「22才の別れ」を放映していて録画したので後で楽しもうと思っている。
18歳まで住み、父親が亡くなって空き家になっていた尾道の家に、建築以前からあった老松が枯れたので伐採したら、2個のカラスの巣が出てきた。
野山に囲まれた田舎である筈の尾道なのに、それらの巣は、150本のハンガーで出来上がっていたと言う。
そこで生まれて育った子供のカラスは果たして幸せだったのかどうか、考えてぞっとしたと言いながら、良く考えてみれば、我々現代人も、同じようなコンクリートジャングルの、命のない鉄とガラスの無機物で出来上がった住まいに、近代文明生活だと言って喜んで生活しているのではないかと示唆する。
戦前を知っている世代であるから、木と紙と土で出来ていた昔の家の話をする。
質素な佇まいの家であるから、隣の部屋で誰が何をしているのか手に取るように分かるし、家族の生活が総て筒抜けだが、この気配、けわいの住まいが、日本人の家族の気綱を維持してきたのだと言う。
言葉なしで、人の喜怒哀楽を共にしながら、体を寄せ合いながら生きていた、これが日本の文化を育ててきたのだと言う。
これに対比して、欧米の文化は、石の家の文化で、孤独であり、言葉が必要な文化であり生活だと言う。
しかし、この見解には、欧米で14年間生活してきた私には、多少異論がある。
確かに、ロンドンやパリ、ニューヨークなど大都会では、鉄筋コンクリートやレンガ造りの中高層の連続住宅や集合住宅が多いが、基本的には、木造ないしレンガ造りの一戸建てが基本である。
ロンドン郊外のキューガーデンで、建築後100年以上も経ったレンガと木で出来上がった古い家に住んでいたが、英国人の知人などは、建築後何百年も経ってお化けが出ると言われる家を探して移り住んでいた。
私の住んでいたイギリスもオランダも、ガーデニング好きで自然との共生をこよなく愛する人々が住んでいて、決して、日本人と違った、孤独で言葉を必要とする人々だと言えないと思う。
違いは、日本の古い庶民の家より、自然が厳しい分、ヨーロッパの家の方が、多少立派でしっかりしていたと言うことくらいであろうか。
それに、科学万能主義的なプラグマティズムが比較的強いので、自然を押さえ込んで開発するのが文化文明の進歩だと言う傾向が強かった分、人間生活がどんどん自然世界の営みから遊離してきたと言うことであろうと思う。
この講演会は、不動産流通経営協会主催の「住まいとくらしのセミナー」で、前座は、三井の西田恭子さんが、「理想の住まいを求めて」と言う演題で、中古住宅とリフォームについて、その新しい価値創造の展開事情について語った。
私自身、今住んでいる家は新築だが、若い頃は、社宅や公団住宅に住んでいたので、殆ど中古住宅であったし、海外生活では、総て古い家に住んでいたし、その宿替え人生は、海外だけでも10回近く移転したので、中古住宅については、ベテランと言えよう。
尤も、リフォームしたのは、ロンドンから帰ってきた時に、今の家に多少手を入れた程度なので、ボツボツ、大掛かりなリフォームをする時期かも知れないが、効率の悪さ以外には、あまり不満がないので、特別なことがない限り、このままで行こうと思っている。
ところで、この口絵写真は、歌舞伎座横の某ショップだが、デザインや内装によって雰囲気が違ってくるので、折角の住宅だから、リフォームなど工夫を凝らして模様替えしてみるのもクリエイティブ・ライフの新しい楽しみ方かも知れない。
やはり、映画監督であるから、スクリーンは命なのであろうか。会場に登場すると、真っ先に、スクリーンに向かって恭しく一礼して、スクリーンをお尻にして話すのは気が引けると言いながら、話を始めた。
撮影の時は、こんな声を出すのだと言って、演台から離れて、口元に手をあって「ヨーイ! スタート!」と大きく叫び、声が出る限り現役だと言いながら、マイクが言うことを聞かず必ずストライキしたと黒沢監督の逸話を語った。
映画は、人の喜怒哀楽を伝えるジャーナリズムだと言う。
映画は、人間が傷つけ合い、許しあって愛を覚える、そんな人間の世界を描く。
ゆっくり話し合えば許しあえる、そして、共に生きる喜びを感じる、その幸福感が、愛であり、映画を通じて、人々に発信し続けてきたのだと言う。
失われつつあるスローライフ、温故知新の世界を、ふるさとの尾道の生活や風景とを重ね合わせながら、熱っぽく語り続けた。
監督の作品は、「虹をかける少女」しか見ていないが、WOWWOWで「22才の別れ」を放映していて録画したので後で楽しもうと思っている。
18歳まで住み、父親が亡くなって空き家になっていた尾道の家に、建築以前からあった老松が枯れたので伐採したら、2個のカラスの巣が出てきた。
野山に囲まれた田舎である筈の尾道なのに、それらの巣は、150本のハンガーで出来上がっていたと言う。
そこで生まれて育った子供のカラスは果たして幸せだったのかどうか、考えてぞっとしたと言いながら、良く考えてみれば、我々現代人も、同じようなコンクリートジャングルの、命のない鉄とガラスの無機物で出来上がった住まいに、近代文明生活だと言って喜んで生活しているのではないかと示唆する。
戦前を知っている世代であるから、木と紙と土で出来ていた昔の家の話をする。
質素な佇まいの家であるから、隣の部屋で誰が何をしているのか手に取るように分かるし、家族の生活が総て筒抜けだが、この気配、けわいの住まいが、日本人の家族の気綱を維持してきたのだと言う。
言葉なしで、人の喜怒哀楽を共にしながら、体を寄せ合いながら生きていた、これが日本の文化を育ててきたのだと言う。
これに対比して、欧米の文化は、石の家の文化で、孤独であり、言葉が必要な文化であり生活だと言う。
しかし、この見解には、欧米で14年間生活してきた私には、多少異論がある。
確かに、ロンドンやパリ、ニューヨークなど大都会では、鉄筋コンクリートやレンガ造りの中高層の連続住宅や集合住宅が多いが、基本的には、木造ないしレンガ造りの一戸建てが基本である。
ロンドン郊外のキューガーデンで、建築後100年以上も経ったレンガと木で出来上がった古い家に住んでいたが、英国人の知人などは、建築後何百年も経ってお化けが出ると言われる家を探して移り住んでいた。
私の住んでいたイギリスもオランダも、ガーデニング好きで自然との共生をこよなく愛する人々が住んでいて、決して、日本人と違った、孤独で言葉を必要とする人々だと言えないと思う。
違いは、日本の古い庶民の家より、自然が厳しい分、ヨーロッパの家の方が、多少立派でしっかりしていたと言うことくらいであろうか。
それに、科学万能主義的なプラグマティズムが比較的強いので、自然を押さえ込んで開発するのが文化文明の進歩だと言う傾向が強かった分、人間生活がどんどん自然世界の営みから遊離してきたと言うことであろうと思う。
この講演会は、不動産流通経営協会主催の「住まいとくらしのセミナー」で、前座は、三井の西田恭子さんが、「理想の住まいを求めて」と言う演題で、中古住宅とリフォームについて、その新しい価値創造の展開事情について語った。
私自身、今住んでいる家は新築だが、若い頃は、社宅や公団住宅に住んでいたので、殆ど中古住宅であったし、海外生活では、総て古い家に住んでいたし、その宿替え人生は、海外だけでも10回近く移転したので、中古住宅については、ベテランと言えよう。
尤も、リフォームしたのは、ロンドンから帰ってきた時に、今の家に多少手を入れた程度なので、ボツボツ、大掛かりなリフォームをする時期かも知れないが、効率の悪さ以外には、あまり不満がないので、特別なことがない限り、このままで行こうと思っている。
ところで、この口絵写真は、歌舞伎座横の某ショップだが、デザインや内装によって雰囲気が違ってくるので、折角の住宅だから、リフォームなど工夫を凝らして模様替えしてみるのもクリエイティブ・ライフの新しい楽しみ方かも知れない。