熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

初春大歌舞伎・・・昼の部

2012年01月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   最近は、銀座にしろ繁華街でも、正月と言う華やいだ雰囲気が殆ど消えてしまって、一寸、寂しい感じがするのだが、新橋演舞場の歌舞伎劇場だけは、御鏡飾りなどもあり、和服姿のお客さんが多いようで、少しはあらたまったお正月気分を味わえる。
   歌舞伎の演目も、それを意識してか、年の初めに相応しい芝居があしらわれていて、気楽な気持ちに成れるのが良い。
   最初の魁春と芝雀の踊る石橋物の「相生獅子」などは、冒頭から二人の姫君が優雅な姿を見せて艶やかな踊りを披露し、最後には、獅子の精となって、激しく踊り狂う。
   同じ石橋物でも、これまでは、男同士の連獅子などを見慣れているのだが、女性の獅子の舞は初めてなので、大丈夫かと思ったのだが、心配する必要などなく、二人は女形だったのである。

   「祇園祭礼信仰記」の「金閣寺」の舞台だが、悪の権化とも言うべき松永大膳(三津五郎)が、将軍足利義輝を殺して母の慶寿院を金閣寺の二階に幽閉し、横恋慕している狩野之介直信(歌六)の妻雪姫(菊之助)に、夫の代わりに金閣寺の天井に龍を描くか自分のものになるかと迫り、父殺しだと悟られて怒った大膳は、雪姫を桜の木に縛る。
   桜吹雪で散り頻った桜の花びらを足で集めて描いた鼠が、縄を食いきるという奇跡によって、自由の身となる「爪先鼠」がハイライト・シーンだが、此下東吉を名乗って大膳に取り入った小田信長の家臣真柴久吉(梅玉)に助けられて、雪姫は逃げのびる。久吉は、慶寿院を助け出して大膳を追い詰める。

   この芝居は、極悪だが、謀反を企んで天下取りを狙うと言う大物の大膳であるから、それなりの威厳と風格がなければならないのだが、しかし、夫直信を捉えて雪姫に迫ると言う好色でもあり、われを忘れて碁に打ち込み、雪姫が傍に来て意に副うと告げても最初は気付かず、分かってからは嬉しさに動転して(?)久吉との碁に負けて、碁盤をひっくり返すと言う大物か小物か分からないような複雑な人物で、これまで、幸四郎や團十郎の大きな舞台を見ているが、その性格俳優ぶりを如何に出すかが難しいところであろうか。
   この二人とは違って、芸域のずっと広い三津五郎の芝居だが、今回は、殆どシーンによって芸を変えずに威厳と風格を備えたオーソドックスな立ち振る舞いで押し通していたのだが、私自身は、微妙に振れる大膳を見たかった。

   大膳と比べれば、久吉の方がずっと恰好の良い役柄だが、精神性がないと言うか通り一遍の筋を追うだけのような役割のような気がして私にはあまり面白くない役で、これまで、吉右衛門で2回見ているのだが、今回の梅玉の場合にも、格好良さだけが目立っていたような気がしている。
   文楽の時には、玉女が久吉を遣っていたので、案外、主役なのかも知れないが、私は、大膳の方が味があって好きである。

   雪姫だが、菊之助の雪姫は、実に初々しくて美しく、恐らく、玉三郎に教えを乞うたのであろうが、一つ一つのシーンが絵になっている。
   最初に見た雪姫は、玉三郎だったが、御簾が上がって、金閣寺から離れた別室から浮かび上がる雪姫の優雅な姿から印象的で、柱に寄りかかって愁いに沈む風情など秀逸で、桜吹雪に浮かび上がり、桜の木に縛り付けられて、行きつ戻りつしながら苦悩する姿など、たった一人の舞台ながら、大きな空間を完全に支配していて千両役者の風格充分であった。
   福助の雪姫も、個性的な風格と妖艶さが滲み出ていて色香さえ感じさせる風情が、魅力的であった。
   この二人の雪姫に比べて、菊之助は、やはり、若くてそのはつらつとした清楚な雰囲気が堪らなく蠱惑的で、成熟した女のどこか完成したような魅力と、芸の確かさには多少欠けるのだが、乙女の雰囲気さえ感じさせる匂い立つような美しさが抜群である。

   さて、最後の「加賀鳶」だが、加賀鳶の雰囲気は、冒頭の「本郷通町勢揃いの場」だけで、町火消と加賀鳶の喧嘩騒ぎで町内は騒然とし、松蔵(吉右衛門)に率いられ加賀鳶の面々が一人ずつ花道で名乗りを上げる。そこへ梅吉(菊五郎)が止めに入り命を賭けて説得するので、矛を収めると言うそれだけの舞台だが、三津五郎や左團次などトップクラスの役者が勢ぞろいして、河竹黙阿弥の美文調の台詞を立て板に水の如く滔々と喋るだけの勿体ないくらいの贅沢な舞台である。
   その後は、がらりと変わって、菊坂の盲長屋に住む竹垣道玄(菊五郎)と言う人殺しも厭わない悪党の物語で、女房おせつ(東蔵)の姪お朝(梅枝)が、奉公先の質屋伊勢屋の旦那与兵衛(彦三郎)から5両を恵んで貰ったのをネタに女にしたとつくり話をでっち上げて、情婦の女按摩お兼(時蔵)と連れ立って強請に行く話。あることないこと難癖をつけて脅し上げて、50両までせしめる寸前、松蔵が現れて、偽手紙を見破られ、御茶の水土手際での女房の兄・百姓太次右衛門殺害も暴露されて、すべて水の泡。
 
   菊五郎の惚けた調子の悪人面と口から出まかせの達者な話芸が秀逸で、とにかく、悪人としての悪辣さと言うよりも、良くこれだけ悪知恵が働いて無節操に生きていられるなあと思えるちゃらんぽらんな人生模様が面白い。
   この菊五郎の悪人役だが、この前の「髪結新三」の時と同様で、極悪非道の悪人を演じている筈なのだが、悪辣さや常軌を逸した悪辣ぶりを感じるよりも、どこか人間の弱さ悲しさが滲み出ていて、後味として、暗さや惨めさが残らないのが面白いと思っている。
   このあたりの印象は、江戸の庶民生活を舞台にした人情話のような河竹黙阿弥の芸風から来るのかも知れないと思って見ている。

   破れ鍋に綴蓋、類は友を呼ぶのことわざ通り、それに輪をかけたような不埒千万の時蔵の女按摩が、また、ハチャメチャな女で、伊勢屋に乗り込んで、脅したり強請ったり、悪事が暴露されても、一向に意に介せず、50両まで吊り上った儲けが、松蔵の偽手紙買い取り料だけの10ドルに下がったのに文句を言いながら帰って行くあたりの呼吸の合った二人の演技は、「魚屋宗五郎」の名コンビを髣髴とさせて面白い。

   最後の場は、「加州侯表門の場」で、今の東大の赤門前での捕り物。逃げて来た道玄が、悪運尽きて、捕り手に囲まれるのだが、闇夜の設定と言うことで、世話だんまりで演じられ、捕縛されるまでの、道玄と捕り手との滑稽な追いかけっこが面白い。

   
コメント
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