熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂~万作と萬斎の「隠狸」

2012年01月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立能楽堂の鑑賞は、20日の定例公演で、狂言「隠狸」と能「巴」であった。
   私の場合、能狂言の鑑賞は日が浅いので、何とも言えないが、歌舞伎や文楽の会場とは雰囲気が違っていて、お客さんの層や質も大分違うようである。
   それに、舞台と客席の間に敷き詰めた白砂もそうだが、厳粛な雰囲気が良い。
   同じ日本の古典芸能とも言うべきパーフォーマンス・アートで、色々な意味で先輩格でもある能狂言に触れずして、歌舞伎や文楽の鑑賞も中途半端であろうと思って、昨秋から能楽堂に出かけ、また、能狂言関係や世阿弥の本なども精力的に読み始めているのだが、やはり、色々な発見や気付きなどがあって面白い。

   観世銕之丞によると、能が生まれたのは室町と言う戦乱の多い殺伐とした時代で、死者の世界から現世を見ると言う演劇のスタイルだが、歌舞伎が栄えたのは、元禄や文化文政の庶民文化の爛熟期で、庶民の芝居へのエネルギーが充満していた時期であり、その違いは、室町時代の水墨画と江戸時代の浮世絵との対比でみると良く分かると言うことである。
   狂言の歴史はもっと古いようだし、実際には、猿楽田楽から考えるべきなのであろうが、やはり、能が観阿弥・世阿弥を頂点だと考えれば、その後、京都を焼き尽くした応仁の乱があり、豊かな安土桃山の黄金期を経て、太平の江戸時代の中で研ぎ澄まされて来たのであろうから、歌舞伎や文楽との違いは大きい。

   さて、狂言「隠狸」であるが、シテ/太郎冠者が野村万作、アド/主が野村萬斎で、非常に密度の高い素晴らしい舞台を見せてくれた。
   話は極めて単純。
   太郎冠者が、狸釣りの名手だと知った主が、客に狸汁を振る舞うので狸を釣ってくれと命令するのだが、太郎冠者は釣ったことも釣り方も知らぬ存ぜぬで押し通すので、それでは市で買って来いと言うことになる。
   実は、1匹釣ってあったので、売ろうとして市に出かけるのだが、委細承知の主が先回りしていて、狸売りの太郎冠者と鉢合わせ。
   慌てた太郎冠者は、その狸を後に隠して言い逃れようとするので、主は、太郎冠者に酒を振る舞って兎の舞などを舞わせると、酔いの回ってきた太郎冠者が、最初は舞いながらも必死に隠していた狸のことを忘れてしまって、主に隠狸を見つけられて取り上げられてしまう。 

   殺生禁断の戒めが強かった中世のことだったので獣を捕ることが忌み嫌われていたとかで、この曲は、大蔵流にはなく和泉流だけのようである。
   大体、封建時代で絶対服従の雇人が、副業とも言うべき狸釣りをしているなどは、いわば、職務規律違反であり許される筈がないとか、持っている狸をそのまま市で買って来たと言って主に渡せば良いじゃないかとか、なぜ、市のど真ん中で、酒を飲んで舞を舞うのかとか、或いは、酒を飲まなくても狸を腰の後ろにいつまでも隠せる筈がないとか、と言った下司の勘繰りや屁理屈は、狂言には、絶対無用であって、とにかく、話の筋をありのままに楽しむことのようである。
   同じ芝居であっても、リアリズムなどと言った次元ではなくて、芸の確かさ面白さ、そこはかとなく湧き出してくる何とも名状し難い可笑しさ面白さを楽しむのが狂言であろうか。

   上手く説明が出来ないのが残念だが、とにかく、白を切り通そうとしてあの手この手で防戦する万作の至芸が秀逸で、隠狸と主の視線を気にしながら舞を楽しみ、少しずつ酔いが回って来てわれを忘れて行く仕種の微妙な変化など、見ていて非常に面白い。
   それに、総てお見通しであるから、終始笑みをたたえながら(?)、太郎冠者にボロを出させようと、追い込んで行く主の萬斎との掛け合いの絶妙な駆け引きなど、厳しい筈の封建社会のバックグラウンドを忘れさせて、現代的なアイロニーやウイットの香りさえ感じさせて、流石である。
   問題の小道具の狸。こげ茶色のどちらかと言えばスマートな可愛いぬいぐるみで、太郎冠者の右腰にぶら下げられているのだが、太郎冠者が位置を上手く変えて動けば、丁度、主には見えなくなっているのが面白い。
   こう言う主従の知恵の出し合いのような人間的な絡みなどは、あのボーマルシェのフィガロの結婚などの世界と同じように、その時代の厳しい現実を、どこかで茶化しながら庶民のくぐもった諧謔的な笑いを表現する恰好の試みだったのかも知れない。

   ところで、その後の能「巴」だが、夢幻能と言うことであろうか、粟津の浜の社で、旅の僧の前に、現れた祈りを捧げて涙ぐむ女人が、この世に亡き人だと明かして消えて行き、中入り後、鎧に身を固めた女武者・巴の霊として現れて、最後まで義仲に付き添ってその自害を見届けて木曽に落ち延びるまでを語り、自らの執心を弔ってくれと僧に頼む。
   前場の動きのない舞台とは違って、後場の巴御前(辰巳満次郎)は勇壮で、実に美しく感動的であった。

   私は、平家物語の「兼平」の義仲都落ちや義仲最後で語られている巴の勇猛果敢で大変な荒武者ぶりを知っていたので、そのイメージで見ていた。
   平家物語では、一の谷の合戦より少し前だが、ここに、巴御前の描写がいくらかある。
   義仲が討たれた粟津で、最後の5騎7騎までに残ったのだが、義仲に「自分は討ち死にする覚悟だが、お前は女であるから一緒に死ぬのは、最後に女を連れて討ち死にしたと言われて拙い。どこへなりと落ち延びて、義仲の死後の供養をしてくれ」と言われるのだが、巴はなおも踏み止まって、「最後のいくさしてみせ奉らん」と言って、大力と評判の敵将・恩田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切って捨てさり、その後、巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて、最後に泣く泣く暇乞いして東国へ落ち延びて行く。
   もう一つの描写は、「年齢22~3で、色白で髪長く、大変な美人である。大力で強弓精兵、険路をものともしない屈強の荒馬乗りである。戦となれば、鉄製の鎧を身に着け、大太刀・強弓を持ち一方の大将として戦い、その高名手柄は抜群であった。」と言うのである。
   諸行無常、琵琶法師も、涙を押し殺して、義仲の最後を語ったのであろうと思う。
   
コメント
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