この本の帯に、「史上、これほど愛された女性がいた(だ)ろうか」と言うキャッチフレーズ、更に、「豪華絢爛な王朝絵巻」、そして裏に「時の最高権力者・白河法皇とその寵愛を一身に受けた璋子。渡辺文学の集大成、ここに誕生!」と書いてある。
いずれにしろ、愛の交歓をこれでもか、これでもかと描き切った小説であろうと思って読み始めたのだが、思ったよりその方の描写は淡泊で、珍しくも、色々な文献を参考にして、著者なりに推敲を重ねた伝記作家としての色彩の濃い歴史物の文学作品である。
私など、どちらかと言えば、濃厚な男女の人間模様の方に関心があって、渡辺文学を読んでいるのだが、いまだに、どの辺りが芸術なのか文学なのかは、良く分からないのが気になっている。
さて、この本は、法皇62歳、璋子14歳という途轍もない年齢差を超越した男女の愛の物語で、法皇は、選りにも選って、自分の秘めたる愛人であるその璋子を、自分の孫である時の鳥羽天皇の中宮として送り出し、璋子に条件として、第一子は自分の子供を産めと厳命して、実際に法皇の実子である崇徳天皇を産んだと言う凄い物語が展開される。
最愛の璋子を幸せにする最高の方法は、中宮となり、いずれ帝となる御子を生むこと。それが、平安朝を生きる女性にとっては最高の栄誉であるならば、璋子にもそうさせたい。しかし、愛しくて愛しくてひと時も手元から離したくない璋子への限りなき思いをどうするのか。
法皇と璋子との馴初めだが、璋子が、愛人である祇園女御の養女になっていたので謂わば義父である法皇と、三人で同じ床にいて、女御が居ない時に、床の中で戯れるうちに、思わず結ばれたと言うことのようだが、とにかく、放蕩の限りを尽くした筈の法皇が、年甲斐もなく璋子にのめり込んで、10代半ばから29歳まで15年間、まさしく、璋子の愛人であり恋人であり、父であり師であり、後見人であり、言うならば、すべてであったと言うことであるから凄い。
法皇に心底愛され、夜、殆ど一人で過ごすことなど殆どなかった躰が疼きおさまることがなく、そこまで女体を燃えさせ、成熟させておきながら、29歳の女体を残してこの世を去り、そのまま放り出すとは、あまりに無情ではないか、と渡辺淳一は書いているのだが、どうであろうか。
ピグマリオンが、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻して、この彫像に恋焦がれて、次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテが彫像に生命を与えたので、それを妻に迎えたと言うピグマリオン伝説が、有名だが、あのマイフェア・レィディと同じで、白紙の女性を磨き上げれば磨き上げるほど、その女性に恋焦がれると言うのが、男と言うものであろうか。
確か、渡辺淳一にも、そんな小説が他にあったような気がする。
渡辺文学の面白さが出ているのは、法皇が夜、蛍の入った竹籠を、薄絹一枚を着て眠っている璋子の秘所にかざし、蛍の光に照らされたその美しさに魅了されると言う幻想的(?)なシーン。
そして、相変わらずエロチックで面白いのは、月のさわりを口実に、勇んで迫る天皇を拒絶し続ける璋子の手練手管で、この「夜の床」の章は、如何に、月のものの周期を加減しながら、法皇と天皇の間を、璋子が泳ぐか、天皇の乳母光子(実は璋子の母)と法皇の内侍が間に入って、法皇の意を実現すべく暗躍するのが面白い。
ところで、この法皇と璋子の恋だが、見方によれば、極めて不埒なアンモラル極まりない話だけれど、著者は、「男はどんなに遊んでいても、どこかで純愛に入れ込む生き物なんです。法皇の場合は、それがたまたま60を過ぎてから訪れた、というだけのことで。また、ここでもう一点、大切なのは、二人が自然に結ばれた、ということ。支配する、支配される、つまり「おれの女になれ」といったような上下関係や命令形とは関係なく、自然に結ばれていく愛こそが純愛といっていい。」と言っている。
あの「シラノ・ド・ベルジュラック」などは、本当に純愛だと思うのだが、どうしても、今の日本では、純粋な純愛であっても、アンモラルと称される、例えば、不倫の恋や禁断の恋など成さぬ恋には、どうしても、後ろめたさや抑制が伴う。
人を思う気持ちには、本来、何の束縛もない筈なのだが、兎角、この世は難しい。
著者は、戦国時代や江戸時代は、身分制度が固定しているうえに男尊女卑で、常に男性優位で女性はただ従うだけ、という社会状況で面白くなく、「恋して、愛して、恨んで、嫉妬して――といった感情を盛り込む恋愛小説というジャンルは、基本的には男女対等でなければ、本当の意味で書き込めない。その点では、平安時代の方が、男女が対等だったと思うのです。女の人もけっこう浮気していたようですし、たとえば『源氏物語』で紫の上は、光源氏をずっと拒み続けていましたよね。」と言っているように、要するに、不倫の恋が生まれない世界は、小説にもならないし、純愛も生まれないと言うことであろうか。
この小説で、老年に達した法皇、若くて元気な天皇、そして、二人を相手に遍歴する璋子の3人の恋模様を万華鏡のように絡ませながら、著者は、セックス描写を通して、「女性が何を求めているのか、性的に満ち足りている状態はどこからくるのか……。老年男性には「まだまだこれから」と思ってほしいし、若者たちには「挿入だけがセックスのすべてじゃない」ことを知ってほしいですね。」と言っているのだが、セックスは兎も角、異性を純粋に愛すると言う思いは、歳には全く関係がなく、人間としての本質であると言うことは事実だと思う。
さて、この白河法皇だが、この小説では、崇徳天皇が法皇の実子であり、今、NHKの「平清盛」でも、清盛が白河法皇の実子であるかのように放映されているが、これは、あくまで、仮説であって、実際かどうかは分からないと言うことである。いずれにしろ、大河ドラマの壇れいの璋子が、渡辺文学のイメージを、増幅するのか壊すのか、これからが面白い。
尤も、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は有名で、超実力者であってことは事実のようである。
いずれにしろ、愛の交歓をこれでもか、これでもかと描き切った小説であろうと思って読み始めたのだが、思ったよりその方の描写は淡泊で、珍しくも、色々な文献を参考にして、著者なりに推敲を重ねた伝記作家としての色彩の濃い歴史物の文学作品である。
私など、どちらかと言えば、濃厚な男女の人間模様の方に関心があって、渡辺文学を読んでいるのだが、いまだに、どの辺りが芸術なのか文学なのかは、良く分からないのが気になっている。
さて、この本は、法皇62歳、璋子14歳という途轍もない年齢差を超越した男女の愛の物語で、法皇は、選りにも選って、自分の秘めたる愛人であるその璋子を、自分の孫である時の鳥羽天皇の中宮として送り出し、璋子に条件として、第一子は自分の子供を産めと厳命して、実際に法皇の実子である崇徳天皇を産んだと言う凄い物語が展開される。
最愛の璋子を幸せにする最高の方法は、中宮となり、いずれ帝となる御子を生むこと。それが、平安朝を生きる女性にとっては最高の栄誉であるならば、璋子にもそうさせたい。しかし、愛しくて愛しくてひと時も手元から離したくない璋子への限りなき思いをどうするのか。
法皇と璋子との馴初めだが、璋子が、愛人である祇園女御の養女になっていたので謂わば義父である法皇と、三人で同じ床にいて、女御が居ない時に、床の中で戯れるうちに、思わず結ばれたと言うことのようだが、とにかく、放蕩の限りを尽くした筈の法皇が、年甲斐もなく璋子にのめり込んで、10代半ばから29歳まで15年間、まさしく、璋子の愛人であり恋人であり、父であり師であり、後見人であり、言うならば、すべてであったと言うことであるから凄い。
法皇に心底愛され、夜、殆ど一人で過ごすことなど殆どなかった躰が疼きおさまることがなく、そこまで女体を燃えさせ、成熟させておきながら、29歳の女体を残してこの世を去り、そのまま放り出すとは、あまりに無情ではないか、と渡辺淳一は書いているのだが、どうであろうか。
ピグマリオンが、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻して、この彫像に恋焦がれて、次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテが彫像に生命を与えたので、それを妻に迎えたと言うピグマリオン伝説が、有名だが、あのマイフェア・レィディと同じで、白紙の女性を磨き上げれば磨き上げるほど、その女性に恋焦がれると言うのが、男と言うものであろうか。
確か、渡辺淳一にも、そんな小説が他にあったような気がする。
渡辺文学の面白さが出ているのは、法皇が夜、蛍の入った竹籠を、薄絹一枚を着て眠っている璋子の秘所にかざし、蛍の光に照らされたその美しさに魅了されると言う幻想的(?)なシーン。
そして、相変わらずエロチックで面白いのは、月のさわりを口実に、勇んで迫る天皇を拒絶し続ける璋子の手練手管で、この「夜の床」の章は、如何に、月のものの周期を加減しながら、法皇と天皇の間を、璋子が泳ぐか、天皇の乳母光子(実は璋子の母)と法皇の内侍が間に入って、法皇の意を実現すべく暗躍するのが面白い。
ところで、この法皇と璋子の恋だが、見方によれば、極めて不埒なアンモラル極まりない話だけれど、著者は、「男はどんなに遊んでいても、どこかで純愛に入れ込む生き物なんです。法皇の場合は、それがたまたま60を過ぎてから訪れた、というだけのことで。また、ここでもう一点、大切なのは、二人が自然に結ばれた、ということ。支配する、支配される、つまり「おれの女になれ」といったような上下関係や命令形とは関係なく、自然に結ばれていく愛こそが純愛といっていい。」と言っている。
あの「シラノ・ド・ベルジュラック」などは、本当に純愛だと思うのだが、どうしても、今の日本では、純粋な純愛であっても、アンモラルと称される、例えば、不倫の恋や禁断の恋など成さぬ恋には、どうしても、後ろめたさや抑制が伴う。
人を思う気持ちには、本来、何の束縛もない筈なのだが、兎角、この世は難しい。
著者は、戦国時代や江戸時代は、身分制度が固定しているうえに男尊女卑で、常に男性優位で女性はただ従うだけ、という社会状況で面白くなく、「恋して、愛して、恨んで、嫉妬して――といった感情を盛り込む恋愛小説というジャンルは、基本的には男女対等でなければ、本当の意味で書き込めない。その点では、平安時代の方が、男女が対等だったと思うのです。女の人もけっこう浮気していたようですし、たとえば『源氏物語』で紫の上は、光源氏をずっと拒み続けていましたよね。」と言っているように、要するに、不倫の恋が生まれない世界は、小説にもならないし、純愛も生まれないと言うことであろうか。
この小説で、老年に達した法皇、若くて元気な天皇、そして、二人を相手に遍歴する璋子の3人の恋模様を万華鏡のように絡ませながら、著者は、セックス描写を通して、「女性が何を求めているのか、性的に満ち足りている状態はどこからくるのか……。老年男性には「まだまだこれから」と思ってほしいし、若者たちには「挿入だけがセックスのすべてじゃない」ことを知ってほしいですね。」と言っているのだが、セックスは兎も角、異性を純粋に愛すると言う思いは、歳には全く関係がなく、人間としての本質であると言うことは事実だと思う。
さて、この白河法皇だが、この小説では、崇徳天皇が法皇の実子であり、今、NHKの「平清盛」でも、清盛が白河法皇の実子であるかのように放映されているが、これは、あくまで、仮説であって、実際かどうかは分からないと言うことである。いずれにしろ、大河ドラマの壇れいの璋子が、渡辺文学のイメージを、増幅するのか壊すのか、これからが面白い。
尤も、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は有名で、超実力者であってことは事実のようである。