熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

フランシス・スコット フィッツジェラルド著村上春樹翻訳「グレート・ギャツビー」

2019年08月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   久しぶりに、文学書を読んだ。
   フランシス・スコット フィッツジェラルドの名作だと言われている「グレート・ギャツビー」で、村上春樹翻訳の本だと言うから、文句なしに食指が動いた。
   学生時代に、ヘミングウエーを結構読んだのだが、文学作品を読むのは、シェイクスピアくらいで、これは、観劇のために必須だから愛読したのだが、当初から同じ読むのならと、無謀にも「戦争と平和」など大作から入ったので、続く筈がなかったのである。

   英語の翻訳本を読んでいると、専門書などでは意味不明が結構多くて、原書を参照して初めてわかると言ったケースが多いのだが、翻訳者が、原書の国家社会は勿論、その専門分野に精通した知識を持っていることが必須であるのだが、
   この本で、村上春樹は、人生で巡り会った最も重要な意味を持った作品だとして、この小説の翻訳が最終目標であり結果であると、如何に大切に翻訳に努めたかとを説いている。
   この小説の誕生と描かれている時代は1世紀前だが、「現代の物語」として、そして、作者の優れた音楽を思わせる優美な独特の素晴らしいリズムを大切に翻訳したことを語っているが、この小説に限って、小説家であることを、想像力を、可能な限り活用して翻訳したと言うのが興味深い。
   私は、村上春樹の小説を読んだことがないので、分からないが、この「グレート・ギャツビー」が、最も美しい作品の一つなのであろうと、静かに音読させてもらった。

   村上春樹は、「グレート・ギャツビー」を、「このひと夏の美しくも哀しい物語」と言う。
   シェイクスピアの「真夏の夜の夢」とは、違った雰囲気ながら、実に儚い一瞬の真夏の夢である。

   ロング・アイランドの宮殿のような豪華絢爛たる豪邸で、毎夜のように催される華麗な大パーティ、得体のしれない大富豪ギャツビーの繰り広げるこの物語の舞台だが、
   ギャツビーが、生まれて初めて知った良家の娘ディジーへの愛を取り戻したいための虚飾の世界、
   ギャツビーとの邂逅で、夫との別れ話で錯乱したディジーの運転する車が婦人をはね、同乗していたギャツビーが、運転者と誤解されて、その夫に豪邸の庭で射殺される。
   あんなに絢爛豪華に輝いて、豪華客で犇めいていたギャツビーの築き上げた世界だったが、「触らぬ神に祟りなし」か、葬儀には、デイジーからも連絡さえなく、疎遠であった父親以外は誰も寄り付かない悲しさ。

   極貧生活から立ち上がって、怪しげなブラック・ビジネスで、巨万の富を築き上げて豪華パーティに明け暮れるギャツビーだが、初恋に目覚めた少年のようにディジーのみを思い続けて、この小説の語り部・隣の住人ニックに紹介を頼み込んで、少しずつ、おずおずと再会へとアプローチして行く初心な姿が、清々しい一服の清涼剤で感動的。
   西部と憧れの東部、生活階級の差、経済の高揚期、当時のアメリカの世相を反映していて、興味深い。
   諸行無常、日本の物語に通じる雰囲気があって、しみじみと味わいがあってよい小説であった。

   私は、アメリカでは、大学院生の生活であったので、豪華パーティは知らないが、ロンドンでは、結構、参加する機会があったので、この小説の世界は、少し、分かるような気がする。
   とにかく、欧米人は、何かと言うと、パーティ、レセプションで、毎夜出歩いている人も多くて、このギャツビーの宴会でも、招待されない飛び込み客が大半だったと言うのが良く分かる。
   尤も、ロンドンでは、チャールズ皇太子やダイアナ妃、それに、皇太子時代の天皇陛下のレセプションなどでは、入場者のチェックは当然厳しかった。
   
   ロバート・レッドフォードやレオナルド・ディカプリオの映画「華麗なるギャツビー」を、WOWOWで録画していたのだが、残念ながら、消去してしまって見られなかった。
コメント
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