都響定期演奏会Bで、久しぶりにサントリーホールに出かけた。
プログラムは、
指揮/アラン・ギルバート
モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543
モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550
モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 K.551 《ジュピター》
以前のプログラムなのだが、コロナで延期されていたモーツアルトの三大交響曲をギルバートが振るので期待していた。本当は、前日の定期Cであったのだが、行けなくなって、振替えて貰ったのである。
ヨーロッパ時代のコンサートのプログラムが倉庫に眠っていて探せないので分からないのだが、結構、モーツアルトの交響曲は、ウィーン・フィルやコンセルトヘボウなどで聴いてはいるのだが、三大交響曲を同時に聴くなどと言った希有な機会はなかった。
学生時代にクラシック音楽に興味を持って、最初に聴いた音楽がベートーヴェンやモーツアルトであったし、コンサートでも随分聞き込んでおり、ウィーンやザルツブルグ、プラハなどを訪れた時にはモーツアルトの故地を散策したり、モーツアルトのオペラの数々を観るために劇場へ通うなどして、私の頭の中には、私なりのモーツアルト像が出来上がっており、それを反芻するのが楽しみで、演奏を聴いている。
アレグロがどうだとか、イ短調がどうだとか、難しい理論は何も分からないのだが、ムードで演奏を聴いていて、進歩も何もないけれど、ジュピターにしろ、何十年も聞き続けている内に、自然と心と体が反応してくれる。歌舞伎の忠臣蔵を何度も観ていて、楽しむのと同じようなものである。
この3曲は、モーツアルトの交響曲創作の総決算だと言われているようだが、3曲がそれぞれ異なる個性を示しつつも、動機の相互関連など書法上の関連性を持っており、ニコラス・アーノンクールは、モーツアルトはこれら3曲を一つの”器楽的オラトリオ”として構想したという仮設を立てたと言う。
昔、アーノンクールが人気の時に、コンセルトヘボウに客演してモーツアルトを振ったのを聴いて、カール・ベームが、「私は、アーノンクールを取らない」と言っていたのを思い出した。帰ってきて、NHKアーカイブのベーム指揮ウィーンフィルの端正な40番と41番を聴いたが、古楽界のアーノンクールとはモーツアルト像に大きな違いがあるのであろう。
ジョルディ・サバールも、3曲を一つの作品と見做して、休みなしに演奏していると言うことだが、期せずして、ギルバートの演奏で、この演奏意図の一端を聴けたと言うことであろう。
ところで、ギルバートだが、譜面台もなければタクトもない。
ケンタッキーのトウモロコシ畑のコンバインから顔を覗かせてもおかしくない、野武士のような精悍な風格で、曲想に合わせて表情豊かに、にっこりと微笑んで頷いたり、伸び上がって威風堂々、楽団員に語りかけるように、モーツアルトを紡ぎだす。余談だが、昔々、スイスロマンドを率いて来日したエルネスト・アンセルメが、指揮台で直立不動で微動だにせず、タクトを申しわけ程度にぴくつかせていたのを思い出すが、指揮者それぞれで、面白い。
ギルバートは、今は、北ドイツやスエーデンで振っているようだが、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務め、ジュリアード音楽院のデレクター、
世界のトップ楽団やオペラハウス総ナメの凄い指揮者でありながら、終始変らず、穏やかで温かい風貌が素晴しい。
今回は、舞台左横の最前列に座っていたので、ギルバートや楽団員の表情もよく見えた。
3曲の中では、40番が一番多く聴いてきたような気がする。モーツアルトの宿命の調べのト短調をとり、特有のくらい感情世界を劇的に表している作品だと説明されているのだが。
しかし、私には、冒頭の優雅で美しいサウンドから引き込まれて、天国からの音楽のような調べの多いモーツアルトとしては、少し哀調を帯びた曲かなあと感じるくらいで、暗さなど微塵も感じられない華麗な曲として息づいている。
41番「ジュピター」は、ギリシャの最高神ゼウスで、これ以上はない高みに上り詰めた圧倒的な迫力で、最終章の壮大なフーガ・フィナーレは、聴衆を感動の極致に導く。
30分と少しの時間だが、私には、壮大な宇宙の乱舞を垣間見るような時空を越えた世界の神秘さえ感じさせてくれた。
小澤征爾が、神がモーツアルトにペンを取らせて書いたとしか思えないと語っていたが、まさに、言い得て妙であろう。
ギルバートは、詩情豊かなモーツアルトの壮大な交響叙事詩を、緩急自在、華麗なサウンドの渦を巻き起こしながら、サントリーホールを音響箱として唱わせて、観衆に迫る。ベートーヴェンの交響曲全曲演奏とは違った新鮮な感興を呼ぶ。
都響は、この日は珍しく、ソロ・コンサートマスター矢部達哉の横にコンサートマスターの四方恭子が陣取るという布陣で、ギルバートの期待に応えて、素晴しい演奏を披露した。
プログラムは、
指揮/アラン・ギルバート
モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543
モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550
モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 K.551 《ジュピター》
以前のプログラムなのだが、コロナで延期されていたモーツアルトの三大交響曲をギルバートが振るので期待していた。本当は、前日の定期Cであったのだが、行けなくなって、振替えて貰ったのである。
ヨーロッパ時代のコンサートのプログラムが倉庫に眠っていて探せないので分からないのだが、結構、モーツアルトの交響曲は、ウィーン・フィルやコンセルトヘボウなどで聴いてはいるのだが、三大交響曲を同時に聴くなどと言った希有な機会はなかった。
学生時代にクラシック音楽に興味を持って、最初に聴いた音楽がベートーヴェンやモーツアルトであったし、コンサートでも随分聞き込んでおり、ウィーンやザルツブルグ、プラハなどを訪れた時にはモーツアルトの故地を散策したり、モーツアルトのオペラの数々を観るために劇場へ通うなどして、私の頭の中には、私なりのモーツアルト像が出来上がっており、それを反芻するのが楽しみで、演奏を聴いている。
アレグロがどうだとか、イ短調がどうだとか、難しい理論は何も分からないのだが、ムードで演奏を聴いていて、進歩も何もないけれど、ジュピターにしろ、何十年も聞き続けている内に、自然と心と体が反応してくれる。歌舞伎の忠臣蔵を何度も観ていて、楽しむのと同じようなものである。
この3曲は、モーツアルトの交響曲創作の総決算だと言われているようだが、3曲がそれぞれ異なる個性を示しつつも、動機の相互関連など書法上の関連性を持っており、ニコラス・アーノンクールは、モーツアルトはこれら3曲を一つの”器楽的オラトリオ”として構想したという仮設を立てたと言う。
昔、アーノンクールが人気の時に、コンセルトヘボウに客演してモーツアルトを振ったのを聴いて、カール・ベームが、「私は、アーノンクールを取らない」と言っていたのを思い出した。帰ってきて、NHKアーカイブのベーム指揮ウィーンフィルの端正な40番と41番を聴いたが、古楽界のアーノンクールとはモーツアルト像に大きな違いがあるのであろう。
ジョルディ・サバールも、3曲を一つの作品と見做して、休みなしに演奏していると言うことだが、期せずして、ギルバートの演奏で、この演奏意図の一端を聴けたと言うことであろう。
ところで、ギルバートだが、譜面台もなければタクトもない。
ケンタッキーのトウモロコシ畑のコンバインから顔を覗かせてもおかしくない、野武士のような精悍な風格で、曲想に合わせて表情豊かに、にっこりと微笑んで頷いたり、伸び上がって威風堂々、楽団員に語りかけるように、モーツアルトを紡ぎだす。余談だが、昔々、スイスロマンドを率いて来日したエルネスト・アンセルメが、指揮台で直立不動で微動だにせず、タクトを申しわけ程度にぴくつかせていたのを思い出すが、指揮者それぞれで、面白い。
ギルバートは、今は、北ドイツやスエーデンで振っているようだが、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務め、ジュリアード音楽院のデレクター、
世界のトップ楽団やオペラハウス総ナメの凄い指揮者でありながら、終始変らず、穏やかで温かい風貌が素晴しい。
今回は、舞台左横の最前列に座っていたので、ギルバートや楽団員の表情もよく見えた。
3曲の中では、40番が一番多く聴いてきたような気がする。モーツアルトの宿命の調べのト短調をとり、特有のくらい感情世界を劇的に表している作品だと説明されているのだが。
しかし、私には、冒頭の優雅で美しいサウンドから引き込まれて、天国からの音楽のような調べの多いモーツアルトとしては、少し哀調を帯びた曲かなあと感じるくらいで、暗さなど微塵も感じられない華麗な曲として息づいている。
41番「ジュピター」は、ギリシャの最高神ゼウスで、これ以上はない高みに上り詰めた圧倒的な迫力で、最終章の壮大なフーガ・フィナーレは、聴衆を感動の極致に導く。
30分と少しの時間だが、私には、壮大な宇宙の乱舞を垣間見るような時空を越えた世界の神秘さえ感じさせてくれた。
小澤征爾が、神がモーツアルトにペンを取らせて書いたとしか思えないと語っていたが、まさに、言い得て妙であろう。
ギルバートは、詩情豊かなモーツアルトの壮大な交響叙事詩を、緩急自在、華麗なサウンドの渦を巻き起こしながら、サントリーホールを音響箱として唱わせて、観衆に迫る。ベートーヴェンの交響曲全曲演奏とは違った新鮮な感興を呼ぶ。
都響は、この日は珍しく、ソロ・コンサートマスター矢部達哉の横にコンサートマスターの四方恭子が陣取るという布陣で、ギルバートの期待に応えて、素晴しい演奏を披露した。