
今月の文楽は3部構成で、第一部は、「御所桜堀川夜討の弁慶上使の段」と「関取千両幟の猪名川内より相撲場の段」である。
昨秋、橋之助の弁慶、福助のおわさで歌舞伎の素晴しい弁慶上使の公演を観ているので、楽しみに出かけたが、やはり、充実した立派な舞台であった。
歌舞伎と文楽の違いを見ることによって、特に、人形だから出来る素晴しい演技が、舞台を更に引き立たせてくれるような気がして、巾が感じられるので、両方観るのは非常に参考になる。
弁慶が、自分の娘に始めて会いながら名乗りもせずに、主君義経の北の方卿の君の身代わりとして襖越しに刺し殺さざるを得なかった悲劇を、吉田玉女の弁慶は、しっかりと娘信夫の亡骸をかき抱き、すっくと仁王立ちして舞台に背を向け全身をを震わせながら号泣する。
「泣くより泣かぬ苦しみは、ナコリヤ鳴く蝉よりも、なかなかに鳴かぬ蛍の身を焦がす、・・・」切豊竹十九大夫の哀切な名調子が肺腑を抉る。
玉女の弁慶だが、実に風格があって、凛とした十九大夫の浄瑠璃と豊澤富助の三味線に合わせて豪快に演じるが、娘信夫への父親としての情愛を苦衷の中から垣間見せるあたり実に上手い。
人生、これ一度しか泣いた事のない弁慶の人間性が唯一見える舞台である。
襖を押し開けて出てくる時から、既に、黒装束の間から真っ赤な振袖を覗かせており、歌舞伎より舞台展開が早いが、さらっとしているあたり悲劇性が強調されて良い。
桐竹紋寿が遣う信夫の母お物縫いのおわさだが、冒頭、歌舞伎の舞台にはない安産のまじないの「海馬」を持参する場面がある。
何故、最近来ないのかと聞かれて、紅葉狩りの客からの物縫いが多くて忙しいのだと云いながら、手拍子足拍子で海馬の説明をする。
卿の君に、「気軽にわさわさ物云やる。おわさとよう付けた」と云われるくらい良く喋るのだが、弁慶が来て暗転する舞台の清涼剤として、その対象の妙が面白い。
肝心の一生一度の弁慶との契りの場面、
「頃は夜も長月の二十六夜の月待ちの夜、数多泊りの、その中に、二八余りの稚児姿、こっちに思えば、その人も、擦れつ縺れつ相生の、松と松との若緑、露の契りが縁のはし。ヲヲ恥づかしや、つい烏羽玉の転び寝に、辛や人の足音に、恋人も驚きて、起きゆく袂控ゆるを、振り切り急ぎ往く拍子、ちぎれてわが手に残りしは、この振袖。」
歌舞伎では十分に分からない艶かしい描写が、浄瑠璃では語られている。
この語りの途中、浄瑠璃の語りが長い間小休止して、三味線の軽快なリズムにのって、桐竹紋寿のおわさが、情感を籠めて舞うように演じる。
女としての狂おしいほどの情愛を後姿の艶姿を交えながら人形が心に迫る、実に感動的である。
このおわさの述懐、そして、信夫が息を引き取った後の哀切なクドキの紋寿の芸の細かさ、それに、十九大夫の胸に染み渡るような語りと富助の三味線の音の三拍子揃った舞台は絶品である。
淡路で生まれ育った桐竹紋寿、子供の頃から人形を遣っていたが、軽くて楽だからと云われて女形の人形遣いになったと言う。
何時観ても素晴しい舞台を見せてくれている。
第一部のもう一つの猪名川内の相撲の場だが、八百長相撲を強いられた関取猪名川が、妻のおとわに助けられて立派に相手に勝つ話だが、おとわを使う人間国宝吉田文雀が、豊竹咲大夫の語りにのせて実に情感豊かに演じている。
相撲に出かける猪名川の髪の乱れを梳きなおすところ、顔色を伺いながらの優しい仕種など、胡弓の哀調を帯びた音色に合わせて実に感動的である。
もう一つ感動的だったのは、舞台が猪名川の仮住まいから、相撲小屋の前に変わる幕間に、三味線の鶴澤燕二郎の素晴しいアクロバチックな演奏である。
最初は、激しく豪快に奏していたが、後半からは、三味線を床に立てたり裏返したり持ち上げて片手で弾いたり、撥を立てて転がしながら爪弾いたり、とにかく、三味線があんなに豊かで変化に富んだ音色を出すのかと思ってビックリしながら聞いていた。
胡弓の何とも云えない囁き、そして、時には、訴えるように爪弾かれる琴、やはり、三味線は、文楽の重要な三業の一つである。
昨秋、橋之助の弁慶、福助のおわさで歌舞伎の素晴しい弁慶上使の公演を観ているので、楽しみに出かけたが、やはり、充実した立派な舞台であった。
歌舞伎と文楽の違いを見ることによって、特に、人形だから出来る素晴しい演技が、舞台を更に引き立たせてくれるような気がして、巾が感じられるので、両方観るのは非常に参考になる。
弁慶が、自分の娘に始めて会いながら名乗りもせずに、主君義経の北の方卿の君の身代わりとして襖越しに刺し殺さざるを得なかった悲劇を、吉田玉女の弁慶は、しっかりと娘信夫の亡骸をかき抱き、すっくと仁王立ちして舞台に背を向け全身をを震わせながら号泣する。
「泣くより泣かぬ苦しみは、ナコリヤ鳴く蝉よりも、なかなかに鳴かぬ蛍の身を焦がす、・・・」切豊竹十九大夫の哀切な名調子が肺腑を抉る。
玉女の弁慶だが、実に風格があって、凛とした十九大夫の浄瑠璃と豊澤富助の三味線に合わせて豪快に演じるが、娘信夫への父親としての情愛を苦衷の中から垣間見せるあたり実に上手い。
人生、これ一度しか泣いた事のない弁慶の人間性が唯一見える舞台である。
襖を押し開けて出てくる時から、既に、黒装束の間から真っ赤な振袖を覗かせており、歌舞伎より舞台展開が早いが、さらっとしているあたり悲劇性が強調されて良い。
桐竹紋寿が遣う信夫の母お物縫いのおわさだが、冒頭、歌舞伎の舞台にはない安産のまじないの「海馬」を持参する場面がある。
何故、最近来ないのかと聞かれて、紅葉狩りの客からの物縫いが多くて忙しいのだと云いながら、手拍子足拍子で海馬の説明をする。
卿の君に、「気軽にわさわさ物云やる。おわさとよう付けた」と云われるくらい良く喋るのだが、弁慶が来て暗転する舞台の清涼剤として、その対象の妙が面白い。
肝心の一生一度の弁慶との契りの場面、
「頃は夜も長月の二十六夜の月待ちの夜、数多泊りの、その中に、二八余りの稚児姿、こっちに思えば、その人も、擦れつ縺れつ相生の、松と松との若緑、露の契りが縁のはし。ヲヲ恥づかしや、つい烏羽玉の転び寝に、辛や人の足音に、恋人も驚きて、起きゆく袂控ゆるを、振り切り急ぎ往く拍子、ちぎれてわが手に残りしは、この振袖。」
歌舞伎では十分に分からない艶かしい描写が、浄瑠璃では語られている。
この語りの途中、浄瑠璃の語りが長い間小休止して、三味線の軽快なリズムにのって、桐竹紋寿のおわさが、情感を籠めて舞うように演じる。
女としての狂おしいほどの情愛を後姿の艶姿を交えながら人形が心に迫る、実に感動的である。
このおわさの述懐、そして、信夫が息を引き取った後の哀切なクドキの紋寿の芸の細かさ、それに、十九大夫の胸に染み渡るような語りと富助の三味線の音の三拍子揃った舞台は絶品である。
淡路で生まれ育った桐竹紋寿、子供の頃から人形を遣っていたが、軽くて楽だからと云われて女形の人形遣いになったと言う。
何時観ても素晴しい舞台を見せてくれている。
第一部のもう一つの猪名川内の相撲の場だが、八百長相撲を強いられた関取猪名川が、妻のおとわに助けられて立派に相手に勝つ話だが、おとわを使う人間国宝吉田文雀が、豊竹咲大夫の語りにのせて実に情感豊かに演じている。
相撲に出かける猪名川の髪の乱れを梳きなおすところ、顔色を伺いながらの優しい仕種など、胡弓の哀調を帯びた音色に合わせて実に感動的である。
もう一つ感動的だったのは、舞台が猪名川の仮住まいから、相撲小屋の前に変わる幕間に、三味線の鶴澤燕二郎の素晴しいアクロバチックな演奏である。
最初は、激しく豪快に奏していたが、後半からは、三味線を床に立てたり裏返したり持ち上げて片手で弾いたり、撥を立てて転がしながら爪弾いたり、とにかく、三味線があんなに豊かで変化に富んだ音色を出すのかと思ってビックリしながら聞いていた。
胡弓の何とも云えない囁き、そして、時には、訴えるように爪弾かれる琴、やはり、三味線は、文楽の重要な三業の一つである。