熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ベルリンの壁崩壊後30年と言う

2019年11月04日 | 政治・経済・社会
   日経の記事「民主主義脅かす大衆迎合」を読んでいて、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊して30年経ったことを知った。
   その後、次々と東欧諸国の民主化が進展して、間もなく、ソ連も崩壊して、世界中が雪崩を打ったように資本主義優勢の新時代に突入した。
   
   私自身、当時、ロンドンに在住して、仕事をしていたので、その激動の時代に、歴史の現場で遭遇するという貴重な経験をしている。
   その後、ICT革命とグローバリゼーションの進展で、中国やインドなどの新興国の台頭で、世界中がフラット化して、21世紀に向けて、人類の歴史が大変動を遂げた。

   ウィキペディアを引用させてもらうと、
   「ベルリンの壁崩壊」は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。

   事の起こりは、1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進した結果で、ソ連とその影響下にある東欧諸国での民主化が一気に進展した。
   ハンガリーの民主化の動きは早く、1988年11月に、社会主義労働者党の改革派のネーメト・ミクローシュが首相に就任して、言論の自由や国外旅行が自由化され、1989年には国内改革の動きが急速で、ハンガリーは、オーストリアとの国境線の鉄条網を撤去して、東ドイツ人に開放した。
   既に西ドイツと協議済みで、ハンガリーに入国した東ドイツ人に、西ドイツのパスポートを与えたので、彼らはオーストリア経由で西ドイツに堂々と入国、ベルリンの壁崩壊は、雪崩を打って進展したのである。
   ハンガリーのネーメト首相は、ボンに飛び、秘密裡にコール首相と会談して、コール首相に、人道的見地から、オーストリア国境を開放して、東ドイツ市民に自由出国を認めるので、ドイツに10万から15万人の東ドイツ国民が入国できるような施設などの対処を依頼したというのだから、ゴルバチョフ同様、時代の潮流を読んだ偉大な指導者であった。

   余談ながら、時期は忘れたが、自由化で門戸を開放した直後、ハンガリーに出張して、ビジネス案件で、ロンドンのハンガリー出身のエージェントの仲介で、あの壮麗な国会議事堂の議場に入って、休憩中のネーメト首相に面会して、5分くらい話した経験がある。
   何を話したか覚えていないが、非常に流暢な英語で応対して頂いたのを思い出す。
   この時、政府機関を訪れて、いくつかの省の大臣や役人に会って話をしたが、ソ連時代の圧政が相当酷かったのであろう、うらぶれた貧しい小さな事務所での執務が痛々しかった。
   この後、何度かハンガリーに出張したが、惨憺たる保存状態ではあったが、古い文化遺産や文化華やかなりし往時の面影やその片鱗を垣間見て、あの共産時代は何であったのか、考えざるを得なかった。

   余談が長くなったが、ベルリンの壁が崩壊して、東ベルリンに自由に入国できるようになった直後、どうしても、この目で見たくて、休日を利用して、東ベルリンに入った。
   早朝、鉄道経由で、確かフリードリヒ通り駅Bahnhof Berlin Friedrichstraßeだと思うが、この検問所から東ベルリンに入った。
   ビザなしだったと思うのだが、門限が決まっていて、夜何時だったか忘れたが、この時間までに出国する必要があり、忙しかったが、私的旅行だったので、私の行きたかったのは、ブランブルグ門、フンボルト大学、ペルガモン博物館などで、偶然、マチネー公演があって、ベルリン国立歌劇場でオペラ「ホフマン物語」を鑑賞できた。
   ブランデンブルグ門は、壁の内側、東ベルリン側にあるので、それまで、アプローチできなかったので、感動冷めやらず、長い間、殆ど人影のいない門の傍で、感慨に耽っていた。
   ベルリンの壁のかけらだと言うので、記念にと思って安かったので買って帰ったのだが、どう見ても、新しい代物、ナチスの勲章や襟章の方が、記念になったかもしれない。

   その直後、経済団体が、東ベルリンで、東西経済交流の大会議を開いたので、参加したが、西ヨーロッパは、勿論、ソ連や東ヨーロッパからも沢山要人たちが参加した大規模な国際会議であった。
   その成果よりも、強烈に覚えているのは、第1日目の朝のセッションが終わった直後に、同時通訳用のレシーバーの過半が消えて帰ってこなくなったことである。
   当時、ソ連が日本製の電卓を水深測量計に改造して使っていたと言うから、貧しくて文明機器の不足していた東側の参加者が、通信機器か何かに転用しようと持ち帰ったのであろうと、噂していたが、共産主義体制崩壊の末路を見たようで、複雑な気持ちになった。

   翌年に、東欧事務所設立準備のために、社内で調査団を組んで、東西ベルリンを起点にして、東ドイツに入ってライプチッヒとドレスデン、そして、チェコスロバキアのプラハとハンガリーのブダペストを訪れた。
   この時は、ポッダムを訪れて、ポツダム宣言所縁の故地やサンスーシー宮、そして、ルターの宗教改革の口火を切った『95ヶ条の論題』を掲げたヴィッテンベルクの教会なども訪れて、歴史を実感した。
   どの大都市も、戦争や革命騒ぎで、壊滅的な打撃を受けて、そのままの状態でフリーズしたような哀れな姿を露呈していて、あらためて、ソ連支配の東欧諸国の失われた戦後の歴史の悲惨さを感じて愕然とした。
   情勢は、体制移行の過渡期で、殺伐とはしていたが、移動や視察には、何の支障も不安を感じることもなかった。

   東ドイツに入れば、舗装が無残に剥がれて疲弊した道路を、ぺろぺろの貧弱な小型乗用車トラバントが走っていて、
   田舎に出たら、ヒットラーが、非常時には、滑走路に転用しようとした中央分離帯のないハイウエイが、そのまま残っていて、延々と真っすぐに伸びている異様さ。

   ベルリンは、仕事の関係で、何度か訪れていて、復興の後も観ている。
   以上は、ベルリンの壁の崩壊で、蘇った私の記憶のほんの一端、
   走馬灯のように、懐かしい。
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