熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

日経シンポジウム:秋入学と人材育成

2012年12月21日 | 政治・経済・社会
   日経主催で、「秋入学と人材育成」シンポジウムが開かれたので聴講した。
   秋入学を提唱した濱田純一東大総長から皮きりの基調講演があり、その後、パネルディスカッションで、秋入学の是非等について議論され、更に、時代にマッチしたグローバル人材の育成など日本の教育問題について活発な論議が展開された。

   秋入学については、パネリスト全員が、熱心な推奨者であり、かなり、問題点などについても議論されたのだが、秋入学に転換すれば、国際競争力のあるグローバル人材がすぐにでも育成できるようなブレイクスルーが期待できるわけではない。
   要するに、日本の教育制度が、会計年度に合わせて、4月スタートの春入学制度を取っていて、欧米の9月スタートの秋入学と言うグローバル・スタンダードから逸脱しているので、色々と不都合が起こっていると言うことが問題なのであって、この制度と習慣を、ディファクト・スタンダードに合わせない限り、問題は解決しないのである。

   従って、出来れば、日本の社会や政治経済制度を、可能な限り、欧米流のスタート時期に合わせてリセットすることがベターであって、少なくとも、学校など教育制度については、小中学校から高校なども含めてすべての組織を、秋入学に切り替えない限り、多くの不都合ばかりが生じて、教育制度がマヒしてしまうことになろう。
   東大の秋入学発表にうかれて(?)いる感じなのだが、たとえ、多くの大学がこれに追随したとしても、日本の大学自体が、春入学と秋入学の併用状態になれば、教育システムのみならず、日本の社会そのものに、大きな混乱を生じることは必定であろうと思われる。

   因みに、欧米流の秋入学を採用することになると、恐らく、セメスター(二学期)制度を取ることになるであろうから、入学は9月で、卒業は5月となって、終期は、2か月遅れとなるが、良し悪しは別として、一回夏休みを無駄にすること(?)がなくなることになるであろう。
   しかし、グローバル時代における有為な人材育成のための高等教育は、当然、大学はリベラルアーツを主体として基礎的な教養教育の場となって、大学院教育が主流になるであろうから、適切な移行措置かも知れないと思っている。

   
   私自身は、東大が、秋入学への移行を提唱して以降、日本の学校制度それ自体を、すべて、グローバルスタンダードとも言うべき秋入学に、変更しようと言う意見なり世論が、全く起こって来ないこと自体を不思議に思っている。
   日本社会が、本格的に社会構造をリセットしたのは、恐らく、日本が歴史的な危機状態に陥った明治維新と終戦後の再建時代だと思うのだが、今日のグローバル社会の到来が、これまで有効に機能してきた政治経済社会構造を、陳腐化し制度疲労させてしまって、世界の潮流に合わなくなってしまって、日本を危機的な状態に追い込んでしまっているのなら、維新を起こしてリセットする以外にない。
   東大の秋入学を推進すると言った安普請をしていては、日本の屋台骨さえも崩壊させかねない筈である。

   
   この大学の秋入学に移行すれば、3月に高校を卒業した18歳の若者が、9月の入学までに5か月間のギャップ・タームが生まれるので、この期間をどうするのか、海外留学やボランティア活動など東大では検討したと言う。
   今回のシンポジウムで、日本の18歳が欧米の同年齢と比べて大人度(?)や自主的な社会的成熟度などが劣っているので、若者自身の自主的な活動期間として生かそうと言うような議論がなされていたのだが、幼少年時代から型に嵌め込まれて自主的な生き方をして来なかった日本の若者に多くを期待できる筈がないし、そのようなギャップ・タームと言う無駄な期間を発生させること自体が、ナンセンスだと思っている。

   人材の育成については、マクドナルドの原田泳幸CEOから、日本のビジネスマンは、非常に優秀だが、コミュニケーション力やコンストラクティブ・ディベート、クリエイティビティ、リーダーシップ、独創性独自性などに劣っていて、国際競争に伍して行けないと言う指摘がなされて、建設的な説得力のあるディベート能力などを如何に涵養するのかなどが議論された。
   沈黙は金だと教えられて、出る釘は徹底的に叩かれるようなメンタリティの社会に生き、かつ、競争は共倒れになると協調と談合ばかりに意を用いる横並び主義の日本人に、弱肉強食の熾烈な競争社会に生きる個人主義の欧米人と、同じ土俵の上で、戦って、独創性やリーダーシップを発揮せよと言ってみても、所詮つけ刃にしか過ぎなず、根本的な意識革命から始めなければならない。

   私が気になったのは、日本の大学教育は、正解を追い求めて、正しい知識、真実を追求して行くと言うことに重点を置いていて、このやり方がそれなりに機能しているので、ディベート力を涵養するためには、移行ギャップを生み出す必要があるとした濱田学長の発言で、真実の追求とディベート力の涵養は、トレードオフの関係ではなく、同時実現が可能であると言う厳粛なる事実を分かっていないと言うことである。

   教育問題については、このブログで何度も論じており、各所で引用されたりもしているので蛇足は避けることとして、ここで、日本の教育の姿勢について、1点だけ問題点を指摘して、濱田学長の誤りを指摘しておきたいと思う。
   それは、予習を重視する欧米教育と、知識吸収と復習を重視する日本の教育との違いである。

   私が、アメリカでのMBA留学で、最も感銘を受けたシステムは、授業のスタート時点で、最終講義までの詳細なスケジュールと膨大なリーディング・アサインメントを明記した書類が配布されて、それに従って授業が完遂されると言うことであった。
   ハーバード・ビジネス・スクールはケース・スタディに比重がかかっていて、私の通ったウォートン・スクールは、講義形式に比重を置いたビジネス・スクールではあったが、それにも拘わらず、授業の前には、その授業を受けるために、専門書や参考書、法令資料などの膨大なリーディング・アサインメント(100ページを有に超えることもある)を読破して、十分に予備知識を習得した上で、授業に臨んで、議論や質問に参加することが求められているのである。

   ビジネス・スクールは、文学や理系、医学などの大学で異分野を専攻した学生が多いので、マクロやミクロ経済の講義などは、一からのスタートで、サミュエルソンのエコノミックス(現在なら、マンキューやステイグリッツのテキストであろうか)から始めるのだが、これなど、最初の4回くらいの授業で終わってしまい、授業最終には、最新の経済論文や経済学書を読めるところまで、レベルを上げて行くのである。
   短期間で教育の実を上げるためには、攻撃は最大の防御なりであって、学生に事前学習を義務付けて徹底的に勉強させて、教授以上に知識情報を事前に装備させて、授業に臨ませることが何より肝要である。
   

   私は、最近、大学で、単発ながら、ブラジル学とBRIC'sビジネスについて、講義を持っており、そのための資料の一部として、このブログで、BRIC'sの大国:ブラジルと言う記事を書いており、他の参考書などとともに、リーディング・アサインメントとして事前に読んでくれるよう指示したのだが、当然、日本人大学生には、そのような姿勢がないので、空振りに終わっている。

   マイケル・サンデルが、「これからの「正義」の話をしよう」で火をつけた対話形式のハーバード講義が、日本でも脚光を浴びたのだが、そのような教育システムが、日本でも根付くためには、まず、前述したように、その授業や講義の前に、学生自身が、十分に事前に勉強をして理論武装して臨むことが必須であり、そのような姿勢を学生たちに植えつけない限り無理であろう。
   何も、濱田学長の言うように、真実の追求への時間を割かなくても、学生たちに周到な準備を義務付けて定着させて議論に参加させ、教授が講義技術を高めてうまく誘導できれば、コンストラクティブ・ディベート能力なり姿勢が、涵養される筈である。

   
   もう一つ、蛇足ついでに付記しておきたいのは、日本人ノーベル賞受賞者の大半が、アメリカで教育を受けたり研究に従事した経験者であることを考えれば分かるように、日本の大学なり研究機関など高級教育機関の質に問題があることと、大学教授など教育者の質なりレベルが、相対的に低いと言うことで、このあたりを、国際水準に引き上げることが必須である。
   さらに、日本人の欧米先進国への留学が激減して内向き志向が進んでいることを考えれば、明治維新の頃のような、積極的に外国人教授や学者を招聘して、異文化異文明の交錯する文化・文明の十字路を作り上げてメディチ・エフェフトを醸成することが、何よりも、肝要だと思っている。
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