
平家物語の最後の句が、平家断絶だが、そのひとつ前の句が、大原御幸で、後白河法皇が、大原の寂光院で侘び住まいする建礼門院を訪れる。
源氏に院宣を発して平家追討を命じて平家を滅ぼし、自分の孫である安徳天皇を壇ノ浦で崩御させた憎んでも憎み切れない法皇が、国母であった清盛の娘である建礼門院徳子を訪ねるとは、何事か、
私には、ずっと疑問であったのだが、鳥越碧は、この小説で、一つの回答を示してくれた。
法皇の突然の訪問が衝撃を与えたのか、微熱が続き、徳子は病床に就きうなされる。
”深更の静寂の中で、徳子はようやく頷く思いがした。壇ノ浦の戦いの後、どうして生きながらえて来たのか。わが子を一族を滅ぼされても。
「あなたに抱かれるまで、死ねなかったのです。」と呟いてみる。
そのためにのみ、生きてきたような気がする。徳子はそっと微笑を洩らす。これこそが本心だったのだと。”
尤も、大原御幸では、徳子は、出家した侘び住まいを恥じて泣く泣く法皇と対面して、清盛の娘として生まれて、安徳帝を生み国母として栄誉栄華を極めながら、木曽義仲に都を追われて、海上を流浪して飢えと渇きの餓鬼道に苦しみ、壇ノ浦で安徳帝の入水と平家の滅亡を眼前にして地獄を見たことなど自分自身の生涯を語りながら、生きながらに六道の苦しみを見たと涙に咽びながら淡々と語り、法皇は去って行く。
ところが、この小説では、法皇は、あたかも視姦するように、狩人の眼で徳子を見て、「政とそなたは別じゃ、余は、ずっと信じておった。そなたと余の間に流れるたゆたう陽炎に二人の真実があると」と詰め寄り、
徳子は、今にも、憎しみも恨みもなにもかも投げ打って、墨染めの衣のままに、僧体の法皇の胸に縋り付きたい思いになる。徳子は怯える。燃え盛る法皇への愛が、すべて飲み込んでしまうのかと。狂う。このままでは耐えきれない。もう、限界かと思った時、・・・・・・
逆巻く怒涛の音を聞きながら、法皇は、かって、一度も聞いたことのない、地を這うような声で、「さらばじゃ」
私は、この本を読んでいて、歌右衛門の「建礼門院」を思い出した。
以下は、その時の私の感想で、ブログから引用する。
”私は、中村歌右衛門の最晩年の舞台・北条秀司の歌舞伎「建礼門院」を歌舞伎座で見た。
平家物語の「大原御幸」の場面で、後白河法皇を新国劇の島田正吾が演じていた。
後白河法皇は、門院を参内させるように命じたが清盛が拒否して高倉天皇の妃になった経緯があり、法皇の門院への執心故か、何故、草深い大原まで訪れたのか問題になることがある。
しかし、北条はそんな無粋な話は無視して、この場面を、法皇の懺悔と門院のさとりの崇高な人間ドラマに仕立てている。
門院が、壇ノ浦の阿鼻叫喚の断末魔の凄まじさを掻き口説き、自身の孫安徳天皇を殺したのは祖父の貴方なのだと告発する、晩年に近い歌右衛門の凄い入魂の舞台である。歌右衛門はもう台詞の記憶もさだかではなく、プロンプターの声が耳に障る程、しかし、芸は衰えていない。
後白河法皇は、懺悔し土下座して門院に謝る。
六道輪廻、地獄を見た門院が法皇を許し、悟りを開く。
寂しそうに花道を去ってゆく正吾・法皇を見送りながら、「お父様・・・」とつぶやく。二人の熱演が、観客を釘付けにする。”
私は、平家物語と源氏物語のファンでもあったので、大学が京都であったことが幸いして、物語の故地やゆかりの舞台を歩き続けていた。
建礼門院が、この大原の前には、わが大学の正門前の吉田神社に住んでいて、巷の噂が煩わしいので涙を飲んで草深い大原の寂光院に移り住み、安徳帝と平家一門の菩提を弔うのだが、私は、この草深い大原が好きで、紅葉の美しい秋にも、桜の咲く春にも、そして、暑い夏にも、厳寒の冬にも、何度も訪れて行き、寂光院と三千院の間の山道を歩いていた。
古い本堂が、消失してしまって残念なのだが、あの頃は、訪れ来る人も殆ど居なくて、長い間、寂光院の境内に佇んで静寂を楽しみながら、遠い歴史物語に思いを馳せていた。
この本の書評を書くつもりだったが、つい横道にそれてしまった。
先に、渡辺淳一著「天上紅蓮」について書評を書いた。これは、少し前の白河法皇62歳、璋子14歳という途轍もない年齢差を超越した男女の愛の物語で、今回の「建礼門院 徳子」の場合も、後白河法皇と徳子には、28歳の年齢差があり、徳子が法皇に対して激しい恋心を燃やした時には、法皇は50歳代であった。
天上紅蓮の方は、夫の天皇を無視して法皇との愛に溺れて法皇の子を産むと言う話だが、建礼門院の方は、両方とも激しい恋心に焼き尽くされる思いでありながら、到頭、閨の交わりなく終わっている。
我々の年代には、実らなかった恋の思い出は切なくて、いつまでも甘酸っぱい思い出として生き続けるようで、好意を示して貰っておりながら、自分の不甲斐なさ故に応えられなかった、その程度なのだが、当人にとっては、小説の激しい恋物語よりも、もっと深刻だろうと思うのだが、どうであろうか。
私は、軍記物としての平家物語も好きだが、横笛と滝口入道、高倉帝と小督、静と義経、そして、祇王妓女仏たちの白拍子の話などなど、はかなく息づいていた男女の物語にも引かれており、これらのゆかりの嵯峨や嵐山、吉野なども随分歩いたのを思い出す。
源氏に院宣を発して平家追討を命じて平家を滅ぼし、自分の孫である安徳天皇を壇ノ浦で崩御させた憎んでも憎み切れない法皇が、国母であった清盛の娘である建礼門院徳子を訪ねるとは、何事か、
私には、ずっと疑問であったのだが、鳥越碧は、この小説で、一つの回答を示してくれた。
法皇の突然の訪問が衝撃を与えたのか、微熱が続き、徳子は病床に就きうなされる。
”深更の静寂の中で、徳子はようやく頷く思いがした。壇ノ浦の戦いの後、どうして生きながらえて来たのか。わが子を一族を滅ぼされても。
「あなたに抱かれるまで、死ねなかったのです。」と呟いてみる。
そのためにのみ、生きてきたような気がする。徳子はそっと微笑を洩らす。これこそが本心だったのだと。”
尤も、大原御幸では、徳子は、出家した侘び住まいを恥じて泣く泣く法皇と対面して、清盛の娘として生まれて、安徳帝を生み国母として栄誉栄華を極めながら、木曽義仲に都を追われて、海上を流浪して飢えと渇きの餓鬼道に苦しみ、壇ノ浦で安徳帝の入水と平家の滅亡を眼前にして地獄を見たことなど自分自身の生涯を語りながら、生きながらに六道の苦しみを見たと涙に咽びながら淡々と語り、法皇は去って行く。
ところが、この小説では、法皇は、あたかも視姦するように、狩人の眼で徳子を見て、「政とそなたは別じゃ、余は、ずっと信じておった。そなたと余の間に流れるたゆたう陽炎に二人の真実があると」と詰め寄り、
徳子は、今にも、憎しみも恨みもなにもかも投げ打って、墨染めの衣のままに、僧体の法皇の胸に縋り付きたい思いになる。徳子は怯える。燃え盛る法皇への愛が、すべて飲み込んでしまうのかと。狂う。このままでは耐えきれない。もう、限界かと思った時、・・・・・・
逆巻く怒涛の音を聞きながら、法皇は、かって、一度も聞いたことのない、地を這うような声で、「さらばじゃ」
私は、この本を読んでいて、歌右衛門の「建礼門院」を思い出した。
以下は、その時の私の感想で、ブログから引用する。
”私は、中村歌右衛門の最晩年の舞台・北条秀司の歌舞伎「建礼門院」を歌舞伎座で見た。
平家物語の「大原御幸」の場面で、後白河法皇を新国劇の島田正吾が演じていた。
後白河法皇は、門院を参内させるように命じたが清盛が拒否して高倉天皇の妃になった経緯があり、法皇の門院への執心故か、何故、草深い大原まで訪れたのか問題になることがある。
しかし、北条はそんな無粋な話は無視して、この場面を、法皇の懺悔と門院のさとりの崇高な人間ドラマに仕立てている。
門院が、壇ノ浦の阿鼻叫喚の断末魔の凄まじさを掻き口説き、自身の孫安徳天皇を殺したのは祖父の貴方なのだと告発する、晩年に近い歌右衛門の凄い入魂の舞台である。歌右衛門はもう台詞の記憶もさだかではなく、プロンプターの声が耳に障る程、しかし、芸は衰えていない。
後白河法皇は、懺悔し土下座して門院に謝る。
六道輪廻、地獄を見た門院が法皇を許し、悟りを開く。
寂しそうに花道を去ってゆく正吾・法皇を見送りながら、「お父様・・・」とつぶやく。二人の熱演が、観客を釘付けにする。”
私は、平家物語と源氏物語のファンでもあったので、大学が京都であったことが幸いして、物語の故地やゆかりの舞台を歩き続けていた。
建礼門院が、この大原の前には、わが大学の正門前の吉田神社に住んでいて、巷の噂が煩わしいので涙を飲んで草深い大原の寂光院に移り住み、安徳帝と平家一門の菩提を弔うのだが、私は、この草深い大原が好きで、紅葉の美しい秋にも、桜の咲く春にも、そして、暑い夏にも、厳寒の冬にも、何度も訪れて行き、寂光院と三千院の間の山道を歩いていた。
古い本堂が、消失してしまって残念なのだが、あの頃は、訪れ来る人も殆ど居なくて、長い間、寂光院の境内に佇んで静寂を楽しみながら、遠い歴史物語に思いを馳せていた。
この本の書評を書くつもりだったが、つい横道にそれてしまった。
先に、渡辺淳一著「天上紅蓮」について書評を書いた。これは、少し前の白河法皇62歳、璋子14歳という途轍もない年齢差を超越した男女の愛の物語で、今回の「建礼門院 徳子」の場合も、後白河法皇と徳子には、28歳の年齢差があり、徳子が法皇に対して激しい恋心を燃やした時には、法皇は50歳代であった。
天上紅蓮の方は、夫の天皇を無視して法皇との愛に溺れて法皇の子を産むと言う話だが、建礼門院の方は、両方とも激しい恋心に焼き尽くされる思いでありながら、到頭、閨の交わりなく終わっている。
我々の年代には、実らなかった恋の思い出は切なくて、いつまでも甘酸っぱい思い出として生き続けるようで、好意を示して貰っておりながら、自分の不甲斐なさ故に応えられなかった、その程度なのだが、当人にとっては、小説の激しい恋物語よりも、もっと深刻だろうと思うのだが、どうであろうか。
私は、軍記物としての平家物語も好きだが、横笛と滝口入道、高倉帝と小督、静と義経、そして、祇王妓女仏たちの白拍子の話などなど、はかなく息づいていた男女の物語にも引かれており、これらのゆかりの嵯峨や嵐山、吉野なども随分歩いたのを思い出す。