
優雅なロングドレスの小柄で綺麗なおねえさんソル・ガベッタが大きなチェロを引っさげて登場したかと思うと、豪快にチェロを奏で始め、主客一体となって生き物のように動くチェロから素晴らしいエルガーの調べが奔流のようにほとばしりでる。
エルガーの故郷イングランドの美しい田園風景が、走馬灯のように、私の頭の中を駆け巡る。
交響曲はある程度普遍的なような気がするが、独奏楽器との協奏曲は、何故か、作曲家の生まれ育った風土を色濃く体現しているような気がしており、この朗々と流れ出るチェロの調べは、正に、四季折々に変化するイングランドの森や村を髣髴とさせる。何度もロンドンから、北に向かって車を走らせたあの頃が懐かしい。
繊細でどこか寂しげだが優雅なフルニエのチェロと違って、印象から想像できない様なソル・ガベッタの大らかでどこか豪快な感じの演奏がチェロの低音に上手く合っていて心地良い。
このエルガーの協奏曲は、ジャックリーヌ・デュ・プレが弾いて有名になり女性の演奏曲と言う感じのようだが、伸びやかで実に温かい人間味を感じさせるソル・ガベッタのエルガー・サウンドは、妖精のようにしなやかに抱え込んだチェロを実に流麗に歌わせ、伴奏に合わせて頭で拍子を取っている。
残念ながら、デュ・プレをフィラデルフィアで聴いたのはエルガーだったのか忘れてしまったが、やはり、この曲は、ロストロポーヴィッチやヨーヨーマには一寸違和感がある曲のような気がした。
ソル・ガベッタは、1981年に、ロシア系フランス人としてアルゼンチンのコルドバで生まれて、10歳でブエノスアイレスのコンクールで優勝したと言う。
チェリストであったトスカニーニが、エーリッヒ・クライバーの代役で指揮者としてデビューしたあのブエノスアイレスであり、イタリアやイギリスなどヨーロッパからの移民が多くて、殆どヨーロッパの国である。
ゲルバーやアルゲリッチなど素晴らしい音楽家を生んだ国だが、テアトロコロンの凄さが分かれば偉大な芸術家が生まれるのも当然だと頷ける。
感激した聴衆の大変な拍手に応えて、アンコールに、バスコス作曲の「チェロのための本より抜粋」と言う無伴奏の美しい曲を演奏した。初めて聞く曲だが、蚊の羽音のような弱音から入って、実に美しいチェロの旋律が会場を包み込み、再び、チェロのため息に似たような儚いサウンドで終わる
ところで、今回の定期公演最後のコンサートの呼び物は、新日本フィルが始めて作曲を委嘱して世界初演となったギリシャの作曲家アタナシア・ジャノウ作曲の誘惑をテーマにした「聴け、神秘なる季節へと誘惑する風を」である。
アルミンクのコンサートの時は何時でもプレトーク・セッションがあリ、今回も、作曲家のジャノウ女史が壇上に立ってアルミンクと曲について対話をしていた。
対話が終わる直前に会場に入ったので、彼女が非常に感激家でモチーフに強いパッションを感じる性質だとか、風の流れを感じて欲しいとか語っていたことだけしか記憶にないし、アルミンクはドイツ語で、ジャノウは、フランス語(?)で中に二人の日本人通訳が入っているので、良く分からずに終わってしまった。
肝心のジャノウの管弦楽曲だが、いつの間にか分からないうちに終わってしまったと言う感じだが、現代曲的な雰囲気ではなくしっかりと組み立てられたほんの15分の小曲で、違和感を感じさせないオーソドックスな曲であった。
イメージするのは、当然、ギリシャの春の風であろうが、私には、どこまでも晴れ渡った真っ青な空に光り輝いている古代ギリシャの大理石の廃墟や、その合間から顔を出している真っ赤なケシの花、そして、延々と続く荒れた大地などの風景だったのだが、これにギリシャ悲劇の舞台を重ねて想像を逞しくして聴いていた。
休憩後の最後の曲は、ベートーヴェンの「交響曲第4番 変ロ長調 作品60」。
毎年、大晦日にベートーヴェン交響曲全曲演奏会に出かけるので、一年に必ず一度は聞く曲だが、そんなに、しばしば、聴ける曲ではない。
シューマンが、「二人の北欧神話の巨人の間に挟まれたギリシャの乙女」と表現したと伝えられている曲だが、やはり、9曲のうち駄作を一曲も作曲しなかったというベートーヴェンであるから、この曲一曲でも単独に演奏されると聳えている。
来シーズンの最後もベートーヴェンの第2番でプログラムを閉じるようだが、アルミンクは、新日本フィルにベートーヴェンに挑戦させようとしているのかも知らない。
私の手元にあるのは、アバドのDVDとカラヤンのCDで両方ともベルリン・フィル,明日の日曜日に久しぶりに聴いてみようと思っている。
エルガーの故郷イングランドの美しい田園風景が、走馬灯のように、私の頭の中を駆け巡る。
交響曲はある程度普遍的なような気がするが、独奏楽器との協奏曲は、何故か、作曲家の生まれ育った風土を色濃く体現しているような気がしており、この朗々と流れ出るチェロの調べは、正に、四季折々に変化するイングランドの森や村を髣髴とさせる。何度もロンドンから、北に向かって車を走らせたあの頃が懐かしい。
繊細でどこか寂しげだが優雅なフルニエのチェロと違って、印象から想像できない様なソル・ガベッタの大らかでどこか豪快な感じの演奏がチェロの低音に上手く合っていて心地良い。
このエルガーの協奏曲は、ジャックリーヌ・デュ・プレが弾いて有名になり女性の演奏曲と言う感じのようだが、伸びやかで実に温かい人間味を感じさせるソル・ガベッタのエルガー・サウンドは、妖精のようにしなやかに抱え込んだチェロを実に流麗に歌わせ、伴奏に合わせて頭で拍子を取っている。
残念ながら、デュ・プレをフィラデルフィアで聴いたのはエルガーだったのか忘れてしまったが、やはり、この曲は、ロストロポーヴィッチやヨーヨーマには一寸違和感がある曲のような気がした。
ソル・ガベッタは、1981年に、ロシア系フランス人としてアルゼンチンのコルドバで生まれて、10歳でブエノスアイレスのコンクールで優勝したと言う。
チェリストであったトスカニーニが、エーリッヒ・クライバーの代役で指揮者としてデビューしたあのブエノスアイレスであり、イタリアやイギリスなどヨーロッパからの移民が多くて、殆どヨーロッパの国である。
ゲルバーやアルゲリッチなど素晴らしい音楽家を生んだ国だが、テアトロコロンの凄さが分かれば偉大な芸術家が生まれるのも当然だと頷ける。
感激した聴衆の大変な拍手に応えて、アンコールに、バスコス作曲の「チェロのための本より抜粋」と言う無伴奏の美しい曲を演奏した。初めて聞く曲だが、蚊の羽音のような弱音から入って、実に美しいチェロの旋律が会場を包み込み、再び、チェロのため息に似たような儚いサウンドで終わる
ところで、今回の定期公演最後のコンサートの呼び物は、新日本フィルが始めて作曲を委嘱して世界初演となったギリシャの作曲家アタナシア・ジャノウ作曲の誘惑をテーマにした「聴け、神秘なる季節へと誘惑する風を」である。
アルミンクのコンサートの時は何時でもプレトーク・セッションがあリ、今回も、作曲家のジャノウ女史が壇上に立ってアルミンクと曲について対話をしていた。
対話が終わる直前に会場に入ったので、彼女が非常に感激家でモチーフに強いパッションを感じる性質だとか、風の流れを感じて欲しいとか語っていたことだけしか記憶にないし、アルミンクはドイツ語で、ジャノウは、フランス語(?)で中に二人の日本人通訳が入っているので、良く分からずに終わってしまった。
肝心のジャノウの管弦楽曲だが、いつの間にか分からないうちに終わってしまったと言う感じだが、現代曲的な雰囲気ではなくしっかりと組み立てられたほんの15分の小曲で、違和感を感じさせないオーソドックスな曲であった。
イメージするのは、当然、ギリシャの春の風であろうが、私には、どこまでも晴れ渡った真っ青な空に光り輝いている古代ギリシャの大理石の廃墟や、その合間から顔を出している真っ赤なケシの花、そして、延々と続く荒れた大地などの風景だったのだが、これにギリシャ悲劇の舞台を重ねて想像を逞しくして聴いていた。
休憩後の最後の曲は、ベートーヴェンの「交響曲第4番 変ロ長調 作品60」。
毎年、大晦日にベートーヴェン交響曲全曲演奏会に出かけるので、一年に必ず一度は聞く曲だが、そんなに、しばしば、聴ける曲ではない。
シューマンが、「二人の北欧神話の巨人の間に挟まれたギリシャの乙女」と表現したと伝えられている曲だが、やはり、9曲のうち駄作を一曲も作曲しなかったというベートーヴェンであるから、この曲一曲でも単独に演奏されると聳えている。
来シーズンの最後もベートーヴェンの第2番でプログラムを閉じるようだが、アルミンクは、新日本フィルにベートーヴェンに挑戦させようとしているのかも知らない。
私の手元にあるのは、アバドのDVDとカラヤンのCDで両方ともベルリン・フィル,明日の日曜日に久しぶりに聴いてみようと思っている。