
日本の教育との大きな差の第二は、「独創性を鼓舞する教育と知識蓄積を重視する教育との差」である。
ご存知の様に、日本の教育は、如何に教えられたことを沢山覚えて正確に回答するか、この能力に懸かっている。
親友が今、中小企業診断士の受験で講習会を受けているが、米国の経営論で明らかに間違っている理論を論破したら、講師は、「正解は、これです。こう答えなければ点はもらえません。試験に通ってから、そんなことは言いなさい。」と言われたと言う。
ノーベル賞受賞者の多い某帝大系の大学では、さすが、こう言うことはなく、試験でも、自由な発想をよしとして、自由奔放に勉強させてくれたが、これなどは例外で、とにかく、日本の教育は、先生の教えたことを、寸分違わずに出来るだけ正確に答えないと、良い点は貰えない。
一方、欧米は全く違う。先生の教えたことを、そのまま答えることは、スタートで、それを元にして自分が何をどう考えたかが重視される。
長女が、アムステルダムのインターナショナル・スクール(高校)の授業の課題で、エンサイクロペディア・ブリタニカやアメリカーナ等参考書を調べて中間報告をしたら、先生に「それでは、貴方自身どう考えるのか、それを書きなさい。」と言われて振り出しに戻ってしまった。
アメリカのビジネス・スクールでも、別な考え方はないか、と何度も教授に鼓舞され、極端な場合、自分を売り込むために、全く貧弱な理論にもならない理論を、滔々と打つ学生もいたが、とにかく、ある課題を元に、授業がドンドン展開して行き、問題意識を拡大させてゆく。
奇想天外と言わないまでも、ユニークで独創的なアイディアを育む教育の土壌の違いを感じた。ビジネス・スクールで、それまでに慣れ親しんだ日本の教育からの頭の切り替えに戸惑いを感じ、実際には、この方が遥かに難しいことを知った。
このように教育面では、既成観念に囚われない新発想なり新しい潮流に価値を求めようとする意識は、欧米の方があるように思える。
この欧米との差が、良いのか悪いのか、価値基準に拠って判断の分かれるところだが、今、文化と文明の十字路に来ている日本の経済社会に求められているのは、豊かな発想と独創性ではないであろうか。
ご存知の様に、日本の教育は、如何に教えられたことを沢山覚えて正確に回答するか、この能力に懸かっている。
親友が今、中小企業診断士の受験で講習会を受けているが、米国の経営論で明らかに間違っている理論を論破したら、講師は、「正解は、これです。こう答えなければ点はもらえません。試験に通ってから、そんなことは言いなさい。」と言われたと言う。
ノーベル賞受賞者の多い某帝大系の大学では、さすが、こう言うことはなく、試験でも、自由な発想をよしとして、自由奔放に勉強させてくれたが、これなどは例外で、とにかく、日本の教育は、先生の教えたことを、寸分違わずに出来るだけ正確に答えないと、良い点は貰えない。
一方、欧米は全く違う。先生の教えたことを、そのまま答えることは、スタートで、それを元にして自分が何をどう考えたかが重視される。
長女が、アムステルダムのインターナショナル・スクール(高校)の授業の課題で、エンサイクロペディア・ブリタニカやアメリカーナ等参考書を調べて中間報告をしたら、先生に「それでは、貴方自身どう考えるのか、それを書きなさい。」と言われて振り出しに戻ってしまった。
アメリカのビジネス・スクールでも、別な考え方はないか、と何度も教授に鼓舞され、極端な場合、自分を売り込むために、全く貧弱な理論にもならない理論を、滔々と打つ学生もいたが、とにかく、ある課題を元に、授業がドンドン展開して行き、問題意識を拡大させてゆく。
奇想天外と言わないまでも、ユニークで独創的なアイディアを育む教育の土壌の違いを感じた。ビジネス・スクールで、それまでに慣れ親しんだ日本の教育からの頭の切り替えに戸惑いを感じ、実際には、この方が遥かに難しいことを知った。
このように教育面では、既成観念に囚われない新発想なり新しい潮流に価値を求めようとする意識は、欧米の方があるように思える。
この欧米との差が、良いのか悪いのか、価値基準に拠って判断の分かれるところだが、今、文化と文明の十字路に来ている日本の経済社会に求められているのは、豊かな発想と独創性ではないであろうか。