熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

日本の五重塔と西欧の教会の尖塔

2016年09月11日 | 学問・文化・芸術
   宗左近の「美のなかの美」を読んでいて、興味深い文章に出合った。
   この文章は、もう40年以上も前にかかれた美についての随想集で、その内の「凍った音楽」と言う章で、このタイトル通り、和辻哲郎の薬師寺三重塔の東塔を暗示させるように、塔と教会の尖塔との話である。
   
   
   
   
   

   この「凍った音楽」の章は、まず、冒頭で、
   日本の浮世絵や詩歌など江戸までの文芸などでは、殆ど、「星」が描かれたことはなく、写生はなかった。西洋の自然の見方が明治にはいって、美術で言えば外光派、文学で言えば自然主義、この二つを通して導入されて初めて、写生を日本が取りいれた。
   ところが、これ程の異文化異文明に遭遇した筈の島崎藤村はパリで、ドイツやイギリスに渡った鴎外や漱石が、石と木でできた高層の近代建築がびっしりと並び築き上げられた街の景観が、日本には全くなかったにも拘らず、少しも驚きの言葉を発していない。大変な驚きである。
   これは、日本人の感性と精神の歴史と伝統が、垂直性に弱かった、垂直願望を持ったことがなかった、そうだとしか思えない。と述べている。

   更に、これは、日本人が農耕民族で、地面べったりで、根深く局所的。移動性がない。大地を駆け巡らない。山や谷を上下して転進しないので、展望感覚や垂直運動意識の芽生えも成長もない。
   狩猟民族である西洋人は、こういう日本人と正反対である。
   この世界の捉え方が、そっくり宗教の中に現れている。
   キリスト教においては、天国は文字通り天、大空の上にある。ところが、仏教においては、極楽は西方浄土、遠く遠く横に移動した西方の十万億土にある。前者は垂直の遠方、後者は水平の遠方。この思想は、直ちに宗教建築を支配する。
   キリスト教の教会の内部には、必ず高い円天井があり、神に仕える天使や使徒などが天空を舞う絵姿や荘厳な風景で荘厳された天国が描かれていて、如何に西洋人が天国を実体視していたかが良く分かる。けれども、日本の寺院の内部には、そのようなものはなく、ただ水平にひらたい板の天井があるだけである。と言うのである。

   さて、両方とも、同じように高い塔や尖塔があるではないか、どう違うのかと言う点について、その違いの比較文化論を展開しているのである。
   第一の相違点は、キリスト教の塔は、教会の本堂の一部で、建物の上部に建つ付属物だが、日本の塔は、五重塔も三重塔も多宝塔も塔は独立物である。日本の塔の基部には仏舎利が納められていて、釈尊に対する尊崇と畏敬が形をとったものだが、教会の塔は、キリストを地上につかわされて神のいます天、それに対する上昇願望が形をとったものである。
   第二の相違点は、キリスト教の塔には、ゴシックを筆頭に、明らかに垂直上昇の運動感があり、教会の建物がスッと上昇しており、重くて鈍い量感が見事に消えている。日本の塔にも、垂直感がないわけではないが、垂直を殺す運動が塔の枢要な部分に設えられている。三重、五重と言う重なった階層が横に翼を伸ばして垂直性に拮抗する水平性を主張している。誇張した比喩を弄すれば、ゴシックの塔が噴射ロケットであり、それに対して法隆寺の五重塔は翼に風をはらんで舞い上がろうとする鳥である。
   第三の相違点は、西洋の塔には、頂上近くに視座がある。そこに上って、牧師が一歩高まって天にまします神に祈りをささげたり、俗界を見下ろす、すなわち、地上を、ひいては地球を、対象化する、または相対化する視座がある。ところが、日本の塔には、そのようなものがない。
   

   さて、日本の塔について言いたいのは、ここだと、他に2人の男を持つ勝手気ままな放埓な女と奈良に旅に出た時に、「こんな愛情など乗り越えてみせるぞ!」と、何を思ったのか、興福寺の五重塔に駆け寄って、扉を開いて内部の階段をよろよろ上って、梯子をあと一つで五層と言うところで呼び戻されて、「あの女なんか、どっちでも良いんだ。もう」と思って降りた。と、その時の印象を語る。
  その階段だが、想像とは違って、勾配が急で、二層目からは、左官屋が使う粗末な木の梯子と同じで、折れて曲がって、曲がって折れて、上に行くほど窮屈になって、木の作りもやわになり、各階層には部屋もなければ腰を下ろせる調度品もなく、梯子を上下に還流させるためのものだけであった。

   要するに、日本の塔の階段を上るのは、修理のための大工や警備員くらいで、決して、僧侶ではない。日本の塔は、教会の様な視座では、あり得ないと言うことである。
   それぞれ祈りが形をとったのが塔であり芸術品だが、日本の塔は、人間の日常の役に立つ代物ではなく、仰ぎ見ていればそれで足りる純粋芸術品であって、教会の塔は、牧師が上って世界をあらたに対象化しなおすことが出る道具であって、実用芸術品である。
   西洋の教会の塔は、高い山の尖った峰や鋭い岩に似て具象的であるが。日本の寺院の塔は、現実の世界の何物にも似ていない。両方とも、人間の日常生活と異質なのだが、日本の塔の方が、断絶度がうすくて、脅かしも持たず、柔らかな透明度を与えると言う。

   ところで、興福寺の五重塔は、階段だけかもしれないが、スケールにもよるのであろうが、法隆寺の五重塔の一階には仏像などが安置されており、このような五重塔が普通であろうし、装飾されている空間のある五重塔もあるし、二階くらいには空間がある場合もある。
   いずれにしろ、本来はインドのお釈迦さまのお墓ストゥーパ(仏舎利塔)であるから、基部に仏舎利が納められておれば、それで完結するので、美しけれ美しいほど良いのであろうと思う。
   私は、国宝の五重塔は、羽黒山の塔以外は見ており、西欧の教会も結構見て回っており、宗左近の説には、ほぼ、納得している。

   ケルンの大聖堂などは、入り口から見上げると、空高く聳え立っていて途轍もない威容であり、内部に入ると、「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」を思わせる雰囲気で、また、北欧の木製のシックで家庭的な雰囲気の教会やエキゾチックなギリシャの教会を見れば、全く雰囲気は違ってくるし、一概に、西洋の教会とは、と言えない。
   日本の寺院でも、シンプルなモノばかりではなく、華麗に装飾された天井画や壁絵、壁面を飛翔する飛天や菩薩像などで荘厳された寺院もあって、洋の東西を問わず、宗教の場として相似た雰囲気を創り出してもいるのである。
   
   Wadaフォトより借用

   宗左近は、仏文学者であるから、東西文化に詳しいのであろう。
   昔、学内の講演で、桑原武夫の話を聞いたことがあるが、実に含蓄があり教えられることが多かったのを思い出す。
   この宗左近の40年前の本を読んでも、少しも時代を感じさせずに、縦横無尽に、芸術文化を語り、美を語っていて、読んでいて、楽しい本である。
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