
何回か東京と大阪を飛んだくらいで飛行機など殆ど縁のなかった私が、30年ほど前の夏に、フィラデルフィアで学ぶ為に、初めて、JAL便でサンフランシスコに向かった。
まだ、JAL機の中は日本だったが、先輩のいるシカゴまでは、全く日本人のいないユナイテッド便であった。
シカゴについて初めて異国での夜を迎えたが、夏時間を採用していて夜の10時になっても明るかったし、周りの雰囲気も全く違っていて、やっと異国に来てしまったんだと言う気になった。
フィラデルフィア空港では、アメリカ人のホストファミリー夫妻が出迎えてくれた。
西も東も分からないし、生活感覚の無さは勿論だし、英語も怪しい、私の長い海外生活の始まりである。
大学に入ったときに、覚えた歌の中に、次のような歌があった。
「向こう通るは女学生、
三人揃ったその中で、
一番ビューティが気に入った。
マイネフラウにするならば、俺もこれから勉強して、
ロンドン、パリを股にかけ、
フィラデルフィアの大学を優等で卒業した時にゃ、
彼女は他人の妻だった。・・・」
なんてアホナ歌を歌うのかと思って歌っていたが、後年、優等ではなかったが、実際に、フィラデルフィアの大学院を卒業して、ロンドンとパリを股にかけて仕事をすることになったのである。
2年弱のアメリカ生活であったが、ワシントンからボストンくらいの間の旅は別として、3回大きな旅をした。
最初は、大学の同好会が主催したフロリダへのバス旅行で、雪の舞うフィラデルフィアを離れて、南部諸州を通り抜けて、常夏のフロリダのマイアミで新年を迎えたのである。
途中、ワニの蠢くジャングルの国立公園やオルランドのディズニーワールドで遊んだりしたが、マイアミで、延々と続く映画のセットのような豪華な別荘を船の中から眺めながら、アメリカの途轍もない富に圧倒されてしまった。
次の旅は、翌年の夏休みに、大学院の友人と二人で、中西部のセントルイスまで飛行機で飛び、そこからロッキーを越えてグランドキャニオン経てラスヴェガスにレンターカーで向かった。
私は運転が出来なかったのでナビゲーターであった。都会ではホテルに泊まったが、道中の田舎ではモーテルに泊まった。
この友人・運転手は、今、東京のトップクラスのホテルの社長をしている。
先住民インディオの居住跡が残っているメサ・ヴェルデ国立公園や西部劇で良く出てくるハット型の岩のあるモニュメント・バレーにも立ちよった。
アメリカ・インディアンの子孫が、貧しい荒野に裸馬に乗って移動しているのを見て、映画と少しも変わっていないのにショックを受けた。
アメリカのフロンティア・スピリトに疑問を感じたのはこの時であった。
壮大なグランドキャニオンの刻々と走馬灯のように色が変わってゆく夕暮れの美しさに感動しながら長い間見入っていた、そして、灼熱地獄に蜃気楼の不夜城のように輝くラスベガスの壮大さに、度肝を抜かれる思いであった。
友は、友人の待つロスに向かったが、私は1人でイエローストーン国立公園に行って、そこで雄大な自然の中で数日を過ごした。
最後の旅は、2年目の夏に合流した家族を連れてのヨーロッパ旅であった。
ヨーロッパからの留学生が多いので、彼らが里帰りの為にパリ往復のパンナム機をチャーターしたので、それに便乗したのである。
貧しい学生生活であったが、冬のボーナスを叩けば、旅が出来た。
ヨーロッパ内は、3週間のユーレイルパスを買って列車で移動した。
パリからアルプスを越えてイタリアに入った。ナポリまで行ってユーターンしてウイーンに入り、スイスのジュネーブを経てパリに帰った長い旅であった。
フィラデルフィアについて、大学の家族寮に帰った時に、本当に家に帰ってホッとした気持ちになった。フィラデルフィアが故郷になっていたのである。
その後、何度も仕事でアメリカを訪問することになるが、この学生としての2年間は私にとって極めて重要な経験であった。
私は、良く批判もするが、正直な所、私を世界に目覚めさせてくれたアメリカには、特別な感慨を持っており、一宿一飯の恩義以上のものを感じている。
まだ、JAL機の中は日本だったが、先輩のいるシカゴまでは、全く日本人のいないユナイテッド便であった。
シカゴについて初めて異国での夜を迎えたが、夏時間を採用していて夜の10時になっても明るかったし、周りの雰囲気も全く違っていて、やっと異国に来てしまったんだと言う気になった。
フィラデルフィア空港では、アメリカ人のホストファミリー夫妻が出迎えてくれた。
西も東も分からないし、生活感覚の無さは勿論だし、英語も怪しい、私の長い海外生活の始まりである。
大学に入ったときに、覚えた歌の中に、次のような歌があった。
「向こう通るは女学生、
三人揃ったその中で、
一番ビューティが気に入った。
マイネフラウにするならば、俺もこれから勉強して、
ロンドン、パリを股にかけ、
フィラデルフィアの大学を優等で卒業した時にゃ、
彼女は他人の妻だった。・・・」
なんてアホナ歌を歌うのかと思って歌っていたが、後年、優等ではなかったが、実際に、フィラデルフィアの大学院を卒業して、ロンドンとパリを股にかけて仕事をすることになったのである。
2年弱のアメリカ生活であったが、ワシントンからボストンくらいの間の旅は別として、3回大きな旅をした。
最初は、大学の同好会が主催したフロリダへのバス旅行で、雪の舞うフィラデルフィアを離れて、南部諸州を通り抜けて、常夏のフロリダのマイアミで新年を迎えたのである。
途中、ワニの蠢くジャングルの国立公園やオルランドのディズニーワールドで遊んだりしたが、マイアミで、延々と続く映画のセットのような豪華な別荘を船の中から眺めながら、アメリカの途轍もない富に圧倒されてしまった。
次の旅は、翌年の夏休みに、大学院の友人と二人で、中西部のセントルイスまで飛行機で飛び、そこからロッキーを越えてグランドキャニオン経てラスヴェガスにレンターカーで向かった。
私は運転が出来なかったのでナビゲーターであった。都会ではホテルに泊まったが、道中の田舎ではモーテルに泊まった。
この友人・運転手は、今、東京のトップクラスのホテルの社長をしている。
先住民インディオの居住跡が残っているメサ・ヴェルデ国立公園や西部劇で良く出てくるハット型の岩のあるモニュメント・バレーにも立ちよった。
アメリカ・インディアンの子孫が、貧しい荒野に裸馬に乗って移動しているのを見て、映画と少しも変わっていないのにショックを受けた。
アメリカのフロンティア・スピリトに疑問を感じたのはこの時であった。
壮大なグランドキャニオンの刻々と走馬灯のように色が変わってゆく夕暮れの美しさに感動しながら長い間見入っていた、そして、灼熱地獄に蜃気楼の不夜城のように輝くラスベガスの壮大さに、度肝を抜かれる思いであった。
友は、友人の待つロスに向かったが、私は1人でイエローストーン国立公園に行って、そこで雄大な自然の中で数日を過ごした。
最後の旅は、2年目の夏に合流した家族を連れてのヨーロッパ旅であった。
ヨーロッパからの留学生が多いので、彼らが里帰りの為にパリ往復のパンナム機をチャーターしたので、それに便乗したのである。
貧しい学生生活であったが、冬のボーナスを叩けば、旅が出来た。
ヨーロッパ内は、3週間のユーレイルパスを買って列車で移動した。
パリからアルプスを越えてイタリアに入った。ナポリまで行ってユーターンしてウイーンに入り、スイスのジュネーブを経てパリに帰った長い旅であった。
フィラデルフィアについて、大学の家族寮に帰った時に、本当に家に帰ってホッとした気持ちになった。フィラデルフィアが故郷になっていたのである。
その後、何度も仕事でアメリカを訪問することになるが、この学生としての2年間は私にとって極めて重要な経験であった。
私は、良く批判もするが、正直な所、私を世界に目覚めさせてくれたアメリカには、特別な感慨を持っており、一宿一飯の恩義以上のものを感じている。