熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

人類の識字率アップはルターのお陰

2025年01月30日 | 学問・文化・芸術
   先に、ピケティとサンデルの平等論争で、高等教育の機会格差が問題であることを論じた。一寸視点は違うのだが、人知・教養の面から、ジョセフ・ヘンリック (著)「WEIRD(ウィアード)「現代人」の奇妙な心理」を読んでいて、文化文明を一気に引き上げた「識字率」が、何時どのような理由でアップしたのか、興味深い記述に出会ったので、考えてみたいと思った。
                    
   言語の表記体系が、強大な勢力を誇る古代帝国などから起源したのは、5000年ほど前からだが、しかし、比較的最近まで、どこの社会でも、識字者が人口の10%超えることは決してなく、識字率はそれよりはるかに低いのが普通であった。
    ところが、16世紀に突如、まるで流行病のごとく、読み書き能力が西ヨーロッパ中に広がり始めた。

    それは、1517年のハロウィーン直後に、ドイツのヴィッテンベルクで、マルティン・ルターの「95か条の論題」が発端となって宗教改革が始まった。これが引き金を引いたのである。
    ルターのプロテスタンティズムの根底にあるのは、一人一人が神やイエス・キリストと個人的関係を結ぶべきだという考えで、それを成し遂げるためには、男も女も、独力で、神聖なる書物――聖書――を読んで、その内容を理解する必要があり、専門家とされる人や聖職者の権威、あるいは、教会のような制度的権威にたよりきるわけには行かなくなった。
   この「聖書のみ」と言う教理は、誰もが皆、聖書を読む力を身につけなくてはならないことを意味していた。

   そのためには、聖書を、それぞれの言語に翻訳する必要があり、ルターによるドイツ語訳聖書は、たちまちのうちに広く普及するのだが、ルターは聖書の翻訳のみならず、識字能力や学校教育の重要性についても説くようになった。当時、読み書きできたのはドイツ語使用人口の1%に過ぎなかったので、ザクセン選帝侯など統治者たちに、読み書きの指導と学校管理の責任を負うように圧力をかけるなど、識字率向上に奔走した。のである。

   プロテスタンティズムと識字能力や正規教育との歴史的関連性は、十分に証明されている。その早期普及を促したのは、物質的な自己利益や経済機会がその要になっていたのではなく、宗教的信念であった。
   識字率や教育に対するプロテスタントの貢献の高さは、カトリックの布教活動との影響の違いの中に、今日でも見て取れ、カトリックの布教地域の人々の識字率や学校教育の普及率は、プロテスタント地域よりもかなり低い。と言う。

   さて、先日の学歴不平等の問題だが、
   学歴格差が深刻で、学歴が高いほど、社会のトップ中枢に近づいて権力構造に昇りつめる欧米とは違って、学歴社会だと言いながらも、大学院卒の博士や修士がそれなりに評価されずに軽視され、大卒がトップを占める日本では、事情が大分違っている。欧米システムの、大学は教養、大学院は高度な学術・専門知識技術と段階的に高度化しているのとは違って、高校も大学も同じ教養教育をして僅かに専門知識を詰め込んで企業戦士のスペアパーツを作り上げたとする日本の大学、この教育システムが特異なのかも知れない。

   さて、欧米も日本も、トップ大学合格如何は、親の財力経済力に掛かっていると言う。東大生の親は一部上場企業の部長以上だと言われたことがあるが、我々の時のように貧しい地方の俊英が食うや食わずで上京したのとは、時代が違う。
   まず、今では、東大を目指すためには、トップクラスの中高一貫校に入学しなければならないのだが、そのためには小学校の中学年から著名な受験専門の塾に通い詰めて勉強する必要がある。塾生の勉強を毎日フォローしなければならないし、大学受験までは、膨大な出費が必要であり、これに堪え得る知力と財力を備えた親はそれほど多くはない。

   ルターの時代は、幸せになるためには、読み書きができて聖書を読めることが必須であったが、今では、何が必要なのであろうか。
                                  
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