熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

三月大歌舞伎・・・天神さんになった片岡仁左衛門

2006年03月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   3月の歌舞伎座は、昼の部の最後に、十三世片岡仁左衛門の十三回忌追善狂言「菅原伝授手習鑑の道明寺」がかかっていて、現世片岡仁左衛門が出演する唯一の舞台なので、大変期待して出かけた。
   11年前に、片岡孝夫の時代にこの「道明寺」の舞台を観ており、主な役者は殆ど同じでかなり鮮明に覚えているのだが、今回の道明寺は正に絶品で、片岡仁左衛門の新境地ここに極まれりと言うところであろうか。
   伝説的な名声を博した父仁左衛門は3回管丞相を演じているが、現世も3回目で、最近20年以上は、松嶋屋のお家の芸となっていて、崇高で輝くような舞台は余人を持って代え難しである。

   小松成美さんの「仁左衛門恋し」に、仁左衛門とのインタビューが収録されていて、仁左衛門の人となり芸術が余す所なく語られていて興味深いが、この中でも歌舞伎座のプログラムにも書いてあるが、仁左衛門が道明寺の管丞相を演じる時には、「天神さまのお軸を床の間に掛け、毎日拝んでから舞台に臨む様にしていて、楽屋でも心静かに過ごし、身も心も天神さまにお預けするような気持ちでつとめる」のだと言う。

   また、「生きている間は、罪に落とされても一切弁解せず勅命に従って誠実に生きた人なので、そう言う人間としての丞相さまを大事につとめたいと思っています」とも言っている。

   菅原道真が天神さまとなったのは、祟りを恐れて怨霊を鎮める為に後に祭り上げられた日本の神道の独特の由縁であり、偉大な人物であったのは事実としても、道明寺の時点で神性があった訳でもないので、仁左衛門の指摘する様に人間・管丞相を誠実に演じるのが本当であろう。
   この道明寺の重要な主題の一つは、管丞相と娘苅屋姫との別れであり、ここで実に人間的な親娘の情愛の機微を表出できるかが重要なポイントである。
セーブにセーブを重ねて極限に切り詰めて昇華した演技で仁左衛門はそれを表現しており、それに、管丞相の佇まいに崇高とも言うべき神性を加えることによって独特な舞台を作り上げている。

   丞相が大宰府へ出立する直前に、苅屋姫の実母覚寿が餞別として伏籠に掛けた小袖を差し出すと、その中に苅屋姫が潜んでいることを知った丞相が、身柄を覚寿に預け置くと言うと伏籠の中の苅屋姫が泣き咽ぶ。
「鳴けばこそ別れを急げ鶏の音の・・・」嘆き悲しむ仁左衛門丞相が瞼を閉じて中空を仰ぐ、白い涙がツーと落ちる。
   娘に目を合わさないようにして門口に立つが振り返って戻り、柱に寄り添って忍び泣く娘の顔を池の水に映して覗き見る。
   咽び泣きながら縋りつく娘を静かに振り払うが、堪り兼ねて持った扇で顔を隠して忍び泣き、なおも縋りつく娘に袂の袖から扇を餞別に残す。
   最後は、木戸を出るが、輿に乗らずに静かに花道の方に歩み、すっぽんの位置に立ち止まり感に堪えずに後を振り返えり見るが、意を決して花道を去って行く。
   後で、富十郎の判官代輝国が見送るが、舞台の後半は、この風格のある富十郎が舞台を支えており流石の演技である。

   仁左衛門の身代わりとなる木像の管丞相と実際の管丞相との役造りが実に際立っていて絶妙である。
   ゼンマイ仕掛けのような人形の動きで木像を演じるが、静かに一歩ずつ歩を重ねながら直線に歩き、曲る所では丁寧に何度も同じ位置で小刻みに動いて方向を定めて歩き始め、顔の表情は瞬きさえせずに一切変化させずに直立不動を通し続ける。
しかし、決してぎこちなく振舞うのではなく、不思議にも流れるように美しい。
   実際の管丞相は、極めて人間的で僅かな表情の変化で万感の思いを吐露して表現するあたりは流石で、心で泣いていても気品と崇高ささえ感じさせる佇まいは一体何処から来るのか。
   人間・管丞相を演じながら、神の境地・天神さまになっている、これが、仁左衛門の道明寺である。

   仁左衛門は、92年に病に倒れ、234日の闘病生活をおくり一時死線を彷徨った経験を持つ。
   「死については恐怖や嫌悪感はないし、この世にだけ執着して良いのか疑問を持っており、現世とあの世のバランスがある。輪廻転生があるなら死ぬのも当然で、あの時死んでもよいと思った」、と言う。
   また、「表面を形作る役者と肝から役になりきる役者と二種類あるが、自分は後者でひたすら役に邁進するタイプである。
   年齢とともにその傾向が強くなってきて、大きなお役を頂くと一つの役が終わるとぐったりとしてしまい、最近では一つの役に集中したい」とも言っている。
   この一期一会に全神経と魂を投入して打ち込み舞台をつとめる、この鮮烈な役者魂が仁左衛門の至芸のよって立つところであろう。

   ところで、子息孝太郎の苅屋姫は、松嶋屋全体のの薫陶を受け品と情の綯交ぜを実に上手く表現していて仁左衛門をサポートしている。
   芝翫の覚寿は、これだけ品格があって男勝りの気丈夫さと慈愛・情愛豊かな肌理細かさを演じられる歌舞伎役者は他にいる筈がない。
前回と比べて、大分象徴的な演技で表現するようになった気がしたが、芸の深化であろう、とにかく、管丞相の品格と覚寿の品格がこの道明寺を支えているが、やはり、役者が揃わないと打てないのか比較的舞台が少なくて、この場合も、仁左衛門と芝翫あっての道明寺であろう。それに前述した富十郎。
   立田の前の片岡秀太郎は、このように格があり筋を通す気品のある女房役も上手い。
   特筆すべきは、宿禰太郎の段四郎で、最近出番が多いが、このような一寸とぼけた悪役が一番向いているようで存在感十分であった。
   奴宅内の歌六もコミカルな演技が実に板についていて面白い。
   とにかく、役者がこれだけ揃っての道明寺、十三代目仁左衛門の素晴しい追善供養の舞台となった。
   
   


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