8曲の能の女を主人公にした「平安の恋」の物語で、能の詞章を分かり易い現代訳のストーリーにして、その後、そのシテなりツレなどの女の立場から、本音の女心を語ると言う、非常に面白い本である。
杉谷みどりさんが、すべて文章を書いて、プロの立場から、観世清和宗家が、監修して出来上がった本で、はじめにで、宗家は、読者に、ここに登場する八人の女性に能舞台で会うことを願っている。
さて、能の詞章は古語でもあり分かり難いのだが、若い女性の読者に語り掛けるように書かれているので、臨場感もあり、女性の視線からの物語展開で、そこに登場する女性主人公が、どう言う思いで、自分の運命なり登場人物との関係などを思っているのかが垣間見えて興味深い。
そして、その後に、件の女性が、後日談のような形で心情を吐露しているので、著者が、どのような思いで、この能を見ているのかのみならず、私から言えば、微妙な女心が見え隠れしていて面白かった。
選ばれた能は、次の8曲。「道成寺」「通小町」「井筒」「砧」「羽衣」「芦刈」「葵上」「野宮」
必ずしも、主人公は、シテではなく、「通小町」はツレの小町だし、「砧」は、ツレの夕霧、
源氏物語をテーマにした「葵上」と「野宮」のシテは、六条御息所だが、「葵上」では舞台にも登場しない葵上に語らせているので、要するに、8人の女の物語なのである。
「道成寺」では、白拍子と毒蛇として登場する「あの少女」は、
自分同様恋心さえ知らない修行僧の「恋心」と言う心の扉を開きたい一心で、これでもかこれでもかと女になって毒蛇になったのだと言う。父も少女も修行僧に恋をしたのだと言うのが面白い。
「通小町」は、美しさ故に自他ともに誤解を生み、素直に愛を受け取れず、人を愛することも知らずに逝った小野小町が、地獄に落ちて、深草の少将に恋に落ちると言う述懐。
「井筒」は、在原業平と紀有常の女の夫婦物語だが、浮気男を夜道を心配して、お気をつけてと歌を詠んで送り出す出来た女房が、実は、嫉妬に狂って殺してやりたいと思っていたと言う話。
「砧」は、芦屋の某が訴訟に都に上っていて長く帰ってこなかったので奥方が心を病んで逝くと言う話で、下種の勘繰りで、ツレ侍女夕霧を、妾代わりに京都へ伴ったと思っていたのだが、この述懐では、
当時夕霧には、恋人がいたが留守中に浮気して詫びに京都まで来たのだが、その腹いせに、堅物の主人を誘惑しようとしたが逆に怒られて、奥方への帰国遅延報告に追い返されたと言うのが面白い。
「羽衣」は、世界各地にある伝説なり説話だが、天女が羽衣を取られて帰れず漁師の妻となって・・・と言ったバリエーションがあって面白いのだが、この能のワキ漁夫 白龍は、非常に正直で心優しく、すんなりと羽衣を返し、羽衣を先に返せば逃げるであろうと言ったら「疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」と言われて、恐縮すると言う好人物である。あの時、羽衣を奪われて、そんな白龍の優しさに包まれて幸せな人生を送るのも悪くなかったかもしれないとちょっぴり恋心を覗かせるのも、平安の恋であろうか。
他の能は、すべて鑑賞しているのだが、この「芦刈」は、観ていないので、何とも言えない。夫がリストラされて赤貧芋を洗うがごとしとなった夫婦が、分かれて自活しどちらかが成功したら再び会おうとする話で、キャリアウーマンとなって成功した妻が、芦売りに身を落とした極貧の夫を探して、逃げ隠れする夫とよりを戻すと言う話。現在でもある話で切ない。
「葵上」では、タイトルロールで重要なキャラクターでありながら、この能には、葵上は、正先に置かれた小袖が象徴して登場しない。
葵上は、六条御息所に同情していて、自分同様に、新しくて、ピカピカ輝いていて、流行の最先端で、皆の人気者で、そんな飾り物が嬉しかったのを、恋と間違えた、愛する人を間違えたのだと言って慰めている。
正妻葵上も六条御息も年上姉さん女房と言う位置づけだが、若年の悪ガキにしか過ぎない光源氏を、何故、紫式部はあれほど理想的に描いたのか分からないが、私から見れば、見上げるような素晴らしい女性たちが振り回されたのである。
「野宮」も、六条御息所をシテにした能だが、斎宮として伊勢に赴く娘に同行する途中の仮住まいである嵯峨の野宮が舞台。
この野宮を訪れた光源氏との再会と、恋に燃えた二人だけの思い出に生きたいと願う心の葛藤が、老いの思いが忍び寄り悲しい。
とにかく、この本、軽いノリだが、軽妙なタッチが、一服の清涼剤である。
杉谷みどりさんが、すべて文章を書いて、プロの立場から、観世清和宗家が、監修して出来上がった本で、はじめにで、宗家は、読者に、ここに登場する八人の女性に能舞台で会うことを願っている。
さて、能の詞章は古語でもあり分かり難いのだが、若い女性の読者に語り掛けるように書かれているので、臨場感もあり、女性の視線からの物語展開で、そこに登場する女性主人公が、どう言う思いで、自分の運命なり登場人物との関係などを思っているのかが垣間見えて興味深い。
そして、その後に、件の女性が、後日談のような形で心情を吐露しているので、著者が、どのような思いで、この能を見ているのかのみならず、私から言えば、微妙な女心が見え隠れしていて面白かった。
選ばれた能は、次の8曲。「道成寺」「通小町」「井筒」「砧」「羽衣」「芦刈」「葵上」「野宮」
必ずしも、主人公は、シテではなく、「通小町」はツレの小町だし、「砧」は、ツレの夕霧、
源氏物語をテーマにした「葵上」と「野宮」のシテは、六条御息所だが、「葵上」では舞台にも登場しない葵上に語らせているので、要するに、8人の女の物語なのである。
「道成寺」では、白拍子と毒蛇として登場する「あの少女」は、
自分同様恋心さえ知らない修行僧の「恋心」と言う心の扉を開きたい一心で、これでもかこれでもかと女になって毒蛇になったのだと言う。父も少女も修行僧に恋をしたのだと言うのが面白い。
「通小町」は、美しさ故に自他ともに誤解を生み、素直に愛を受け取れず、人を愛することも知らずに逝った小野小町が、地獄に落ちて、深草の少将に恋に落ちると言う述懐。
「井筒」は、在原業平と紀有常の女の夫婦物語だが、浮気男を夜道を心配して、お気をつけてと歌を詠んで送り出す出来た女房が、実は、嫉妬に狂って殺してやりたいと思っていたと言う話。
「砧」は、芦屋の某が訴訟に都に上っていて長く帰ってこなかったので奥方が心を病んで逝くと言う話で、下種の勘繰りで、ツレ侍女夕霧を、妾代わりに京都へ伴ったと思っていたのだが、この述懐では、
当時夕霧には、恋人がいたが留守中に浮気して詫びに京都まで来たのだが、その腹いせに、堅物の主人を誘惑しようとしたが逆に怒られて、奥方への帰国遅延報告に追い返されたと言うのが面白い。
「羽衣」は、世界各地にある伝説なり説話だが、天女が羽衣を取られて帰れず漁師の妻となって・・・と言ったバリエーションがあって面白いのだが、この能のワキ漁夫 白龍は、非常に正直で心優しく、すんなりと羽衣を返し、羽衣を先に返せば逃げるであろうと言ったら「疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」と言われて、恐縮すると言う好人物である。あの時、羽衣を奪われて、そんな白龍の優しさに包まれて幸せな人生を送るのも悪くなかったかもしれないとちょっぴり恋心を覗かせるのも、平安の恋であろうか。
他の能は、すべて鑑賞しているのだが、この「芦刈」は、観ていないので、何とも言えない。夫がリストラされて赤貧芋を洗うがごとしとなった夫婦が、分かれて自活しどちらかが成功したら再び会おうとする話で、キャリアウーマンとなって成功した妻が、芦売りに身を落とした極貧の夫を探して、逃げ隠れする夫とよりを戻すと言う話。現在でもある話で切ない。
「葵上」では、タイトルロールで重要なキャラクターでありながら、この能には、葵上は、正先に置かれた小袖が象徴して登場しない。
葵上は、六条御息所に同情していて、自分同様に、新しくて、ピカピカ輝いていて、流行の最先端で、皆の人気者で、そんな飾り物が嬉しかったのを、恋と間違えた、愛する人を間違えたのだと言って慰めている。
正妻葵上も六条御息も年上姉さん女房と言う位置づけだが、若年の悪ガキにしか過ぎない光源氏を、何故、紫式部はあれほど理想的に描いたのか分からないが、私から見れば、見上げるような素晴らしい女性たちが振り回されたのである。
「野宮」も、六条御息所をシテにした能だが、斎宮として伊勢に赴く娘に同行する途中の仮住まいである嵯峨の野宮が舞台。
この野宮を訪れた光源氏との再会と、恋に燃えた二人だけの思い出に生きたいと願う心の葛藤が、老いの思いが忍び寄り悲しい。
とにかく、この本、軽いノリだが、軽妙なタッチが、一服の清涼剤である。