熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ハワード・ジン著「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史〈下〉1901~2006年」

2018年08月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   下巻は、20世紀初年からブッシュ大統領まで。

   まず、第二次世界大戦中の日系アメリカ人に対する処遇。
   他国から非難を浴びて当然の、野蛮極まりない人種差別そのもの、
   1942年に、あのローズベルトが、西海岸に住むすべての日系アメリカ人を逮捕せよ、と陸軍に命じ、日系アメリカ人全員が、家から追われ、内陸部の奥地につくられた仮設の建物へ送られ、3年以上も、まるで、捕虜のようにその施設に隔離されていたと言う。
   また、日本の終戦について、なぜ、アメリカは、天皇制維持と言う日本の要望を受け入れて、核兵器を使うことなく戦争を終わらせようとしなかったのか、あまりにも多くの資金と労力を原爆開発へ注ぎ込んだために使用せざるを得なかったのであろうか、それとも、ソ連が計画通り日本へ攻め入る前に、戦争を終結させたかったからであろうか、と疑問を呈している。天皇制の維持については、アメリカがこれに同意していたら日本は戦いを止めていただろうが、アメリカは拒否して戦闘は続けられたと言っている。
   私は、ウォートン・スクールに居た時に、アメリカ人学生と何度も、米軍の原爆投下につて議論したが、大方の学生は、邪悪な戦争を終結させるためだと言っていたが、今でも、腹が立っており、絶対許せない、アメリカの人道主義は飾り物かと詰問したのを覚えている。
   
   さて、今日の電子版で、
   時事通信社が、”繰り返す人種差別の歴史=米、トランプ政権下で分断加速-強制収容の日系人が警鐘”を報じている。
   米政府が第2次大戦中の日系人の強制収容を「重大な過ち」と認めて謝罪して、レーガン元大統領が1988年、市民の自由法に署名して、生存している元収容者に各2万ドルの補償金を支払った。「市民の自由法」成立から10日で30年。
   しかし、トランプ大統領は一部イスラム圏の国民の入国を禁止。アフリカや中米諸国を「便所のような国」と侮蔑し、さらなる移民規制を模索しており、こうした風潮は社会にも拡散し、ヘイトクライム(憎悪犯罪)は増加の一途をたどる。
   米社会における強制収容の記憶は薄れつつあり、トランプ政権は2019会計年度予算教書で、日系人収容所跡地や米先住民墓地の保存事業に交付される補助金を廃止した。さらに、国定史跡の国定史跡に指定されているハワイ・オアフ島のホノウリウリ強制収容所などの見直し・縮小も進める。と言うのである。

   次の写真は、首都ワシントンの連邦議会議事堂近くの公園にある、2羽の鶴が自由を求め、体に巻き付いた有刺鉄線から脱しようともがく様子を表現した高さ約4メートルの銅像だが、日系人収容の歴史を伝える記念碑。
   
   
   さて、この下巻は、20世紀全般を扱っているので、二度の世界大戦とその狭間の狂乱と大恐慌、公民権運動、ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、アフガン・イラク戦争等々、アメリカの激動期について触れているのだが、やはり、迫力のあるのは、「立ち上がる黒人と公民権運動」「反戦から女性解放運動、そして1960年代のインディアンたち」「1970年代後半からの反戦運動や労働運動」と言った章での、弱者たちの民主主義への戦いであろう。
   勿論、軍産複合体の暗躍や増え続ける軍事費、世界最大の武器輸出国アメリカの死の商人ぶり、それに、経済格差拡大の悲惨な現状など、カレントトピックスも漏れなく記述しているが、例えば、世界の公共財を支えて来たパックス・アメリカーナやヨーロッパの戦後復興を主導したマーシャル・プランなどと言ったアメリカの明るい貢献面などは、全く、触れておらず、やはり、タイトル通り、people's historyなのである。

   興味深いのは、1992年は、コロンブスが、アメリカ大陸を発見した500周年記念日だったが、例年の祝祭とは違って、贈物と友情で出迎えた先住民を捕まえて奴隷にしたり虐殺した男を誉め称えることに広く抗議の声が挙げられて、各地で、コロンブスを非難するイベントが相次いだと言う。
   コロンブスをめぐる論争が活気づき、伝統重視体制派の知識人の、アメリカの歴史は無人の荒野へのヨーロッパ文明の展開だと言う歴史観を見直して、新しい物語―――コロンブスはインディアンを虐殺し、黒人は自由を否定され、女性は不平等な扱いに苦しんで来た―――が語られ始めて、新しい潮流を押し止められなくなった。と言うのである。

   アフガニスタンを例に挙げれば、この攻撃は、民主主義も平和も齎すことはなく、テロ組織を弱体化させることもなければ、アメリカの放った暴力は中東の人々の怒りを買い、更なるテロリストを出してしまった。
   イラクにしても、核爆弾の製造を計画し、大量破壊兵器を隠し持っているとフセインを非難し続けたが、一切その痕跡が見つからぬでっち上げ、国連憲章違反を押し切って単独で戦争を仕掛けたのも、すべからく、イラクの地中にある石油が欲しいが故の戦争。「イラクの自由作戦」は、イラクに民主主義も安全も、むろん自由も齎さなかったし、危険な、イスラム国家を生んでしまったのである。
   ゴアとの大統領選挙で、フロリダでの陰謀めいた処理で当選したブッシュには厳しく、”戦争好きでの、人権を踏みにじる大統領ブッシュ”と言って、ハリケーン・カトリーナ悲劇を絡ませて強烈に非難。

   何故、ジンは、この本を書いたのか、
   最終章「人々が選ぶアメリカの未来」で、
   まず、「アメリカ合衆国憲法」の前文では、われわれ人民がこの憲法をつくったのだと述べられているが、実際に憲法を起草したのは、特権階級に属する55人の白人男性で、自分たちの特権を守ってくれる強力な中央政府を必要としたためのものであって、まさに、今日まで、政府と言うものは、権力を持った富裕な者の要求を満たすために利用されてきた。こうした事実は、われわれ全員、富める者も貧しき者も中産階級の者も、みんな同じものを求めている、とほのめかすような言葉によって隠蔽されてきた。として、
   また、抵抗の歴史は封印されてきたのだが、実は、社会を変えて来たのは、自分たちの声を轟かせる方法を見出した黒人、女性、インディアン、若者、労働者と言った人々だったのだと言っている。
   最後に、現在、二つの勢力が未来を勝ち取ろうと戦っていて、
   ひとつは、立派な制服を着こんで、暴力的で戦争を好み、自分と違った人間を差別し、地球の素晴らしい財産をため込み、うそつきと殺人者に権限をゆだねている集団。
   もうひとつは、身なりはつつましいが生気に満ちて、抵抗の歴史を持ち”戦争マシーン”に平和的な方法であらがい、人種差別に抗議し、様々な文化を受け入れ、おわりのない戦争にますます反対の声をあげる集団。
   未来を手に入れるのはどちらか、読者に選択を迫っている。
  
   読後感としては、非常に良い本だとは思うが、一通り、アメリカの歴史を熟知した人間が読むべき本で、この本をストレートの読めば、やはり、アメリカ史を誤解するかも知れないと思う。


(追記)産経に、”原爆投下でチャーチル英首相が7月1日に最終同意署名 1945年の秘密文書”記事が掲載されていて、
   米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定めた43年8月の「ケベック協定」に基づき、英政府内で検討を重ねた結果、チャーチルは容認を決断し、45年7月1日、「オペレーショナル ユース オブ チューブ・アロイズ」(米国が日本に原爆を使用する作戦)に署名し、英首相官邸はこの最終判断を同2日付で公式覚書としたと言う。
   また、別のファイル(PREM3/139/9)によると、7月24日のポツダム会談でチャーチルは、44年9月にトルーマンの前任のフランクリン・ルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。と言う。
   日本では、偉大な政治家として尊敬されているローズベルトやチャーチルは、実は、日本国民のことなど考えていなかったと言う衝撃的な事実も、日本の学校で教えるべきである。
   
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日本古典芸能の明るい将来を五輪で

2018年08月08日 | 学問・文化・芸術
   文楽協会への補助金を切った橋下市長の対応が気になって、6年ほど前に、「文楽への補助金カット~文化芸術不毛の橋下市政」を書いて、その後も、日本の古典芸能の育成強化が如何に日本にとって大切なことかを、書き続けて来たが、危機感を抱いた文楽界の発奮努力が功を奏し始めたのか、最近では、本拠の大阪の方は、まだしも、東京では、満員御礼の公演日が結構続くなど、チケットの取得が、大分、難しくなってきた。
  この9月の国立劇場の文楽は、明治150年記念事業の第一部「南都二月堂 良弁杉由来」「増補忠臣蔵」と、第二部「夏祭浪花鑑」と言った人気番組なので、既に、ソールドアウトの日もあって、良い席は取れなくなっている。
   このチケット予約の時も、あぜくら会日ではあったが、10時から30分くらいは、インターネットが、国立劇場チケットセンターに繋がらなかった。

   一方、国立能楽堂の能・狂言の方は、9月は、開場35周年記念公演で、「翁」を皮切りにして、各流派の宗家や人間国宝総出演とも言うべき意欲的な5公演の舞台であり、627席しかないので、一人2枚までと制限していたが、あぜくら会分は、今日の発売日10時から殆ど1時間くらいで完売と言う超人気で、明日9日の一般販売日では、恐らく、瞬時に売り切れるのではないかと思われる。
   一番、売れ行きの遅かった公演は、
   能 嵐山 白頭働キ入リ 金春 安明(金春流) 間狂言 猿聟 野村 万之丞(和泉流)
   能  定家 浅見 真州(観世流)
   だったのだが、金春安明宗家の「嵐山」に、間狂言「猿聟」が同時上演される本格的な舞台に、浅見真州師の「定家」と言う願ったり叶ったりの豪華舞台であるから、他の公演は推して知るべしであろう。
   能・狂言の場合には、特別なことがない限り、たった一回の一期一会の公演なので、国立能楽堂の主催公演は、殆ど、満席で上演されているようだが、殆ど数週間ないし1か月にわたって上演されている歌舞伎や文楽とは違って、能楽堂が各地にあるとは言っても、トータルの観客数は、少ないと言うかファンの層が薄いと言うか、やはり、歌舞伎や文楽などほかの古典芸能と比べて、難しいと言うか程度が高いと言うか、大衆性に欠けるのかも知れないと言う気はしている。

   私が話題にしたいことは、こんなことではなく、
   2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックの開会式と閉会式の基本プラン「東京2020 開会式・閉会式 4式典総合プランニング」を演出する総合統括に、狂言師の野村萬斎師が就任したと言うことである。
   理屈抜きで、大変な快挙であり、素晴らしい五輪大会のオープニングとフィナーレを飾るイヴェントが繰り広げられること間違いないと思う。
   気に入ったのは、「東京五輪は日本文化を発信する好機」 と言うはそうもそうだが、インタビューで言っていた、次の言葉、
   世界から見た日本文化の特長は何かと聞かれて、
   「日本の文化的アイデンティティーは『発酵文化』だと思う。僕がかつて留学した英国から見たら、日本は極東。大陸から日本に渡ってきたものが太平洋の手前で集積する『エッジ・オブ・シルクロード』の地だ。集積したものが発酵して違うものになる。例えば、数千年前のギリシャから伝わったという仮面芸能が日本で独自の発達を遂げ、能狂言という全く違うものになった。他者を否定せず、互いに影響しながら混然として様々な要素を残しているのも特長だ。こうして熟した文化の厚みは他に類を見ないと思う。日本は文化の宝の山だが・・・

   私が、萬斎を最初に見たのは、随分前、蜷川幸雄のシェイクスピア「テンペスト」のエアリエル、その後、5年前に、観た「釣女」。
   その後、父君の万作師の舞台と共々、何回観ているか、数えきれないが、折り目正しい真剣勝負の遊び(?)の芸術を、ずっと、楽しませて貰っている。
   私自身、ロンドンで、万作師とのシェイクスピア「法螺侍」の狂言の舞台で、イギリス人を感服させていたのをこの目で見ており、その後、イギリスに留学をしてシェイクスピア戯曲を徹底的に勉強しているのだから、萬斎師の力量に心服するのは当然。
   あの羽生結弦に陰陽師を通じて、プラトーンが言う神に攫われた至高の芸術を移し植えたその力量。

   ここで、今道友信先生の説明を借りると、ギリシャ悲劇は本来詩劇であって、日本の能が、謡曲の歌うように謡う詩でできており、同様に、登場人物が極僅かで仮面を被って殆ど動きがなく、悲劇を観に行くではなくて、悲劇を聴きに行くと言う言い方をする。能は、シテの舞が重要な位置を占めるが、やはり、謡曲が命。文楽も浄瑠璃を聴きに行くと言うし、シェイクスピア戯曲も、観に行くではなく、聴きに行くと言う。
   萬斎師が言うように、ギリシャ悲劇と能狂言は、シルクロードを隔てた同根の芸術。
   日本は、文化文明、そして、芸術の『エッジ・オブ・シルクロード』と言うのだが、
   いや、パラダイス・オブ・シルクロード、文化文明の終着点、集大成地点かも知れない。

   随分、あっちこっちを彷徨い歩いて、色々なものを見て来たが、日本の文化文明の高さ、その芸術の高度さは身に染み見て感じている。
   萬斎師は、「復興五輪の名に恥じないよう、シンプルかつ、和の精神が表現できるように頑張りたい」と言った。
   ギリシャ劇の精神であり万国共通の芸術の極致でもある、削ぎに削ぎ落して美のエッセンスを凝縮した究極の美を追求した能狂言の世界、「シンプルかつ、和の精神」を、世界に歌い挙げようと言う壮大な心意気であろう。

   大阪万博の時に、私は、日本の古典芸能の公演があったのかどうかは知らなかったので、ベルリン・フィルやニューヨーク・フィル、ベルリン・ドイツ・オペラやボリショイ・オペラばかり観に行っていたが、今度の五輪大会には、歌舞伎文楽、能狂言等々日本古典芸能の舞台で、外国からの人々を虜にしてほしいと思っている。
   
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映画「ポケットモンスター 」と「仮面ライダービルド」

2018年08月07日 | 映画
   夏休みなので、孫息子に頼まれて映画館に出かけた。
   「劇場版ポケットモンスター みんなの物語」と「劇場版 仮面ライダービルド Be The One」ほかを見に行ったのである。
   2回なので、2時間の休憩を挟んで、約6時間の付き合いだが、合間には、マムドナルドで昼食、そして、私も孫息子も本が好きなので、本屋で過ごして本を買って劇場へ帰る。
  
   ところで、保護者と言う立場なので、映画の中身などは、関心外なのだが、正直なところ、これまでにも何度か書いたが、子供の映画と言っても、結構、凝っていて見ていてよく分からないのである。
   ポケモンの方は、アニメの物語なので、何となくついて行けるのだが、仮面ライダーの方は、実写ながら変身した仮面ライダーや悪者が、いわば、格闘技で戦うシーンが大半で、コンピューターグラフィックなどICT技術を駆使して、豊かなサウンドやレーザー光線など派手な見せ場があって、それに、可なり奇想天外な複雑なストーリー展開なので、殆ど、私には分からない。
   早い話、今回も、主役の筈の仮面ライダービルドを、国民挙って殲滅すると言う話なので、戦っているどちらが良い方でどちらが悪い方かさえ見分けがつかないくらいなのである。
   ところが、後で、1年生の孫息子に聞くと、理路整然と説明してくれた。
   
   さて、口絵写真は、ポケモンの方なのだが、HPのストーリーの冒頭を引用すると、
   人々が風と共に暮らす街・フウラシティでは、1年に1度だけ開催される“風祭り”が行われていた。祭りの最終日には伝説のポケモン・ルギアが現れて、人々はそこで恵みの風をもらう約束を、昔から交わしていたという。

   ところが、私の記憶に残った話は、人間が開発して、ポケモンたちが暮らしていた自然環境を破壊し、山火事を起こして、生活環境を台無しにしてしまったので、フウラシティの山奥に住んでいるポケモン・ゼラオラを怒らせて、人間と敵対するようになった。人間の失策で疫病が蔓延し始めたシティを救うために、ゼラオラの心を和ませてともに窮地を救う。と言う話である。
   勿論、お馴染みのサトシやピカチュウを中心に多くのキャラクターが入り組んで、冒険や愛情話など面白いストーリー展開を繰り広げるのだが、この方は、クラシックなアニメの世界を踏襲しているので、それなりに楽しめる。
   ポケモンなど殆ど縁がなく知らないので、何とも言えないが、エコシステムの世界を描いているような気がしている。

   私が子供の頃には、映画と言えば、小中学校の団体鑑賞で見ていたディズニー映画の世界で、たまに、私が住んでいた宝塚の田舎を回って広場で放映されていた鞍馬天狗で、 嵐寛寿郎の鞍馬天狗や松島トモ子の杉作をよく覚えているくらいである。

   とにかく、最近は、テレビで、仮面ライダーやアンパンマン、ドラえもん、きかんしゃトーマス、それに、WOWOWで殆どのディズニーやピクサー映画など、結構子供番組を放映しており、ビデオどりしているのだが、子供に取って良いのか悪いのか。
   日本昔話の方には、孫たちは、あまり関心を示さないので、気にはしている。
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ダンテの「神曲」が生んだ「地獄の門」

2018年08月06日 | 学問・文化・芸術
   この口絵写真は、ロダンの「地獄の門」
   文化会館でのオペラ鑑賞の合間に、隣の西洋美術館で、撮った写真で、最初に見たのは、この像だが、世界に三つしかないと言われていた(実際は7つで静岡にもある)ので、留学中にフィラデルフィアで、その後のヨーロッパ旅行でパリで見た時には、いたく感激した。
   それに、上部中央に、「考える人」があって、鏤められている人間の群像の多くが、「パオロとフランチェスカ」や「ウゴリーノと息子たち」を含めて、ロダンの有名な作品で、物語を読んでいるような鑑賞の楽しみがあって、見飽きなかったのである。
  
   ダンテの「神曲」地獄篇第3歌の冒頭に登場する「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘が記さた地獄への入口の門に想を得てロダンが制作した巨大な彫刻だが、最近、ダンテの「神曲」地獄篇を読み、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」をビデオ聴講して、少しずつ、地獄に興味を持ち始めた。
   このダンテの「神曲」地獄篇第3歌の詩だが、岩波の山川丙三郎訳を借りると、
   我を過ぐれば憂ひの都あり、
   我を過ぐれば永遠の苦患あり、
   我過ぐれば滅亡の民あり
   義は尊きわが造り主を動かし、
   聖なる威力、比類なき智慧、
   第一の愛、我を造れり
   永遠の物のほか物として我よりさきに
   造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
   汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
   
   三位一体の神が、正義を守るために、地獄をお創りになり、この地獄への門を通れば、憂いの都、永遠の苦患、滅亡の民、(平川訳だと、憂いの国、永劫の呵責、破滅の人に伍す、)の世界に入ることとなり、一切出てこれなくなる。この門を潜る者は、(今道先生の説明では、)一切の希望は、ここへ置いて行け。と言うことである。
   私は、この一生涯脱出不可能だと言う話で、ベネチアのため息橋を思い出した。サン・マルコ広場に面して建っている壮麗なドゥカーレ宮殿は、細い運河を隔てて対岸の牢獄跡と、ため息橋で結ばれているのだが、この小さな渡り橋のことで、この橋を渡って牢獄に入った罪人は、一生涯太陽を拝めないと言う悲しい運命の橋なのである。(右手の暗い渡り橋)
   

   ミケランジェロが、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描いたフレスコ画「最後の審判」を描くのに、この絵の右手および下層の地獄絵の構想に、ダンテの地獄篇を借用している。
   3回ほど、この絵の前に立って眺めていたが、凄い作品である。
   右下の水面に浮かんだ舟の上で、三途の川の渡し守カロン(下記絵の下方キリスト像の右上)が、地獄行きの死者たちに櫂を振り上げている絵が描かれているが、ダンテによると、このアケローン川を渡った者たちは、この後、漏斗状の大穴をなして地球の中心にまで達した地獄の世界、最上部の第一圏から最下部の第九圏までの九つの圏から構成される地獄へ、罪の軽重に応じて各階層へと振り分けられて行く。
   最も重い罪は、裏切を行った者で、弟アベルを殺したカイン、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダと言った者で、永遠に氷漬けとなっている。と言う。
   
   
   ダンテの地獄にも、日本の地獄のように三途の川が流れていると言うのも興味深い。
   日本にも凄い地獄絵が沢山描かれていて、地獄へ落ちる恐ろしさを説いているが、その代わり、狂言や落語などで、笑い飛ばす話もあって面白い。
   
   落語では、結構、地獄話があるようだが、面白いのは、やはり、米朝の「地獄八景亡者戯」。鯖を食って死んだ男が、三途の川、六道の辻、賽の河原、閻魔庁へと、しかし、今様庶民旅行とも言うべき全くのバカ話で、、閻魔庁での裁き、後半は、地獄に落とされた山伏・軽業師・歯抜き師・医者の四人がそれぞれの特技を生かして地獄の責めを逃れると言う噺。とにかく、あほらしいが面白い。
   また、落語「死ぬなら今」は、閻魔庁の鬼たちが地獄入りの死者から賄賂を取って天国行きに変えるなど汚職が蔓延し、その悪事が露見して、地獄の鬼たちお偉方は、すべて、天国にしょっ引かれて、地獄は空っぽ。「死ぬなら今」だと言う噺。

   狂言では、仏教信仰の発展で極楽へ行く死者が多くなって、財政的に困窮を極めた閻魔大王が、自ら客引きのために、六道の辻に出かけて死者を待つ話で、閻魔大王が、連れて来た博打打ちの亡者に負けると言うのが「博打十王」で、その死者が八尾の男で、八尾の鬼である閻魔大王が、昔は、八尾の地蔵と良い仲であった艶話を思い出して涙ぐみ天国へ送ると言う話、いずれも、今の官庁のようで締まらない話である。

   厳粛高尚なダンテの「神曲」の話に、狂言や落語の笑話で気が引けるのだが、あまりにも落差が激しくて、次元の違いが気になるのだが、普通の人間には、特別な事情がない限り、どちらであっても、気にはならない話であろう。
   Youetubeあればこそであろうが、今道友信先生の「ダンテ『神曲』連続講義」を聴いた後で、米朝の「地獄八景亡者戯」を聴いて笑い、ルネサンス絵画集を開いて、ミケランジェロの「最後の審判」を眺めながら、ダンテの「神曲」の影響を受けた宗教画を観ていて、結構、楽しめているのであるから、私も、まだ、あの世へは、大分間があるのであろうと、変な安心をしている。
   
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口承文学の凄さ不思議さ面白さ

2018年08月04日 | 学問・文化・芸術
   ダンテの「神曲」を読もうと思って、まず、今道友信先生のダンテ「神曲」連続講義を聴こうとインターネットに向かって、勉強をし始めた。
   冒頭のホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の説明で、これが、口承文学であって、口誦言語芸術として伝承されていて、紀元前6~8世紀に書かれて文章化したと説明されていた。
   両長編叙事詩とも、膨大なボリュームで、朗誦するのに何日もかかると言うことだが、
   これが、正確な口承文学かどうかについての疑問についてだが、今道友信先生は、金田一京助先生から直接聞いた話だとして、アイヌのユーカラの記録の話をされた。
   金田一先生は、アイヌの村落に出向いて、古老の語るユーカラをローマ字で筆記し、その真否を確認するために、別な老婆からも聞いて筆記したが、殆ど異同がなかったと言うことであった。
   
   今道先生は、「イーリアス」の原文を聴講者と暗唱しながら、リズムが文字よりも前に伝承の担い手であったと、丁寧に説明されていた。
   このリズムと言うことだが、歌舞伎の七五調の流れるような名調子のセリフや、素晴らしい詩人の詩や、名作小説の冒頭など、好んで暗唱している文章などは、正確に何度でも繰り返されるが、普通に語っている語り言葉は、もう一度言ってくれと言われても同じ表現は繰り返されない。
   アイヌのユーカラの記録の時にも、途中で記録をミスって、もう一度同じところを繰り返してくれと言ったら、古老は出来ないと言って、初めからやり始めたと言う。
   口誦文学には、そのような人間の体にビルトインされた暗唱のリズム感覚が息づいているのであろう。

   日本の「古事記」も、文字のなかった頃からの口承文学で、中国から漢字の伝来を待って、天武天皇の命によって、稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものだと言われている。
   いずれにしろ、ホメーロスの長編叙事詩と同様に、口誦言語芸術を筆記文章化して、今日に継承されたと言うことで、人間の口誦伝承芸術の凄さは、人知の限りなき英知を象徴していて脅威でさえある。
  
   さて、平家物語だが、鎌倉時代に、信濃前司行長が作者で、生仏という盲目の僧に教えて語り手に伝えられて来たと言うことで、盲目の僧である琵琶法師が日本各地を巡って口承で伝承してきたと言う印象が強いのだが、勿論、漢字も仮名をあった時代であるから、読み本と言う形態も残っている。
   一度、越前琵琶奏者の上原まりの「平家物語」を聴いて感激した記憶があるが、これなども、口誦伝承の系譜であろうが、琵琶法師の語りにおいても、琵琶のサウンドなりリズム感が、大きく作用していたのであろうと思う。

   口承文学には、ウィキペディアによると、ユーカラの他にも、
アメリカ大陸のインカ神話・ネイティブアメリカンの神話
オーストラリアのアボリジニの神話
太平洋島嶼部のポリネシア神話、マオリ神話、ハワイ神話
アフリカ神話
北極地方のイヌイットの神話
アイルランドやウェールズのケルト神話
ヴァイキングなどの北方ゲルマン人によるエッダ  
   などがあるようだが、すべて、その民族の神話なり、民族のアイデンティティの象徴を表現している。
   神懸り的な語り部が、自分たち民族の成り立ちや誇りを、語り続けたと言うことであろう。

   ところで、余談だが、今道先生は、ダンテの「神曲」を読むために、ウェルギリウスを理解することが必須だとして、ついでに、ウェルギリウスの叙事詩「アエネーイス」について面白い話を語っていた。
   ギリシャ人は、ギリシャ神話の神の子だが、ローマ人は、狼に育てられたロームルスとレムスによって建国されたとして、見くびられているのが癪に障るので、権威のある物語を書けと、皇帝アウグストゥスが刊行を命じたので、ウェルギリウスが、トロイアの王子でウェヌスの息子であるアエネーアースが、トロイア陥落後、イタリアに渡って、ラウィニウム市を建設して、このアエネーアースが建設した町がローマへと発展することになる。 とする叙事詩「アエネーイス」を書いたと言う。
   この作品は、結構流布して、ベルリオーズのオペラ「トロイアの人々」はこれをテーマにしており、絵画や彫刻などほかの芸術にも影響を与えていると言うから面白い。


   口誦芸術については、どう考えても、ホメーロスなり、稗田阿礼が語り継いだと言う人知を超えた偉業に感嘆せざるを得ず、この調子だと、AIもそれ程、恐れずに足らずと言う気もしてくるから愉快である。

   
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国立能楽堂・・・能「通盛」

2018年08月03日 | 能・狂言
  昨夜の国立能楽堂の《国立能楽堂夏スペシャル》は、次の通り。

  ◎働く貴方に贈る
   対談 石田 ひかり(女優)×大倉源次郎(小鼓方大倉流)
   狂言 瓜盗人(うりぬすびと)  髙澤 祐介(和泉流)
   能 通盛 (みちもり)  髙橋 忍(金春流)


   平家物語を愛読書としている私には、能「通盛」が、妙味深かった。
   世阿弥は、「申楽談儀」で「通盛」の元の作者の井阿弥の作品を、「通盛、言葉多きを、切り除け切り除けして能になす」としており、主に削除を中心に改作した世阿弥による改訂版であると言われている。

   この能は、平家物語の巻九を出典としているようだが、一の谷の戦で忠度・経正・敦盛・知章など修羅能の主人公たちと共に戦死した通盛が主人公で、多少異同あるが、ストーリーは次の通り。
   阿波の鳴門の浦で僧が平家一門を弔っていると、漁翁(前シテ/高橋忍)と女(ツレ/井上貴覚)を乗せた篝火を焚いた小舟が漕ぎ寄せてくる。二人は僧(ワキ/則久英志)の読経を聴き、僧に平通盛と小宰相の局のことを語って海中へ姿を消す。通盛・小宰相の局を回向していると、武将姿の通盛と小宰相の局が現れ、一の谷の合戦前夜の別れや、通盛の最期の様子を語り、僧の読経によって成仏できたことを感謝して、海へと消えて行く。

   平家で、夫婦の愛情物語を描いた能は、ほかに、「清経」を思い出すが、これはやや暗いのだが、この「通盛」は、完全に相思相愛の愛情物語で、全く、時代を感じさせないストーリー展開で、内心、驚いている。
   都落ちの時には、清経は両親にとめられて妻を都に残して出陣して自分で入水して妻を泣かせるのだが、通盛は、有無を言わせず妻を戦場へ同伴したのである。
   相思相愛のの2人を裂いたのは、生田の合戦の前日。通盛が忍んで陣に帰り、戦場へ同道していた局に「戦は早くも明日となった。そなたは、私以外に頼みとする者のない身。私が戦死したならば、都へ帰り、後世を弔っておくれ」と。別れの盃を交わし、うたた寝の床で睦まじく語らうひとときに、弟教経の呼ばわる声。「兄上はどこにいる、もはや戦の刻限ですぞ」という声に、通盛は、後ろ髪を引かれながら、戦場へと向かった。と言うシーンで、これが永遠の別れとなり、通盛の戦死を聞いた小宰相の局は、須磨の浦で敵に襲われ、遠く阿波の鳴門まで追われて入水するのである。

   平家物語と言っても、この方の主人公は、通盛と言うよりも、小宰相の局。
   平家物語の巻九の最後に、正に一ノ谷の合戦で平家の武将たちが、次々に命を落として行く修羅場の軍記物語でありながら、「小宰相入水」と言う感動的な恋物語が挿入されていて、平家物語の奥深さ間口の広さに感動する。
   通盛の侍君太滝口時員が、小宰相の局の舟にやってきて、通盛の戦死を告げると、7日泣き通して、お付きの女房の目をかすめて鳴門沖に入水自殺する。憔悴し切った局が、最後の夜に妊娠を通盛に告げて喜ぶ様子や亡きあと忘れ形見をどうするかなど苦しい心の内を女房に吐露して、入水したのである。通盛への熱い思いが悲しいほど胸を打つ。

   能では、女房が、引き止めるのを局は「振り切り海に入りたまふ」とツレが舟から出て入水を表現するのだが、平家物語では、一ノ谷から屋島への夜半の寝静まった頃なので、局の入水には、誰も気づかず、目を覚ました女房が慌てふためき、引き上げた時には亡くなっていて、女房は遅れまいと入水を試みるのだが制止されて、尼になり菩提を弔うと言うことになっている。

   通盛と小宰相の局の恋の経緯については、この舞台では、アイの所の者(三宅近成)が語るのだが、通盛は、上西門院の女房で宮中一の美人であった小宰相に、女院の法勝寺への花見の御幸で一目惚れして思い続けて3年経ち、諦めて書いた最後の手紙が、幸運にも、廻り回って女院の手に入り、小野小町が、才色兼備の素晴らしい女性でありながら、気が強いばっかりに、あたら人生を棒に振った例を引いて、返事を出さねばならないと言って、女院自ら硯を取って自身で、私も貴方に恋に落ちていると言う粋な手紙を書いて返したと言う。
   こんな、通盛は小宰相を娶って、愛情浅からず、相思相愛の夫婦仲であるから、西海への旅、舟の中、波の上の住居まで引き連れて、ついに同時にあの世への道へ赴かれける、と言うのは当然だと言うわけである。

   この平家物語の何とも言えない大らかな恋物語をモダンに語る語り口、それを、悲劇の極致とも言うべき平家の武将たちの最期を語る軍記ものの中に挿入して、聴き手をホロリとさせる手腕の確かさ、
   あれもこれも、女院の粋な計らいと、必死に恋を全うした通盛と小宰相と言う永遠の夫婦愛があったればこそだと思うのだが、時代を全く感じさせない世界の描写が実に爽やかで嬉しい。

   シテの高橋忍師は、小宰相の局と陣中において別れの盃を汲みかわし、弟の能登守教経にせき立てられて心弱い自らを恥じながら出陣して行く様子や、キリで木村源五重章とさし違えて命を落とすまでの舞など丁寧に演じていて楽しませて貰った。
   
   
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