熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

野上素一著「ダンテ 人と思想」

2018年08月22日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   もう少し、「神曲」のダンテを知りたいと思って、この本を読んでみた。
   
   まず、ルネサンスが始まる少し前、中世の詩人であったダンテの途轍もない学識の豊かさで、その寄って立つ由縁を知りたいと思った。
   生半可な知識なので、恥ずかしいが、どうしても、西欧の中世については、それ程評価していないし、殆ど知らないからでもある。

   普通のフィレンツェの子供のように、義務教育の初等教育を受けて、ラテン語文法、修辞学、論理学を学び、上級の中学校で、算術、幾何、音楽、天文学を学んだ。それ以外に、聖マリア・ノヴェッラ教会で、フラ=レミジョ=ジロラミ師から聖ヨマス=アクィナスの思想について、聖クローチェ教会では修道士フラ=ジャン=オリュー師から、聖ボーナヴェントゥーラの哲学とジョアキーノ=ダ=フィオレの神秘哲学を学んだ。
   知識欲の旺盛なダンテにとって幸運だったのは、スペインとフランスで修業した「修辞学」や「宝典」の著者」ブルネット=ラティーニと言う学者を家庭教師に得て、学んだことで、詩人として大成する基礎をつくるのに役立ったと言う。
   そして、ダンテは、自然科学の知識も大変なもので、その中でも、特に、関心を抱いたのは、医学で、血液循環や心臓の問題と目と光の問題で、そう言えば、「神曲」の地獄や煉獄や天国のビビッドな描写が頷けて興味深いのだが、これらは、ボローニア大学で勉強したのである。
  
   このボローニァ大学は、1088年の創立で、学生時代に、羽仁五郎に、世界最古の大学だと聞いてよく覚えているのだが、私事ながら、ずっと以前に、少し遅れて創立された、マルコポーロが行ったと言うスペインのサラマンカ大学を訪れた時に、その何とも言えない学び舎の崇高な雰囲気に感激して、ボローニアを思ったことがある。
   そう思えば、眠っていたように思われるヨーロッパの中世は、ギリシャ・ローマとルネサンスの谷間で、素晴らしく開花していたのであろう。
   ダンテの「神曲」の中で、ギリシャやローマが、息づいていたのも当然なのである。

   それに、ダンテは、1301年にフィレンツェを追放されて、ラヴェンナに定住したのは1319年だと言われているから、その間、各地の宮廷の食客として渡り歩いており、不安定な生活ながら、多くの知識情報を集積するチャンスに恵まれていて、勉強をし続けている。
   
   人文主義(ヒューマニズム)は、もう少し新しい思想だと思っていたが、最初の人文学者と言われているのは、ダンテだと言う。
  ダンテは、古代ギリシャやローマの文化や文学を記した書物を読み、その内容を紹介したのみならず、正義、慈悲、叡智、徳を重んじて、それらの回復を目指したのである。
   その後、勢いを得た人文主義思想が、15世紀のルネサンスの誕生の導火線となった。

   さて、もう一つ興味があったのは、ダンテの女性遍歴。
   永遠のマドンナであり聖女であった憧れのベアトリーチェについては、「神曲」で、こっぴどく、ダンテは、その不実を糾弾されているのだが、どうであったのか。
   放浪の途中、トスカナのプラート・ヴェッキオに滞在した時、そこで、一人の女性と恋に陥り、彼女のことを詠んだ「石の詩」を贈ったと言う。野上教授の新しい指摘は、これのみ。
   「饗宴」の中で、ダンテは、金星を動かす天使たちに呼びかけて「ベアトリーチェとの恋を捨てて、窓辺の貴婦人との新しい恋愛を援助してほしいと言う願い」を謳っていると言う。この「窓辺の貴婦人」と言うのは、本物の恋で、「神曲」で、ベアトリーチェに揶揄されるのも故なしとはしないのであろう。
   「神曲」煉獄篇第三十歌で、地上の楽園で再会した時に、窓辺の貴婦人との恋愛について、ベアトリーチェは、
   「・・・私が第二の年齢の域に達した時、生命を終えるに及んで、すぐに私を離れて、体を他の者に委ねた。私は、肉体から霊に登り、・・・」として、私が死んだらさっさと窓辺の貴婦人に乗り換えたと詰問しているのだがこれは、作者ダンテの著作であるから、ダンテ自身の正直な告白なのであろう。

   いずれにしろ、私には、ダンテの女性観、恋愛観は、よく分からない。
   
   この野上教授の「ダンテ」だが、「放浪の旅路の詩」で、放浪時代などで歩いた、「神曲」で謳われているイタリアの都市や田舎や野山などの詞章の部分を抜粋して紹介しており、興味深い。
   「ダンテとローマ教皇」の章は、当時の教皇や皇帝との抗争など政治関係の推移だが、都市国家時代のイタリアの分権政治と、教皇や皇帝の位置づけなどが分かって面白い。
   最後の「ダンテと自然科学」は、中世からルネサンスへと言う副題がついたストーリーであるが、やはり、アラビア人、すなわち、イスラム文化の介在にも触れていて、面白い。


   (追記)下記写真は、ウィキペディアから借用したボローニア大学の1350年代の絵。丁度、ダンテがなくなった少し後で、当時の大学は、学生が、著名な学者を、教授として招聘してきて授業を受ける組合制度のような形式であったと言う。
   
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