熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ダンテ「神曲」(平川祐弘訳)天国篇を読む

2018年08月19日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   やっと、一応、ダンテの「神曲」を、最後の天国篇まで読み終えた。
   今道友信先生のダンテ「神曲」連続講義を聴きながら読んだので、幸いにも、かなり、理解が進んだので助かったのだが、ほんの数行の解説だけでも、随分内容の深い講義なので、この「神曲」は、途轍もない作品なのである。
   ホーマーやギリシャ神話、プラトンからアリストテレス、トマス・アクィナスなどから、勿論、根本のキリスト教、それに、天文学をはじめ自然科学など、相当深いヨーロッパ文化文明に関する知識なり逸話なりの知識がなければ、字面を追っただけでは、到底理解できない程難しく、今でも、何だかよく分からないのが正直なところだが、とにかく、ページを繰っただけだとは言え、読み通したのである。
   あの偉大な哲学者:今道友信先生が、毎土曜日2~3時間かけて何十年も読み続けて、そのノートを基にして、ダンテの「神曲」を、1時間半の講義を15回続けたのが連続講義であるから、あだやおろそかで、凡人が理解できる筈がないのである。

   この「天国篇」は、地球を中心に同心円状に惑星が取り巻くプトレマイオスの天動説宇宙観に基づいて、天国界を、十天に分けて、地球の周りをめぐる惑星を、月から、水金太陽火木土、その上に、七つの惑星の天球を内包し、十二宮のある恒星天、万物を動かす力の根源である原動天、神の坐す至高天を積み上げて構成されている。
   ダンテから、それ程、経っていないと思うのだが、近代以前には、地球は惑星ではなく、宇宙の中心だとする天動説で、惑星としては、肉眼で天球上を動く様が観察できる7つの天体、太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星が数えられ、ダンテは、これを踏襲していて、その外周の天王星、海王星、冥王星は、その後の発見なので、当然抜けているのが興味深い。
   この最終の第10天の至高天(エンピレオ)まで、ベアトリーチェに案内されるが、エンピレオではクレルヴォーのベルナルドゥスが三人目の案内者となり、この至高天において、ダンテは、諸天使、諸聖人が集う「天上の純白の薔薇」を見て、永遠なる存在を前にした刹那、見神の域に達して、この世を動かすものが神の愛であることを悟る。
   天国へ入ってからのダンテは、天界毎に、色々な聖人たちと遭遇して、ベアトリーチェの導きを得ながら、高邁かつ深遠な神学の議論や問答を交わしながら少しずつ悟りを開いて、天国を上って行くのだが、私には、ペトロやヨハネなどとのキリスト教の教義にも触れる議論もあり、この道程の方が、地獄篇や煉獄篇より、はるかに難しかった。

   天国篇の最後は、
   ”・・・突然、私の脳裏に稲妻のように閃きが走り、私が知りたいと望んでいたものが光を放って近づいてきた。・・・愛ははや私の願いや私の意を、均しく回る車のように、動かしていた。太陽やもろもろの星を動かす愛であった。”
   著者は、「天国篇」は、「萬物を動かす者の栄光」に始まり、「太陽やもろもろを動かす愛」で終わっている。神は愛であり愛をもって天球の動きを規制している。壮大で静謐な、」宇宙の存在を感じさせる結句と言えるだろう。と述べている。

   地獄は「神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態」なのだが、その地獄でさえ、亡者たちには愛が生き続けている。
   私など、家族への愛やマドンナへの愛など卑近なケースには、関りを感じていても、形而上学的な、高度な宗教的な愛や高邁な人類愛と言ったダンテの意図した愛については、縁遠くて理解の域を超えているが、この「神曲」では、全編、愛で貫かれているような感じであり、宗教的、哲学的な愛について、襟を正して勉強しなければならないと感じている。

   いずれにしろ、ダンテの「神曲」を読み通したと言っても字面だけ、
   もう一度、今道友信先生の連蔵講義をじっくり聞いて、平川教授の本書を、懇切丁寧な脚注を詳細に検討しながら読みたいと思っている。
   シェイクスピアの場合には、幸い、イギリスに居て、RSCなど本場の最高峰の舞台を観ながら入ったので、それ程、苦労を感じなかったのだが、ダンテは、更に周辺知識を十分に仕入れて挑戦しなければダメで、努力をしようと思うのだが、次のゲーテの「ファウスト」までの道のりは、かなり、遠い感じである。
コメント
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