熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

久しぶりの旅:佐渡旅行(7)

2022年07月06日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   佐渡汽船のジェットフォイルで両津に着くと、口絵写真の看板が、観光客を迎えてくれる。
   佐渡観光のハイライトは、トキであり佐渡金山なのであろうが、私は、どちらにも行かなかった。
   興味がなかったと言えばそれまでだが、今回は、日蓮大聖人と世阿弥に思いを馳せる旅であったこともあって、時間的な余裕もなかった。

   それと、しみじみと感じたのは、あれも見たいここにも行きたい、好奇心旺盛で何でも体験してやろうと意気込むのが旅の醍醐味だとすれば、それは、若いときに限る、と言うことで、老年になってからの旅は、しみじみと人生を思う思索の旅のような気がしたことである。
   若くして米国留学に恵まれ、壮年期から熟年期に掛けてヨーロッパ中心に海外生活が長かったので、随分色々な所をエネルギッシュに行脚し続けて、見るべきものは見たと言う心境に近づいたのも、若くて元気であったからこそできたことで、今では無理である。
   孫娘の保育園と幼稚園の送り迎えから解放されてたので、フィラデルフィアへのセンチメンタルジャーニーとニューヨークへの文化芸術鑑賞旅に出ようと思ったのだが、コロナ問題以外にも、アジア人へのヘイトクライム問題や自分自身の体力に自信が持てなくなってきたこともあって、逡巡している。第二の故郷と思って自由気ままに闊歩していたはずのアメリカが遠くなってしまったのである。

   さて、学生時代からの趣味であった古社寺散歩であるが、佐渡にも、それぞれ趣のある神社仏閣があって、興味深いのだが、最も印象に残っているのは、やはり、五重塔がある妙宣寺であった。
   佐渡流罪後、大聖人に最初に帰依して、警戒を搔い潜って夜陰に紛れてお櫃を背負って三昧堂に通い続けた阿仏坊ゆかりの寺である。
   その誠実な人柄を認めて、「阿仏坊さながら宝塔、宝塔さながら阿仏坊」、阿仏坊こそ生きた仏身、宝塔なのだと賛美されたほど高徳な人物で、この五重塔は、実はその開山を祀る堂なのだという。
   文政8年(1825)に建立されたと言うので比較的新しい。建築様式は和様の三間五重塔婆で、屋根は宝形造桟瓦葺(旧こけら葺)、天辺に江戸風の相輪を備え、全高約24メートル、初層の各辺3.6メートルで、柱に杉材、上物に松材、組物に欅材が使用されている。と言う。
   ただ、残念だと思うのは、法隆寺や薬師寺などの塔と違って檜造りではないので、多くの江戸時代の神社仏閣がそうであるように、退化が早いのではないかと言うことである。
   本堂近くに、綺麗に手入れされた池を配した庭園があるなど境内は魅力的で、観光客が多い。
   すぐ近くに、能楽堂のある大膳神社があるのだが、ここへは、訪れる人はいなかった。
   
   
   

   今回の旅で、印象深かったのは、久しぶりに、魚介類を中心とした会食料理を頂いたので、佐渡のご飯と地酒が、実に美味しかったということである。
   美しい棚田があることは知っていたが、時間がなくて見る機会がなかった。
   まだ、秋の収穫期には間があるので、稲が根付いてしっかりと成長を始めた時期だが、強い風に吹かれて靡く姿が印象的であった。
   しかし、水田だと思うのだが、田んぼには殆ど水がなく、陸稲の雰囲気であった。
   北雪酒造では、佐渡米を使って醸造していると言っていたので、地酒も、この佐渡の大地と自然の恵みの為せる技なのであろう。

   さて、順徳上皇や日蓮大聖人や世阿弥の頃は、どうだったのであろうか、ついつい、つまらないことを考えてしまう。
   
   佐渡は、美しい素晴しいところであった。
   何故か、学生時代に、京都や奈良の古社寺行脚を続けながら、しみじみと、日本の風土が醸し出す文化の香りに感動し続けていた、あの懐かしい青春時代の思いでが蘇ってきた。
   素晴しい佐渡旅行であった。
   
   
   
   
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わが庭・・・ゆり・シルクロード咲く

2022年07月05日 | わが庭の歳時記
   梅雨の合間に咲くのが、アジサイとゆり、
   ゆりにも種類があって、他の種類はまだ蕾が固いのだが、カサブランカ系統のゆりは、開花が早いようである。
   この鎌倉に移ってきてから、カサブランカ系統のゆりを随分庭に植えたのだが、このピンクのシルクロードだけが残って、白いカサブランカや黄色いコンカドールなど全部消えてしまった。
   オランダでは、気候に恵まれていて、どんな球根も植えっぱなしで良いのだが、日本には、梅雨があるので、球根は掘り起こして翌年を迎える方が良いのだろうが、レィジーな素人ガーディナーには億劫であり植えっぱなしにしている。
   カサブランカもオランダで作出された花なのだが、民家の前庭の花壇に咲き乱れていた花の中には、あまり、ゆりの花を見かけなかったような気がしている。
   
   
   
   

   花壇にツメキリソウが張り出してきた。
   椿が、花芽を着け始めた。晩秋からの開花が楽しみである。
   ブルーベリーの実が大きくなってきた。
   この台風崩れの熱帯性低気圧が過ぎていったら、本格的に熱い夏になるのであろう。
   水害も心配だが、水瓶の水量が回復して、渇水が避け得て、水不足にならないように祈りたい。
   
   
   
   
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久しぶりの旅:佐渡旅行(6)

2022年07月04日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今度の佐渡旅行は、72歳の老耄の涯に、お上をないがしろにしたと言う覚えなき理由で、将軍義教に、佐渡流謫の刑に処された世阿弥を偲ぶ旅でもあった。
   しかし、世阿弥が最初に立ち寄った長谷寺の門前に立っただけで、世阿弥の佐渡に於ける遺跡やゆかりの場所には、一切立ち寄らなかった。
   日蓮大聖人の故地を訪れているうちに、場所は正確な位置であったとしても現状は様変わりで、むしろ、抱いていたイメージと全く違った印象に陥ってしまうのに戸惑いを感じたからである。
   まず、単純は話、先日読んだ藤沢周の「世阿弥最後の花」のイメージを壊したくなかったし、私が多くの世阿弥の能の舞台を観たり本を読んで培世阿弥の世阿弥の世界を壊さずに、この地で、世阿弥が晩年を過ごしたと感じさえすれば、それで良かったのである。

   余談になるが、例えば、ストラトフォード・アポン・エイボンの路地に迷い込むと、今にも、シェイクスピアが飛出してくるような錯覚に囚われたり、ヴィッテンベルクに行けば、マルティン・ルターが、大聖堂の壁に「九十五ヵ条提題」を貼り付けた宗教改革のはしりの雰囲気が分かるような気がした。それがないのである。
   石と煉瓦の文化には、歴史を封じ込める要素があるが、日本の木と紙の文化には、悲しいかな、紆余天変が激しくて、すべてを忘却の彼方に消し去ってしまう。

   さて、「京都は着倒れ、大阪は食い倒れ。佐渡は舞い倒れ、という言葉があるとかで、佐渡には、日本の能舞台の3分の1が集中しているほど、能の盛んな土地だと言うことである。
   世阿弥が、将軍足利義教によって佐渡に流罪となったのは、永享6(1434)年5月であるから、その影響があったのかどうかは不明だが、藤沢周は、世阿弥がその種を蒔いたことを小説で匂わせている。
   佐渡芸能によると、
   佐渡の能楽の始まりは、慶長9(1604)年、佐渡代官として渡島した大久保長安が、能楽師常太夫・杢太夫、そのほか脇師・謡・笛・太鼓・大鼓・小鼓・狂言師一行をつれてきたことによります。そして、寛永12(1635)年、佐渡奉行伊丹康勝が相川の春日社の祭礼に能を奉納しました。また、正保2(1645)年も、能楽師常太夫が登場することもあるので、大久保長安とともに来島した人物が襲名した二代目と思われます。いずれにしても、この2人によって佐渡の能の基盤は作られました。

   私は、実際の能舞台に接したくて、大膳神社に出かけて、境内の広い庭に立つ野ざらしの能舞台を観に行った。
   東京で見慣れている能舞台は、ビルの中や立派な建屋の中に鎮座まします冷暖房完備で、照明や音響設備の整った近代的な劇場だが、本来の能舞台は、稲穂の靡く田園地帯の森に、このように野ざらしで、風雨をものともせず存在するのである。
   
   

   佐渡伝統芸能館では、京の都につながる伝統・芸能・文化を再現と言う形で、佐渡へ配流されてきた3人のロボットが、時代を超えて佐渡の昔へタイムスリップして、故事来歴を演じる。
   世阿弥は、能舞台に立って、雨乞いの能を舞う。
   正法寺に、世阿弥がこの時掛けて舞ったという「神事面べしみ」があり、藤沢周が感動的な舞台を展開しているので、世阿弥にとっては、佐渡での最も重要な営みであったのであろう。
   
   
   

   泊まっていたホテル佐渡リゾートホテル吾妻のロビーに、鏡板が設えられていて、能人形が一体ディスプレィされていた。
   やはり、能の島である。
   私の観能は、殆ど、国立能楽堂などで演じられる最高峰の能なので、佐渡で地方の能を観たいと思ったのだが、残念ながら、1週間ずれていてチャンスをつかめなかった。
   
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久しぶりの旅:佐渡旅行(5)

2022年07月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   日蓮大聖人について、佐渡流罪に関する本を探してみたが、思ったほどなくて、本間守拙著「日蓮の佐渡越後」と田中圭一著「新版 日蓮と佐渡」。
   前者は、サブタイトルが遺跡巡りの旅なので、観光案内書という位置づけだが、佐渡出身の種々キャリアを積んだ僧侶であるから相当重量のある大聖人論を展開していて興味深い。
   後者は、佐渡出身の歴史学者の著書で、師から民衆不在の佐渡史の指摘を受けて、「日蓮の書き残した主張・教学と、流人日蓮を育んだ島人、村落とは無縁ではあり得ない」と考えて、「多くの消息文や日興が発給した多くの本尊などを歴史解明の第1の手がかりとして、第2に日蓮の住んだ村々を問題の糸口として、村落や在家を調べる作業を続けて、今日までの日蓮の遺跡に全面的に検討を加え、多くの疑問を正し、後世の潤色を剥がして、佐渡に於ける本当の日蓮像とその足跡を著したと言う貴重な学術書である。佐渡を知り尽くした歴史学者が、大聖人の御書や関係書類、それに、歴史的な古文書や膨大な資料を検討し尽くして、佐渡の関係地方を悉く踏破し克明に検証して、「日蓮の佐渡に於ける真実に迫る」のであるから、感動的である。
   実際的にも、日蓮大聖人の生涯は、承久4年(1222年)2月16日- 弘安5年(1282年)10月13日とされており、現存する佐渡にある日蓮ゆかりの寺院仏閣など遺跡の大半は、生誕800年、それ以降に建設されたものであるので、そのものが、正確な故地であり遺跡であるかは、疑問なしとしないのは当然である。

   さて、まず、何故、大聖人が、佐渡流罪となったのか、田中圭一教授の前著を借用して要約すると、
   1260年、日蓮は、時の最高権力者北条時頼に、「立正安国論」を上程し、法華経を持って国を治めなければ、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(外国からの侵略)の二難が起こると警鐘を鳴らした。「御尋ねもなく御用いもな」く、一ヶ月後草庵を多くの念仏者たちが襲撃して、辛くも難を逃れて鎌倉を逃れるが、鎌倉に戻ると逮捕されて伊豆に流罪となる。伊豆流罪赦免後、故郷の安房に戻るが、小松原で地頭東条景信に襲撃され、重傷を負い幾人かの門弟を失う。南無妙法蓮華経を弘通し始めて以来受難の連続である。
   しかし、鎌倉では、「立正安国論」で嘆いたとおり、地震や火災など災難が続き、勢いを増してきた蒙古から牒状が届き他国侵逼難が俄に現実味を帯びてきた。日蓮は一貫して「立正安国論」の節を曲げず、南無妙法蓮華経を」用いなければ国が滅びると警告し続けて、諸宗に対する批難をより強めて、公の場での問答対決を幕府に求め続けた。
   当時の日本国内は、天変地夭が続き、外からは蒙古の属国となることを迫られ、鎌倉は酷い旱魃で、幕府に命じられて極楽寺良観が何百人もの僧を集めて雨乞いをしたが、ついに雨は降らなかった。
   面目を失った良観の嫌がらせや謀計、諸宗の僧等は日蓮を憎み、様々な讒言を幕府にたれ込み、それに結託した幕府の弾圧など、一門の苦難は続く。
   釈迦が本懐を明かされた真実正直の教えは法華経のみで、法華教以前に説かれた爾前経は、方便の経、真実を明かしていない仮の教えであると、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊として、エスタブリッシュメントたる幕府とそれを信仰する諸宗派を、徹底的に否定して糾弾するのであるから、誹謗中傷、弾圧は勿論、松葉が谷、小松原、龍ノ口など襲撃や法難に遭遇し、伊豆や佐渡への流罪など苦難の連続、
   権力を握っていた当時の政教複合体が、徹底して日蓮一門を迫害弾圧したということであろうか。
   評定所に呼ばれて、侍所所司平左衛門尉頼綱から尋問を受けたが、この時も日蓮は多くの経文を引きながら「立正安国論」の自説を展開したので、頼綱は逆上した。更に、「立正安国論」を添えて送付し諫暁したので、頼綱は数百人の兵士を引き連れ日蓮を逮捕する。
   その夜、頼綱はいきなり日蓮を斬首しようと、腰越・龍ノ口の刑場に連行し、刑を執行しようとしたら光り物が宙を舞い異変が起きて、兵士達が怖じ気づいて刑を免れる。佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に拘束され、日蓮に対する処罰を決めかねていた幕府は、ついに佐渡への配流を決定する。
   これが、佐渡流罪までの経緯だが、佐藤賢一の「日蓮」を読み、長谷川一夫の映画「日蓮と蒙古大襲来」などを見れば、その一端が分かる。
   
   佐渡に到着して、最初の配所が、塚原の墓地の破れ三昧堂、
   ”十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり、・・・”
   これが、塚原の三昧堂だが、ここで、いきりたつ諸宗派との「塚原問答」を受けて立ち、悉く論破したので、阿仏坊などの信者を得て、監視役の本間重連や天台の学僧最連房までもが帰伏した。「開目抄」も著した。

   さて、この塚原の三昧堂だが、現在、両津と真野を結ぶ県道南線沿いの新穂村大野の「根本寺」が継承している。
   しかし、先の田中圭一教授の検証で、「日蓮遺文」と付合する地は、現在の目黒町熊野神社から共同墓地までを「塚原」だと推定されて、田園地帯の真ん中に、塚原跡碑が建っている。
   いずれにしても、当時の面影を偲ぶ縁は微塵もないが、瞑目して時空の彼方に思いを馳せる。
   
   
   
   
   

   もう一つ、大聖人に取って重要な配所は、一谷。
   国道350号線の鍛治町から北に入り石田川沿いに町道を進むと、妙照寺につく。
   残念ながら、昔ながらの茅葺きの荘厳な本堂と客殿庫裏などが、昨年12月の火災で消失してしまい、平地になった本堂跡を再建のために業者が測量に入っている。消失前の本堂写真は、インターネットから借用した。
   「観心本尊抄」を著した2年半の草庵跡は、西手の小高い丘の中腹にある祖師堂が昔を忍んでいるという。
   
   
   
   この佐渡にも日蓮大聖人の感動的な逸話などナラティブがあるが、イメージが湧かないので、省略する。
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久しぶりの旅:佐渡旅行(4)

2022年07月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   矢島・経島を出て、海岸線45号線を東にとって、松ヶ崎の手前の多田で左折れして181号線を北上して山の中に入って根本寺を目指した。
   この間、そして、それ以降も、日蓮大聖人の故地や古寺を訪れているが、この関係については、後日纏めて書いてみたいと思っている。

   ところどころ集落らしき所に近づくと波打ち際に漁船が乗り上げていて、漁師の住居が並んでいるのだが、街道沿いには、めぼしい店もなければ家がぽつりぽつりある感じで、関東の雰囲気とは全く違った風景が続く。
   
   
   

   赤泊に近づいたところで、道路沿いに、北雪酒造の看板が見えた。
   昨夜、飲み比べで飲んだ佐渡の地酒で、辛口で好みに合った酒で、名前を覚えていたので、車を止めて店に入った。
   適当に選んで買ったのだが、
   私は、地酒については、その土地の食事と一緒に頂いて、最も美味しい酒であって、どの地方のどこで飲んでも美味しいというのとは一寸違うような気がしている。
   これは、ドイツの地ビールが、その土地の食事、例えば、駅前で一寸一杯と言うのなら、フランクフルトならフランクフルター、ニュールンベルグならニュールンベルガー、ウィーンならウィンナーと言ったその土地のソーセージに一番合うのと同じで、フランスやイタリアの地方で食事をするのなら地ワインに限ると思っている。
   コーラもアメリカで飲んだときには美味しかったが日本では飲む気がしないし、典型は、ブラジルのガラナ―(コーラのような国民飲料)を日本に持ち帰って飲んだら飲めなかったのである。
   監査で、日本各地を回ってあっちこっちで会食をしてきたが、名前を聞いたこともないような上等な地酒で頂いて至福の時間を過ごせた経験がいくらでもある。

   尤も、ヨーロッパでは、ミシュランの星付きレストランでは、すべてワインはソムリエ任せで、蘊蓄を聞き置くだけで、何をどう飲んだのかなど覚えていないが、日本でも欧米でも、高級ディナーでは、グローバル水準の似つかわしい酒やワインがあるのであろうが、また、次元の違った話である。
   
   

   その日は、佐渡の繁華な中心を抜けて、西側の七浦海岸に出て、相川の佐渡リゾートホテル吾妻に泊まった。
   七浦海岸は、海檀・岩礁の続く独特な海岸で、夕日が美しいというので、大いに期待したが、幸い、西の空は晴れていて雲が薄い。
   ホテルは、高台にあって遮るものはなく絶好のポジションである。
   
   
   
   

   夕食は、広い立派なダイニングルームで、結構賑わっているのだが、無粋なコロナ対策のアクリルカーテンがないのが良い。
   やはり、海鮮料理の豪華なディナーで、地酒の伴奏で楽しませて貰った。
   
   
   

   このホテルの建物は、南北に細長いので、南側に面した客室の窓からは、西の海に沈む夕日は直接見えないし、同じ方向のレストランからも見えない。
   丁度、夕日が波間に近づいて真っ赤に空が染まり始めた頃に、係の人が、食事のテーブルはそのままにしてと言って、外に誘導し、広々とした西に傾斜した芝生の美しい広場に誘う。
   まさに、この写真のように美しい佐渡の七浦海岸の初夏の落日である。
   
   
   
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