この問題は裏返しにして、「絶対に八百長をしてはいけない場合」と設問することも出来る。絶対に八百長をしてはいけない場合は下拙(ゲセツ)の管見ではシモ(下)のごとく二種ある。
甲:文部省(文部科学省)の管轄下で「良い子のみんな」のお手本にならなければならない場合。もっとも、八百長は日本の文化であり、協調性の同義語と見なしうるとすれば厳密に考える必要はないかもしれない。あなたの会社の人事では協調性イコール八百長といって差し支えあるまい。政治家の場合もそうだ。昨年暮の郵政造反議員の復党など典型的な例である。なにしろ「情というものがある」でしょう。しかし、八百長が日本特有のものであると決め付けてはいけない。それを言うなら人類共通の文化というべきでしょう。ただ程度の問題がある。また国や地域によって八百長のタイプが種々ある。肌合いといいますかね。相撲協会は財団法人で一種の脱税黙認事業だから八百長をしていて、していませんとウソをつくのは大問題だ。北の湖理事長を国会の証人喚問に呼ぶべきではないでしょうか。
乙:公認賭博の対象である場合(将来そうなった場合)。賭博者に対する公平性を担保するために八百長は絶対に認められない。競馬のことを考えれば理解しやすいだろう。
歴史:日本相撲協会は永遠ではありませんよ。長島さん、いや北の湖親方。また常しなえ(トコシナエ)の伝統があるものではありません。日本相撲協会が出来たのは1925年すなわち大正の末であります。その歩みは軍部とともにありました。軍人が相撲の最大の庇護者でありました。ガチンコなる徳が軍人の気質にマッチしたのでしょう。その軍人があらゆる職業の中でもっとも謀略性(八百長に通じる)に富んでいたのは皮肉です。もっとも、世界の、あるいは地域の覇権を狙うパワーはどこでも軍隊イコール謀略のかたまりです。今のアメリカがそう、かってのソ連がそう、今のロシアがそう、シナがそう。かっての日本の軍部も骨の髄まで謀略性に富んでいました。初代の相撲協会の理事長は大日本帝国陸軍主計中将でありました。
様々な衣装:紅白歌合戦のOZUMAも肉襦袢(ニクジュバン)を着ていたようです。だいぶ物議をかもしました。八百長にもさまざまな肌合いがございます。日本は独特でありますな。節度があって、ふうわりとしておる。あからさまではない。いまのは八百長かな、そうではないかな、と詮索する楽しみがあった。いや、うまい八百長だったと隠居を感心させた。いまのモンゴル勢や欧州勢が入り込んできた八百長はちょっと肌があいませんな、という見巧者もございますようで。あまりにも直截で露骨でありますからな。カイオウや栃東のように大関の角番になったかと思うと何回でも復活してくる。引退するかと思えば、アーラ不思議ウソみたいに強くなる。栃東なんか関脇に落ちて10勝して大関に二、三回カムバックしているのではありませんか。むかしはこんな化け物みたいな力士はいませんでした。平幕でも番付が急上昇したかと思うと急降下する、いわゆるエレベータ力士は八百長の常連でしょう。引退した旭鷲山みたいなのはね。