花田家の35日法要もどうやら終わったようだ。一家の芯柱が無
くなると家族内のグループダイナミックスにも混乱がある。花田
家の新秩序が定まるのにはちょっと時間がかかるだろう。今日の
ワイドショーではなにか展開があったようなことを言っているが
さて、前世紀の初頭は、世界が新秩序を模索して動揺した時代だ
った。正確に言えば1904-1905年の日露戦争が世界旧秩
序崩壊の第一章の幕があけるわけだ。まず第一次世界大戦までを
振り返ろう。
1902年1月 日英同盟調印(英国が栄光ある孤立を捨て歴史
上始めて結んだ軍事同盟)
1904年2月 日露戦争はじまる
1905年 日本、日露戦争に勝利
1905年9月 日露講和条約(アメリカ、セオドア・ルーズベ
ルト大統領<共和党>の仲介)
日露戦争に日本が勝利したことは欧州列強のアジア進出を始めて
阻止し、欧州の世界支配にチェックをかけた歴史的な意義は大き
い。
しかし、その前後の動きもきわめて示唆に富むものである。
すなわち、日英同盟の果たした重みであり、また戦後処理にアメ
リカがしゃしゃり出てアジアの経営に一枚噛もうと機会を捉えて
いることである。(講和条約仲介で恩を売る)
1914-1918年 第一次世界大戦
この戦争が世界に与えた影響は甚大である。ユーラシア大陸の三
つの大帝国が消滅した。すなわち、オーストリア・ハンガリー帝
国、ロシア帝国(ロシア革命)、オスマン・トルコ帝国である。ド
イツは国王が退位して共和制になった。
一方この戦争で利益を得たのは日本とアメリカである。しかし、
新しい世界政治のグループ・ダイナミックスが定まってみると
結局アメリカのみが勝利者であった。アメリカと日本の政治力
の差であろう。アメリカは戦後のベルサイユ講和会議でも、国
際連盟設立でも指導的な役割を果たした。日本はもっぱら太平洋
諸島、南洋諸島の獲得のみに気を取られて世界戦略がなかった。
第一次世界大戦直前から戦後処理の初期まで二期八年にわたりア
メリカ大統領をつとめてのがウッドロー・ウイルソン(民主党)
である。彼の任期に対応する時期日本は四人の首相でまかなって
いる。
1913年5月 カリフォルニア排日土地所有禁止法、以後各州
で同様の法律が成立。
1924年の排日移民法で集大成される。内容は州によって多少
の相違はあったものの、ようするに、日本移民に土地所有を認め
ず、また三年以上の土地賃貸契約を認めないという内容が多かっ
たようだ。原因は日本移民の経済的成功に対する嫉視によるもの
である。
この排日の動きが日本における反米感情を刺激した。後々の日米
の決定的な対立につながる(昭和天皇独白録など)。この動きは
1980年代の日本資本によるアメリカ不動産の買占めに対する
反発に似ている。勿論、時代が違うからたどった経緯は異なって
いる(お互いに過去の経験からの学習効果もある)。
1914年6月 第二次世界大戦勃発
1914年8月 日本ドイツに宣戦布告
1917年4月 アメリカ、ドイツに宣戦布告
1917年11月 ロシア革命
1918年11月 第一次世界大戦終わる
1919年 6月 ベルサイユ条約(講和条約)調印
1920年 1月 国際連盟成立
1921年3月 ウッドロー・ウイルソン大統領退陣
1921年12月 四カ国条約(日、英、米、仏、太平洋問題に
関する一般的国際協定)成立にともない日英同盟は翌
1922年満期失効
嘉永年間、赤鬼ペリーが来航し日本に開国を迫った。捕鯨船の水
薪の補給が名目だがイギリスなど欧州に主導権を握られているシ
ナ大陸の利権が最終目的で、日本の開国はその第一歩であった。
要するに裏口から入ろうとしたのである。ところが、その後南北
戦争が勃発、内戦でアメリカ国内は疲弊して東洋進出は一頓挫し
た。そのあいだに、日本は急速に成長し、あまつさえ、イギリス
と軍事同盟を結び、アメリカの付け込む余地はあまり無くなって
しまった。アメリカにとって日英同盟は目の上のタンコブである。
アメリカが日本に埋め込めたのは野球だけであった。なにしろ、
アメリカ人が来て三日後にはちょんまげの侍たちが夢中でバッ
トを振り回していたという。本当かどうか知らない。しかし、た
とえ話としては良く出来ている。野球は静から急激な動作へと
向かう珍しいスポーツである。バッターとピッチャーの呼吸が
合ってコンセンサスが成立しないとタマが有効に投げられないの
は相撲の立会いに似ている。
閑話休題。ウイルソン大統領当時、日本とイギリスの海軍力を合
わせるとアメリカのそれをはるかに凌駕していた。当時のウイル
ソン大統領のもとで海軍次官補をつとめた後のアメリカ大統領フ
ランクリン・ルーズベルトは嫌と言うほど、その現実を認識させ
られた。
さて、第一次大戦後のたがが緩んだ世界情勢でなんとかイギリス
に日英同盟の延長をさせないようにしようというのが、アメリカ
政策の要となる。工作が功を奏して日英同盟が失効するのは、ウ
イルソン退陣一年後の1922年であるが、彼の長年の工作が成
功につながったといえよう。1921年11月、アメリカの運動
工作で太平洋問題に関する一般協定というものがアメリカ、イギ
リス、日本、フランスの間で締結された。四カ国条約といわれる。
これは軍事同盟でもなく、いわばお茶の間サロン的な政治討議の
場みたいなものである。とくに、アメリカの強い主張で太平洋に
比較的勢力のないフランスを引き込んだことで無害な社交組織に
なってしまった。
そして、四カ国条約が出来たらから、日英同盟はいらないだろう
と英国を説得して翌年1922年に日英同盟は満期失効した。
日本の外堀は埋まった。この時点で太平洋の覇権はアメリカに約
束された。あとは時期を待って獲物をおびき出せばよいのである。
弱り目に祟り目というのはこのことか、1922年2月、元老山
縣有朋が死亡した。元老と言うのは首相のキングメイカーであり
バックシート・ドライバーである。いろいろと問題はある。しか
し、明治維新の修羅場を潜り抜け、狼のような欧米列強の間を立
ち回って、彼らの餌食にならず、国をここまでもってきた。智謀、
慎重さ、臆病さ、バランス感覚、果敢さを満遍なく兼ね備えてい
た。バクロウあがりで利権ばかりが判断基準の角栄とは違う。
山縣有朋の死後、日本のキングメイカーは実質的に軍事官僚集団
となった。彼らは陸軍大学校を出たエリートで責任をとらないこ
とで有名なとっちゃん坊やたちである。なにしろ、武士の華とも
いうべき自決にぶざまに失敗して、世界に恥をさらした人間もい
たくらいである。
日英同盟なしに世界の荒波を乗り切れるはずがない。維新60年
の大業はすべて烏有に帰し、日本が「大博打、身ぐるみはがれて、
スッテンテン」になるのは日英軍事同盟が失効し、維新最後の功
臣山縣有朋が死んでから二十余り三年後である。
なお、ウイルソン大統領がフリーメーソンであったかどうかは、
未だ之を詳らかにしない。
くなると家族内のグループダイナミックスにも混乱がある。花田
家の新秩序が定まるのにはちょっと時間がかかるだろう。今日の
ワイドショーではなにか展開があったようなことを言っているが
さて、前世紀の初頭は、世界が新秩序を模索して動揺した時代だ
った。正確に言えば1904-1905年の日露戦争が世界旧秩
序崩壊の第一章の幕があけるわけだ。まず第一次世界大戦までを
振り返ろう。
1902年1月 日英同盟調印(英国が栄光ある孤立を捨て歴史
上始めて結んだ軍事同盟)
1904年2月 日露戦争はじまる
1905年 日本、日露戦争に勝利
1905年9月 日露講和条約(アメリカ、セオドア・ルーズベ
ルト大統領<共和党>の仲介)
日露戦争に日本が勝利したことは欧州列強のアジア進出を始めて
阻止し、欧州の世界支配にチェックをかけた歴史的な意義は大き
い。
しかし、その前後の動きもきわめて示唆に富むものである。
すなわち、日英同盟の果たした重みであり、また戦後処理にアメ
リカがしゃしゃり出てアジアの経営に一枚噛もうと機会を捉えて
いることである。(講和条約仲介で恩を売る)
1914-1918年 第一次世界大戦
この戦争が世界に与えた影響は甚大である。ユーラシア大陸の三
つの大帝国が消滅した。すなわち、オーストリア・ハンガリー帝
国、ロシア帝国(ロシア革命)、オスマン・トルコ帝国である。ド
イツは国王が退位して共和制になった。
一方この戦争で利益を得たのは日本とアメリカである。しかし、
新しい世界政治のグループ・ダイナミックスが定まってみると
結局アメリカのみが勝利者であった。アメリカと日本の政治力
の差であろう。アメリカは戦後のベルサイユ講和会議でも、国
際連盟設立でも指導的な役割を果たした。日本はもっぱら太平洋
諸島、南洋諸島の獲得のみに気を取られて世界戦略がなかった。
第一次世界大戦直前から戦後処理の初期まで二期八年にわたりア
メリカ大統領をつとめてのがウッドロー・ウイルソン(民主党)
である。彼の任期に対応する時期日本は四人の首相でまかなって
いる。
1913年5月 カリフォルニア排日土地所有禁止法、以後各州
で同様の法律が成立。
1924年の排日移民法で集大成される。内容は州によって多少
の相違はあったものの、ようするに、日本移民に土地所有を認め
ず、また三年以上の土地賃貸契約を認めないという内容が多かっ
たようだ。原因は日本移民の経済的成功に対する嫉視によるもの
である。
この排日の動きが日本における反米感情を刺激した。後々の日米
の決定的な対立につながる(昭和天皇独白録など)。この動きは
1980年代の日本資本によるアメリカ不動産の買占めに対する
反発に似ている。勿論、時代が違うからたどった経緯は異なって
いる(お互いに過去の経験からの学習効果もある)。
1914年6月 第二次世界大戦勃発
1914年8月 日本ドイツに宣戦布告
1917年4月 アメリカ、ドイツに宣戦布告
1917年11月 ロシア革命
1918年11月 第一次世界大戦終わる
1919年 6月 ベルサイユ条約(講和条約)調印
1920年 1月 国際連盟成立
1921年3月 ウッドロー・ウイルソン大統領退陣
1921年12月 四カ国条約(日、英、米、仏、太平洋問題に
関する一般的国際協定)成立にともない日英同盟は翌
1922年満期失効
嘉永年間、赤鬼ペリーが来航し日本に開国を迫った。捕鯨船の水
薪の補給が名目だがイギリスなど欧州に主導権を握られているシ
ナ大陸の利権が最終目的で、日本の開国はその第一歩であった。
要するに裏口から入ろうとしたのである。ところが、その後南北
戦争が勃発、内戦でアメリカ国内は疲弊して東洋進出は一頓挫し
た。そのあいだに、日本は急速に成長し、あまつさえ、イギリス
と軍事同盟を結び、アメリカの付け込む余地はあまり無くなって
しまった。アメリカにとって日英同盟は目の上のタンコブである。
アメリカが日本に埋め込めたのは野球だけであった。なにしろ、
アメリカ人が来て三日後にはちょんまげの侍たちが夢中でバッ
トを振り回していたという。本当かどうか知らない。しかし、た
とえ話としては良く出来ている。野球は静から急激な動作へと
向かう珍しいスポーツである。バッターとピッチャーの呼吸が
合ってコンセンサスが成立しないとタマが有効に投げられないの
は相撲の立会いに似ている。
閑話休題。ウイルソン大統領当時、日本とイギリスの海軍力を合
わせるとアメリカのそれをはるかに凌駕していた。当時のウイル
ソン大統領のもとで海軍次官補をつとめた後のアメリカ大統領フ
ランクリン・ルーズベルトは嫌と言うほど、その現実を認識させ
られた。
さて、第一次大戦後のたがが緩んだ世界情勢でなんとかイギリス
に日英同盟の延長をさせないようにしようというのが、アメリカ
政策の要となる。工作が功を奏して日英同盟が失効するのは、ウ
イルソン退陣一年後の1922年であるが、彼の長年の工作が成
功につながったといえよう。1921年11月、アメリカの運動
工作で太平洋問題に関する一般協定というものがアメリカ、イギ
リス、日本、フランスの間で締結された。四カ国条約といわれる。
これは軍事同盟でもなく、いわばお茶の間サロン的な政治討議の
場みたいなものである。とくに、アメリカの強い主張で太平洋に
比較的勢力のないフランスを引き込んだことで無害な社交組織に
なってしまった。
そして、四カ国条約が出来たらから、日英同盟はいらないだろう
と英国を説得して翌年1922年に日英同盟は満期失効した。
日本の外堀は埋まった。この時点で太平洋の覇権はアメリカに約
束された。あとは時期を待って獲物をおびき出せばよいのである。
弱り目に祟り目というのはこのことか、1922年2月、元老山
縣有朋が死亡した。元老と言うのは首相のキングメイカーであり
バックシート・ドライバーである。いろいろと問題はある。しか
し、明治維新の修羅場を潜り抜け、狼のような欧米列強の間を立
ち回って、彼らの餌食にならず、国をここまでもってきた。智謀、
慎重さ、臆病さ、バランス感覚、果敢さを満遍なく兼ね備えてい
た。バクロウあがりで利権ばかりが判断基準の角栄とは違う。
山縣有朋の死後、日本のキングメイカーは実質的に軍事官僚集団
となった。彼らは陸軍大学校を出たエリートで責任をとらないこ
とで有名なとっちゃん坊やたちである。なにしろ、武士の華とも
いうべき自決にぶざまに失敗して、世界に恥をさらした人間もい
たくらいである。
日英同盟なしに世界の荒波を乗り切れるはずがない。維新60年
の大業はすべて烏有に帰し、日本が「大博打、身ぐるみはがれて、
スッテンテン」になるのは日英軍事同盟が失効し、維新最後の功
臣山縣有朋が死んでから二十余り三年後である。
なお、ウイルソン大統領がフリーメーソンであったかどうかは、
未だ之を詳らかにしない。