この国の住民の物忘れは甚だしいものがある。もうこりごりだと思った戦争が終わって、僅か60年しか経っていないのに、もっと上手くやっていれば勝てた戦争だったと言いだす連中がいる。
戦後僅か5年後の、朝鮮戦争ですでにそうした連中が台頭し始めている。そん典型が先ごろ政権を放り出した阿倍ボッチャマの祖父の、A級戦犯の岸信介である。
とりわけ、唯一の被爆国の日本は広島・長崎を中心とした「非核」思想が根 底にあったはずである。
ところが、6者協議などを見ていると、新たな核開発に反対しているだけのように見えてならない。つまり、アメリカなどの大国の核は容認して、そのおこぼれにあずかろうというのである。
これは、核兵器反対思想の放棄である。アメリカや中国の核兵器の存在をも否定しない姿勢は、被爆国の基本的な思想・ヒューマニズムの原点さえも放棄するものであるといえる。
毎年、元旦に核兵器廃絶を訴えて座り込む、長崎の人たちはその原点を失っていない。銃撃されながら一命を取り留めた、元長崎市長の本山さんは高齢を押して出席している。
原爆仕方がなかった放言の地元出身の元防衛庁長官も、見習ったらどうだろう。この国の政権内には、喉元過ぎれば忘れたしまう連中が群れをなしている。
阿倍ボンもそうであったが、日本核武装論を唱える連中が後を絶たない。大阪知事選に立候補するなどと言っている、弁護士タレントも同じことを言っている。
非核とは、特定の国核兵器を容認しながら、新たな国の核開発に反対するものであってはならない。あらゆる国の核兵器に反対することである。ましてや、北朝鮮のように管理すらおぼつかない国が、外交の取引として使われる現実を、認めてはならないのである。