日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

伊坂幸太郎の小説「終末のフール」を読む

2006-05-01 08:09:16 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
私の3冊目の伊坂本です。
8つの短編からなるその第1番目が「終末のフール」
書名「上手いな」と、思うことが多い昨今、なんか意味不明な題名。媚びていないところが(私が勝手にそう思っている)いい。でも、そのために出会わない人がいるとしたら気の毒だけれど(アハハ、何を心配している⇒私)。
面白い。
暮らしの周辺で日々思っていることを、代弁、いや自分が気付くより先回りして(どちらかであるかはともかくとして)、書き留めてくれている気分になれる。
今度は小惑星(大きな隕石)がぶつかり、誰も助からないという場面設定。
その話が持ち上がったのは5年前で、残り時間が後3年になった仙台の街。
その話のひとつに「篭城のビール」
兄弟が銃を持って、元ニュースキャスター家族を襲う。残り3年を「のうのうと生かせて置くわけにはいかない」と。
兄弟の妹は事件の被害者になり、過剰な取材・報道に追い込まれ、自殺。母も後を追って自殺。家庭は崩壊したと。
そのことについて元キャスターは
「…能天気にあのテレビの仕事をしてきたのではない」
「罪の意識に苛まれている」と。
そんな言葉は弟には不快感でしかないのだけれど、元キャスターに畳み掛けるようにこういわせている。
「テレビは屑だ」「いや、私は屑のテレビ屋だった」
「行きすぎていた。天狗になっていたんだ。君たちの言う通り、地球が終わると分かったとたんに、逃げ出した。それで気付いたんだ。どんなに格好つけていたとしても、結局私の持っていた使命感なんて大したものではなかった」と。
そして、実は家族がいま行おうとしていたことが、兄弟の目的と違わないということが分かり、そのまま目的達成させてはならぬ、と話は予期せぬ展開へ。
書き手の言いたいことはしっかり言うのに、重くならず暖かい。
冷たくきっぱり死神(著書「死神の精度」)を書いても、暖かい伊坂さん。
「ウーン、不思議」と、一瞬思うけれど、分かるような気もします。
相手(登場人物)を理解しようと思う誠実さであふれているからかな?
人は、分からず納得いかないままに、ずかずか入り込まれることに不快感を持つのかもしれません。
装丁(カバー写真)が面白い。ダンボールで作ったこれはノアの箱舟かしら。

現実の話でも、偽装事件で話題の人の家族の自殺がありましたね。先日は保釈の本人取材で黒山の報道陣をテレビは映していました。
異常に追い掛け回して、次々と刺激的な映像を提供しようとするテレビと、受け手の視聴者。
ゴールデンウィークの最中の今朝。
テレビをつけたら、ホ○○氏の今後は…と、真剣に論議されていました。いや、「真剣な表情で」と言い直しますね。それは装いなのか、本当なのかは分かりません。画面に並んでいる人の口過ぎであることは確かな気がします。
現実がココロを疲弊させるから、この本にやさしさを感じるのでしょうか。
コメント
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