日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

電話。

2018-03-07 07:11:10 | 私の雑感あれこれ
仕事や事務連絡以外には、めったに電話をしなくなっている。

かつて電話かけ放題のシステムが開始されると聞いて、プロバイダーの予約までした私なのに。

母。

以前から耳がよくなかったのに、脳梗塞で倒れて、そのあと退院してからは、まったく受話器の私の声を聞こえないという。
それまでは、電話してきていた。長距離電話なので料金が同居家族の迷惑にならないように、一度切って、わたしからかけなおしていたものです。

今は、そんな気遣いしなくてもいい環境にいるのに、何の因果か、聴力の衰えで電話できない。
弟は時々、声だけでも、と受話器を替わってくれるけれど、「世話になっている。(弟夫婦に)ありがとうと言ってくれ」の繰り返しがきこえるだけ。細かい話題はできなくなった。耳の聞こえない生活をしているから、周りから入ってくる情報が極小となり、それでも考えていないはずはないから、同じことを繰り返し考えているのだろう(多分)。

今月半ばに久しぶりに顔を見に行く。
本当はもっと頻繁に、のつもりが、雪が解けてからにしたら、ということで、同窓会出席を兼ねての今月になった。
茶の間の母の定位置の手の届くところにあるカレンダーに「○○ 来る」と書き込みがしてあるに違いない。

2泊のうちの二日目は同窓会会場の温泉泊になる。
で、帰りにも、もう一度顔を出してこようと思う。

祖母(母にとっては姑)は94歳でなくなった。
祖母が90歳を超えたころだったと思うけれど、母は、「ばぁちゃんは、一回一回、○○に会うのが今度が最期になるかな」という気持ちで見送っているんだよ、といったのが、母。

だから、帰りの高速バスの予約時間をひとつ遅くした。

耳が聞こえなくて、話し込むことはできなくなったけれど、きっと、あふれほどの気持ちは持っている母だと思うから。


タイトルと焦点がずれてしまった。

綴りたいことの重心は別にあったのに、、、。またの機会に。


■思いのかけらを付け足します。

定期便のように絵手紙を描いて送るのもいいかな、と思うこともあるけれど、していない。
倒れる前に何枚か送った絵手紙を母は当時住んでいた家の2階の寝室に貼っていたものです。世話をしない癖に、体裁よく絵手紙を送って喜ばそうなんて、そう思われるのではないかと、変に邪推する癖がついています。今の弟の奥さんは器量が大だから、そんな気遣い不要な気がしてはいるのですが。
息子の大学時代に学生ミュージカル「キャッツ」に出演したビデオを母に送ったことがあります。孫のビデオは当然何度も見たいのですが、一度同居家族に操作してもらっただけで、また見たいと長男夫婦に頼むわけにいかず、知り合いの家で2回目を見せてもらったと。
ま、そのビデオは遠方に住む本人に返却したので、実は私ももう一度見たいのですけどね~。今ならDVDにコピーします。苦笑







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庭仕事から。

2018-03-07 06:41:44 | 庭 3月
冬をじっと耐え過ごしたワスレナグサ、アガパンサスなど、冬越しの草花が春の日差しを浴びて生き生きしだした。
冬越ししてきた葉っぱは、干からびたり、黄ばんだりして力尽きた様相をしていたりする。

去年は極力古い葉っぱを取り除く手入れをしたけれど、今年はヒザ、コシが痛いから、作業省略~~の気分でした。

見て見ぬふり。そんな感じで庭を回っていたのだけれど、

ここ数日の3月の光に、役目を終えた葉っぱをそのままにしておくのはどうかな、と気分変わりして、少しずつ光合成をしそうもない葉っぱを撤去し始めています。

茶色くチリチリになった葉っぱを取り除くと、さぁ~がんばって花を咲かせるからね、と返答が聞こえてくるようです。
でもね、この忘れな草のチリチリになってしまった葉っぱは、去年の花時の葉っぱではなく、秋口から繁ったもののように思っています。
そう、花株を次の年につなぐために、花が咲かないときに光合成をして根っこに栄養を送る役目。
同じ葉っぱなのに、めでられる時期がなく終わってしまうのね、と作業をしながら、ひとりそんなことを思っています。

あちこちにたくさんの株がひしめいているワスレナグサの葉っぱ処理が全部できるかどうかはわかりませんが、黒ずんだ葉っぱを摘出するとき、あなたの役目は済んだんだね、と声なき声をついかけてしまいます。


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