これまでにもいくつもの城を訪ねた話題を書いてきたけれど、カテゴリーを独立させることにした。
さて、どれだけの城をめぐり、史跡を訪ねることことができるか、です。
昨日は、隣市のお城に行ってきました。この地に暮らし始めて、ずっと沿線道路は通っているし、「あれが岩崎城」とは周知していました。けど、城の中に入ったのは初。
(ひとりでスケッチには行ったことがあるだけでした)
日差しもあって、三々五々と人出はありました。こんなちっちゃな(勿論、コンクリートで再現した城)城でも、興味がある人は多いのね~、というのが、第一印象。団塊の世代かそれ以上の世代も多かったです。
1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなり、跡継ぎ問題で、豊臣秀吉側と織田信雄(のぶかつ、信長の二男)・家康側が対立。
当時の岩崎城城主は4代目丹羽氏次。
両軍は、お互い、犬山、小牧に陣を張ってにらみ合いとなっていた。
秀吉方の池田恒興は、家康の岡崎城を攻めようと提案。進軍途中のにある岩崎城で、家康方の丹羽氏の兵300名と戦になります。
岩崎城を預かっていたのは、16歳の丹羽氏重でした。丹羽氏重側の兵300名であり、池田の軍勢7000名にはかなわず全滅。しかしながら、岩崎城の戦いで足止めを食ったことが、そのあとの「小牧、長久手の戦い(1584年)」で、家康軍が有利に戦えたということで、家康は城主の丹羽氏次を高く評価した、と原因となった戦が、秀吉軍を足止めり役割をしたことで、長久手の戦いで有利になった、とのこと。
1584年に廃城になった。
途中でwi-fiが切断したようで、中断。
再度接続できたのですが、記事の後半が消えました。
古戦場跡も近いし、桶狭間にはずいぶん以前に行ったきり。
いろいろ近場の史跡も訪問したいと思います。
歴史を楽しむのは、人の迷惑にはならないだろうし、若い時に感じる味わいとはまた別の捉え方で、自分の中に入ってくるように思えるから、もっと積極的にこれからの楽しみにしようと思います。
さて、どれだけの城をめぐり、史跡を訪ねることことができるか、です。
昨日は、隣市のお城に行ってきました。この地に暮らし始めて、ずっと沿線道路は通っているし、「あれが岩崎城」とは周知していました。けど、城の中に入ったのは初。
(ひとりでスケッチには行ったことがあるだけでした)
日差しもあって、三々五々と人出はありました。こんなちっちゃな(勿論、コンクリートで再現した城)城でも、興味がある人は多いのね~、というのが、第一印象。団塊の世代かそれ以上の世代も多かったです。
1582年の本能寺の変で織田信長が亡くなり、跡継ぎ問題で、豊臣秀吉側と織田信雄(のぶかつ、信長の二男)・家康側が対立。
当時の岩崎城城主は4代目丹羽氏次。
両軍は、お互い、犬山、小牧に陣を張ってにらみ合いとなっていた。
秀吉方の池田恒興は、家康の岡崎城を攻めようと提案。進軍途中のにある岩崎城で、家康方の丹羽氏の兵300名と戦になります。
岩崎城を預かっていたのは、16歳の丹羽氏重でした。丹羽氏重側の兵300名であり、池田の軍勢7000名にはかなわず全滅。しかしながら、岩崎城の戦いで足止めを食ったことが、そのあとの「小牧、長久手の戦い(1584年)」で、家康軍が有利に戦えたということで、家康は城主の丹羽氏次を高く評価した、と原因となった戦が、秀吉軍を足止めり役割をしたことで、長久手の戦いで有利になった、とのこと。
1584年に廃城になった。
途中でwi-fiが切断したようで、中断。
再度接続できたのですが、記事の後半が消えました。
古戦場跡も近いし、桶狭間にはずいぶん以前に行ったきり。
いろいろ近場の史跡も訪問したいと思います。
歴史を楽しむのは、人の迷惑にはならないだろうし、若い時に感じる味わいとはまた別の捉え方で、自分の中に入ってくるように思えるから、もっと積極的にこれからの楽しみにしようと思います。