詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

サム・メンデス監督「エンパイア・オブ・ライト」(★★★★)

2023-03-04 21:02:33 | 映画

監督 サム・メンデス 出演 オリビア・コールマン、マイケル・ウォード、コリン・ファース

 スピルバーグの映画がどうも気に入らなくて……。予告編で見た「エンパイア・オブ・ライト」で目を洗い直す感じ……。(「対峙」も予告編の緊迫感がすばらしい。)
 「エンパイア・オブ・ライト」は「ニュー・シネマ・パラダイス」ではなくて、「オールド・シネマ・パラダイス」という感じだが、映像が、なんといっても英国風で湿度と奥行きがある。そこが好き。
 屋外の風景だけではなく、室内も、湿気があって、それが色に反映している。私が日本の湿度になれ親しんでいるから、イギリスの色を好むだけなのかもしれないが。
 「オールド・シネマ・パラダイス」だから、どうしても「純粋」というわけにはいかないのだが、その「純粋じゃない」部分のなかに「純粋」を探し出してしまうという感じが、まあ、しみじみとします。
 コリン・ファースが、この映画のなかでは、誰もが「大嫌い」と言うに違いない役を演じているところが、なんともおもしろい。かつては美少年、英国王を演じてアカデミー賞(主演男優賞)をとったんだけれどね。
 あ、こんな脱線は、どうでもいいか。
 スピルバーグの映画がそうであったように、そして「ニューシネマパラダイス」がそうであったように、映画のなかの映画が、この映画でもとてもいい。大好きな「チャンス」の大好きなシーンが、一部はなんと、音だけで出てくる。豪邸の、豪邸だからこそあるエレベーターに乗って「この部屋は小さいね」。あっけにとられて、笑うのを忘れる、というか、忘れるまでに「間」がある。「チャンス」はドタバタを含むコメディーだったけれど、そのドタバタさえ「間」があった。「間」がコメディーを「芸術」に昇華させていた。(と、書くと、コメディー・ファンに叱られるかもしれないが。)
 で。
 この「間」なんだけれど。
 イギリスはやっぱりシェークスピアの国だねえ。セリフの強さと「間」で、芝居をリエルに変えていく。ことばをつきつけられたら、嘘をつかない。ことばにしない限り、それは「秘密」だし、ことばにすれば、それはすべて「事実」(現実)になる。だからこそ、ことばにするかどうか、「間」が必要になる。「間」のなかに「真実」が凝縮している。
 引きこもりのオリビア・コールマンを精神科病院へつれていくために部屋に侵入するところのやりとりは、まあ、すごいもんだねえ。オリビア・コールマンは何も言わず、顔だけで演技をするのだけれど、それがなんというか、やっぱり「間」なんだなあ、と思う。
 思えば、スピルバーグの映画というのは「間」を、ほかの監督よりも短くすることで成り立っているね。スピード感。私が経験する「間」、想像する「間」よりも短い。つまり、速い。その加速度にのっかって、映画が展開する。
 この映画は、逆。
 スピードを上げない。とどまる。ゆっくりと進む。その「ゆっくり」のなかに力がこもる。加速度に頼らない。「ゆっくり」、あるいは「進まない」動きのなかに、人間が存在している、その力を見せる。それが登場人物の「生き方」も決定する。
 それにしても。
 再生の象徴としての、最後の緑の美しさ。このままずーっと見ていたいと思う。そして、この緑についても、「チャンス」が反映しているね。

 

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スティーブン・スピルバーグ監督「フェイブルマンズ」(★★)

2023-03-03 22:18:02 | 映画

スティーブン・スピルバーグ監督「フェイブルマンズ」(★★)(中州大洋スクリーン1)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、ガブリエル・ラベル

 予告編を見たときから不安だったのだが、その不安が的中した。おもしろいのは、映画のなかの映画の部分だけ。肝心のドラマが紙芝居っぽい。
 スピルバーグの「自伝」らしいが、ここには「自伝」特有の「ためらい」がある。そして、それが映画をつまらなくしている。自伝だから、家族が出てくる。自分の家族を描くというのは、とてもむずかしい。スピルバーグの両親が生きているかどうか私は知らないが、どうしても家族に対する「配慮」が働く。「悪く」描けない。「憎しみ」を描ききれない。
 で。
 どういうことが起きるか。
 映画が「ストーリー」になってしまう。登場する人物が「演じる」前に、ストーリーがすべてを説明する。映画なんて(小説なんて、詩なんて、と言ってもいいが)、「ストーリー」なんか、どうでもいいのである。「人間」が生きているかどうかが問題なのである。
 つまり。
 この映画では、母親の「浮気」が一つのテーマだが、この「浮気」が、その「浮気」の一番いい部分が、少年の撮る「家族ムービー」のなかだけで、生き生きしている。「映画のなかの映画の部分だけ」と最初に書いたのは、そういう意味である。そこには、なんと、映画の質を高めるのは、「狙い」のなかにどれだけ偶然が入り込んでくるか、あるいは偶然カメラのなかに入ってきてしまったものをどれだけ「リアリティー」として吸収(消化)し、作品に昇華させていくことができるか、ということと関係している。なぜ、それが映っている? わからない。しかし、よく見ると、それが映っていた。そして、それが「現実」なのだ、ということが映画を、突然、すばらしいものにする。かけがえのないものにする。母親の浮気のシーンは、まさに、それである。
 それは、浮気相手が母親に帽子をかぶらせるシーンが特徴的だが、ちらって見た目にはなんでもないこと、ほほえましい親愛のシーンなのだが、別のシーンが組み合わさると、全然違ったものになる。「意味」がかわる。「意味」とは、そこにあるものではなく、ひとの認識がつくりだすものだからである。
 そういう意味では、映画は「つくるもの」ではなく、「つくらされるもの」でもある。そういうことを、この映画は語っている。
 この映画の秘密は、また、別のシーンでも語られる。戦場の死体のなかを歩く軍曹かなにか知らないが、責任者がいる。演技指導をして、撮影をはじめる。そうすると、その軍曹は少年の演技指導を上回る演技をする。しかも、それは「顔」ではなく、「背中」の演技なのだ。歩く後ろ姿なのだ。
 スピルバーグに限らないが、名監督といわれるひとたちは、そういう瞬間をのがさずに組み合わせることができる能力を持っている。そういうことをスピルバーグは少年のころからやっていた、と意識して見れば、これはこれで、たしかに「立派な自伝映画」だとは思うが、やっぱり、退屈。
 ゴールデングローブ賞の作品賞、監督賞、主演女優賞を獲得しているが、これは「御祝儀」のようなものだ。アメリカ人は「実在の人物(実際にあったこと)」を評価するのが好きな好き人が多い。有名人を「そっくりさん」として演じると、たいてい主演男優賞、主演女優賞が獲得できるし、作品賞も獲得することが多い。人への評価(称賛)と作品を混同していると思う。
 アカデミー賞でもいくつかの部門でノミネートされているが、私はこういう作品や演技をおもしろいとは思わない。
 「激突」や「ジョーズ」は、スピルバーグってだれ?と、何も知らない観客が見てもおもしろい映画だった。この映画を、スピルバーグってだれ? そんな人聞いたこともない、という人が見ておもしろいと何人が言うだろうか。

 


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マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)

2023-01-30 21:34:22 | 映画

マーティン・マクドナー監督「イニシェリン島の精霊」(★★★★★)(中州大洋スクリーン1、2023年01月30日)

監督 マーティン・マクドナー 出演 コリン・ファレル、ブレンダン・グリーソン、バリー・コーガン、ケリー・コンドン

 打ちのめされる。希望しか存在しない絶望というものがある。一方、逆に、絶望が唯一の希望ということもある。この映画は、ふたつが交錯するのだが、私は、後者に強く揺さぶられた。
 希望しか存在しない絶望をコリン・ファレルが演じ、絶望しか存在しない希望をブレンダン・グリーソンを演じるのだが、映画のなかの年齢で言えば、ブレンダン・グリーソンに近いせいか、彼の絶望と希望(欲望といってもいい)に「チューニング・イン」してしまう。
 絶望のために、彼は、自分の指を切り落とすのだが、それしか希望を実現する方法がないからである。絶望と引き換えに、音楽を完成させる。それ以外に、方法を見つけることができない。
 この絶望が、コリン・ファレルにはわからない。同じように絶望が唯一希望であるケリー・コンドンにも、わからない。それはブレンダン・グリーソンが音楽をめざしているのに対し、ケリー・コンドンは文学(読書)を支えにしている違いから来るかもしれない。ブレンダン・グリーソンは「つくりだす」愉悦を求めている。ケリー・コンドンは「つくりだす」愉悦を求めてはない。
 言い直すと。
 ブレンダン・グリーソンにとって、音楽がつくりだせるなら、その音楽が「絶望」をあらわしているか、「希望」をあらわしているかなど、問題ではないのだ。だから「絶望」を唯一の「希望」として生きることができる。音楽が完成したとき、左手の指を全部切り落としてしまうが、その「絶望」と音楽を引き換えにする決意があったからこそ、音楽が完成した。そこには、「絶望」の愉悦があるのだ。
 これは、希望しか存在しない絶望しかわからないコリン・ファレルには、わからない。ここに、もうひとつ、絶妙な人間が登場する。希望しか存在しない希望を生きるバリー・コーガンである。彼には、絶望がわからない。警官の父親に殴られようが、オナニーをしながら眠り込んでしまった裸の父親を見ようが、絶望しない。絶望できない。絶望できないというのは、絶望に耐える力がないということである。だから、ケリー・コンドンに見捨てられたと知ったとき、その絶望に耐えられずに自殺してしまう。
 このバリー・コーガンと比較すれば、絶望しか存在しない希望を生きているブレンダン・グリーソンの強さがわかる。彼は、絶望するからこそ、生きていられるのである。指を切り落としたからこそ、生きていられるのである。
 希望しか存在しない絶望という「凡庸」を、しかし、コリン・ファレルは非常にうまく演じている。私は、コリン・ファレルの鋭さのない目(焦点がない目)が好きではないのだが、この映画ではそのおどおどした目も効果的だ。希望とは、彼にとって、いつも自分のなかから生まれてくるものではなく、だれかから与えられる何かなのである。希望をつくりだすことができない。だから、希望しかない絶望というのだが。希望を自分でつくりだせれば、絶望はしない。
 この、何もつくりだせない「凡庸」を端的にあらわしているのが、彼のついた嘘である。ブレンダン・グリーソンを困らせるために、ブレンダン・グリーソンの友人である音楽大の学生に嘘をついて島から追い出す。そのために、バリー・コーガンからも見捨てられるのだが。バリー・コーガンの自殺は、ケリー・コンドンに捨てられたことよりも、コリン・ファレルが信じられなくなった(希望にはなり得なかった)ということが原因かもしれない。
 こう書いてくると、これは映画よりも芝居(舞台)の方がわかりやすくなる作品かなあとも思った。マーティン・マクドナーは、「スリー・ビルボード」が映画というよりも、舞台(芝居)みたいで、少し物足りなかった。「芝居指向」の強い監督なのかもしれない。脚本を書くのも、「芝居指向」のあらわれだろう。今度も舞台っぽいのではあるけれど、舞台(土地)そのものが劇的で、そこにしか存在しない空間の美しさに満ちていて、効果的だった。海と荒野しかないから、人間がむき出しになる。人間の、希望と絶望がむき出しになる。
 私は最近ほとんど映画を見ていないのだが、これは傑作。希望しかない絶望は多くの人が描くが、絶望しかない希望を強靱に描き出す監督は少ない。マーティン・マクドナーは、そのひとりだ。

 

 

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オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)

2022-12-04 15:03:53 | 映画

オドレイ・ディワン監督「あのこと」(★★★)(2022年12月03日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 オドレイ・ディワン 出演 アナマリア・バルトロメイ

 ノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの小説が原作。主役の女性が1940年生まれという設定だから、1960年ごろのフランスが描かれていることになる。アメリカを揺るがしている中絶問題がテーマなのだが、フランスはそれをどんなふうに解決したのか、問題を克服したのか。しかし、映画は、これをフランスの問題、あるいは国家の問題としては描いていない。ひとりの女性がどう向き合ったか、そのとき社会が(男が)どう対応したか、それに対して主人公がどう反応したかに焦点を絞って描いている。
 だから。
 この映画の特徴は、視線が拡散していかないところにある。情報量が少ないわけではないのだが、すべてが主人公の身体に接近した場所で描かれる。この主人公の肉体との距離をどう感じるか。ひと(他人)との距離の取り方は、習慣というか、国民性によって随分違うと思う。フランス(人)のことは私はよく知らないが、どちらかというとひととひとの「物理的距離」は近い。挨拶のとき抱き合ったり、キスしたり、カフェなどの座席の距離も狭い。しかし、「心理的距離」はどうか。独立心が強いというべきか、わがまま度合いが強いというべきか、意外と「遠い」。「遠い」(距離感が広い)から、わがままが許されるのだろう。そして、いったん対立すると、近づかなくなる。日本は、「物理的距離」はかなり広いが、「心理的距離(拘束感)はかなり強い。「同調圧力」(というらしい)がある。他人の「わがまま」を否定し、自立を許さないところがある。
 この映画は、私が感じているままの「フランス人の距離感」で展開する。
 カメラは主人公に密着する。いつも彼女から離れない。いつも1メートル以内(もっと短い、50センチ、30センチの距離か)にいる。遠くのものがカメラの中に入ってくるときもあるが、それはあくまで彼女の視線がその遠くのものをみつめたから。たとえば大学の教室での、離れた席にいる男、教壇にいる教師を見るという具合。主人公の「視線」から自由にカメラが世界をとらえるわけではない。
 印象的なシーンがいくつかあるが、私にとってもっとも強烈だったのは、海のシーン。主人公が男友達と海へ行く。沖へ向かってどんどん泳いでいく。男が危ないと追いかけてくる。このときカメラが映すのは海の広さではない。追いかけてくる男や、遠ざかる岸も映さない。ただ水のなかで泳いでいる女を映す。彼女は、自分だけではどうすることもできない圧倒的なものと対面している。それは「全体」が見えない。水のようにただ肉体に絡みついてくる。決して「親身になることのない(近づいてくれない)」ものが、肉体のそばにぴったりとはりついている。ここに、彼女の「息苦しさ」が象徴されている。戦いたくても戦えない、助けを求めたいのに誰も助けてくれない。「いのち」が、ただ、「いのち」のまま存在している。巨大な、手に負えないもののなかで。
 問題は。
 このとき、私はどこにいるのか。私は、彼女にとって、たとえば巨大な海なのか。彼女を追いかけてきて、「引き返せ」といっている友達なのか。わかっているのは、私は彼女ではない、ということだけなのだ。この映画のなかには、私は、いない。そのことを、もっとも強烈に感じさせるのが、この海のシーンだ。そして、私がそこにいない(関与できない)にもかかわらず、私を彼女の「30センチ以内」の距離に引っ張りこむのがカメラなのである。
 私は、ほんとうは、そこにいるのだ。たとえば、主人公に妊娠を告げる医師として。流産を引き起こすと嘘を言って流産防止薬の処方箋を書く医師として。助けを求められた男友達として。あるいは、堕胎の処置をする女として。同じ寮の友達として。その距離の中にいて、彼女を拘束するのではなく、彼女の独立とどう向き合うか。「30センチ」の距離以内に入らなければ、まあ、「知らん顔」ができる。私には無関係ということができる。しかし、カメラは、そういう私の「わがまま」を許さない。
 他人を「わがまま」と切って捨てることは、もしかしたら簡単かもしれない。私と無関係ということは簡単かもしれない。しかし、簡単だから、その方法がいいとはいえない。これが、むずかしい。この映画が、ある瞬間、「恐怖映画」のように迫ってくるのは、その「距離感」があまりにも現実的だからかもしれない。古い時代設定だが、時間の距離を超えて迫ってくる。特に、あの海のシーンでは、そこには「歴史(過去)」ではない「時間(いま)」が動いている。

 

 

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ペドロ・アルモドバル監督「パラレル・マザーズ」(★★★★)

2022-11-05 18:13:09 | 映画

ペドロ・アルモドバル監督「パラレル・マザーズ」(★★★★)(2022年11月05日、キノシネマ、スクリーン3)

監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、ミレナ・スミット

 この映画のいちばんの見所は、ミレナ・スミット。10代のシングルマザーの役。アルモドバルが手抜き(?)して撮っているイントロダクションの部分は、いや、ほんとに顔見せ。ペネロペ・クルも、ここは単なる「導入部」という感じで演じているので、見ている私も「これは物語を説明するだけのものだなあ」という気分で見ているし、ミレナ・スミットをちょっと変な顔だなあ。アルモドバルは変な顔の女が好きだからなあ、という中途半端な感じで見ていたのだが……。
 自立して、カフェで働き始め、ペネロペと再開するところからがぜん輝きだす。髪を切り、染めて、一瞬だれだかわからない。ペネロペが「アナなの?」と言って、そのことばで、あ、ミレナ・スミットかとびっくりする。この激変の過程には、過酷な「過去」があるのだが、その「過去」がペネロペの秘密と重なっていく辺りが、見物中の見物。
 いいですか?
 役者というのは、脚本を読んでいる。つまり、ストーリーを知っていれば結末も知っている。それなのに、ストーリーも結末も知らないふりをして演じないといけない。「秘密」はほんとうはペネロペとミレナに共通するものだが、秘密の「ほんとう」を知っているのはペネロペだけ。ミレナは知らない。その「知らない」を、きちんと演じないといけない。その「知らない」ミレナにペネロペは、真実を言うべきかどうか苦悩する。ペネロペの役は、演技の経験がない私がいうとヘンだけれど、役者なら演じることができる(と思う)。苦悩には、だれでも同情してくれるしね。ペネロペが涙を流すのを見て、笑い出す観客はいないだろうからね。
 真実を知らないまま、言い換えるとペネロペの「秘密」にあやつられる形で、ミレナは立ち直っていく。この過程がとってもおもしろいし、そこに嫉妬がからんできて、ミレナがペネロペを翻弄してしまうシーンなど、これ演技? と思うくらいの迫力。演じるのはペネロペであって、ミレナの実際の動きはほとんどないのだけれど、そのペネロペの変化を引き出している「存在」としての、なんともいえない「存在感」がすばらしい。
 そのあと、ミレナはペネロペの手を離れてというか、ミレナがペネロペを切り捨てて、さらに自立していくのだが、これを、もうペネロペは止めることができない。ペネロペは感情の揺れというか、感情を演じているのだが、ミレナは感情だけではなく「意思」をも演じている。
 これがね、ほんとうにすごい。
 意思を持たなかった女が、意思を持って動き出すというは、昔で言うとジェーン・フォンダが巧みに、演じて見せたが、ふとそんなことも思い出してしまうのだった。これからのアルモドバルの映画の「宝物」になるかもしれない。演じているではなく、「意思」が生きている、という感じがするのである。「意思」がそこに存在するなら、「感情」の変化など、演じなくてもいいのだ。感情は、彼女のまわりが(たとえば、ペネロペや母親が)演じて、そこに「世界の陰影」を反映すればいいのだ。

 最初と最後に、スペイン内戦のことが少しだけ出てくる。これが私には、かなり強引に感じられるが、内線を生き抜いた女性を描くのが、これからのアルモドバルのテーマなのかもしれない。戦争は戦う男の視点で描かれることが多いが、内戦で死んでいく男を見続けた女の姿をアルモドバルは、どう描くのだろうか。ミレナ・スミットが中心人物を演じるだろうなあ。早く、それを見てみたい。

 


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作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

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エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)

2022-08-07 17:00:31 | 映画

エマニュエル・クルーコル監督「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」(★★★)(2022年08月07日、KBCシネマ、スクリーン2)

監督 エマニュエル・クルーコル 出演 カド・メラッド、マリナ・ハンズ、ロラン・ストッカー

 ベケットの「ゴドーを待ちながら」を囚人が演じる。「待っているだけ」という状況が囚人の状況と重なる。そこから、ふいに「現実」が噴出してくる。それをそのまま舞台に生かす、という演出方法で演劇そのものは大成功を収める。
 映画は、その成功までの過程を手短に紹介する。そして、「それ以後」をていねいに描写していく。これがなかなかおもしろい。芝居の中に、隠れていた現実(意識できなかった現実)がことばとして動き始めるとき、そのことばを語った役者たちの現実はどうなるのか。たとえば芝居の上演後、刑務所へ帰って来た囚人たちは、持ち物検査や身体検査を受ける。それは現実? それとも「芝居」(虚構)の一部? もし、それが絶対に隠すことのできない現実だとすれば、それをことばにするとどうなる? ベケットは、もう助けてくれない。つまり、自分のことばを探し、自分で語らないといけない。どう語ることができるか。
 このむずかしい問題を、囚人たちは、とてもみごとに解決して見せる。
 語らないのである。最終公演の直前、「ゴドーを待ちながら」を演じた五人は、逃げ出してしまう。「現実」の世界へ「隠れてしまう」。声を出せば、見つかり、刑務所に戻される。もちろん、再び逮捕されるかもしれないという「不安」はあるが、それよりも求めていた「現実」のなかに隠れてしまう。その「現実」がどんなものか、彼らが語ることはないから、それが何なのか、私にはわからない。ただ、事実として、そのことが伝えられる。
 ことばにしてはいけないことがあるのをことばにしたのが「ゴドーを待ちながら」だとすれば、ことばにしてはいけないことをことばにしないまま生きているのが、逃亡した五人の囚人たちである。
 このことに、芝居にかかわった人間は、どう向き合うことができるか。五人を演出した演出家(ほんとうは役者、「ゴドー」を演じたこともある)は、どうことばにすることができるか。それは、ほんとうはことばにしてはいけないことかもしれない。しかし、人間だからことばにしてしまう。それがクライマックスなのだが。
 このクライマックス寸前の、二、三分の描写がてともおもしろい。ここだけなら★10個をつけたいくらいの、わくわく、どきどき、はらはら、なのである。五人が逃亡したことを知った演出家は、五人を探し回る。上演開始まで20分。劇場内を探し、街を探し、鉄道(地下鉄)の駅にまで行く。ひとりで走り回る。この間、ひとこともしゃべらない。いや、「五人を見なかったか」というようなことは訪ねるが、ほかはことばにならない。ことばは彼の肉体の中で動き回っている。ことばは、それが自分の声なのに、聞き取れないくらいに錯綜しているだろう。つまり、聞こえすぎて、わかる必要がないくらい明確になる。
 あ、この瞬間こそが、「ゴドー」の舞台なのだ。「ゴドーの登場人物」は、彼ら自身の声が「わかりすぎる」。わかりすぎて、わからなくなる。他人に説明のしようがない。それがわかりすぎるということだ。
 だからね、映画は、ここで、中途半端のまま終れば、大傑作になったと思う。
 でもね、映画だから「結末」が必要になる。「結末」に本物のベケットの反応まで「引用」してしまう。しようがないといえばしようがないが、それでは「ベケットの反応」は明確になることで、逆に存在しなくなってしまう。
 あ、何を書いているか、たぶん、誰にもわからない文章になっていると思う。
 それでいいのだと思う。
 私はこれから「ゴドーを待ちながら」を読み返すことにする。
 

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マイク・ミルズ監督「カモンカモン」(★★★★)

2022-05-01 17:30:36 | 映画

マイク・ミルズ監督「カモンカモン」(★★★★)(2022年05月01日、中州大洋、スクリーン4)

監督 マイク・ミルズ 出演 ホアキン・フェニックス、ウッディ・ノーマン

 「ジョーカー」でアカデミー主演男優賞をとったホアキン・フェニックスが、わがままな子役を相手にどういう演技をするか。それを期待して見に行ったのだが、おもわぬ収穫もあった。物語の舞台が次々にかわっていくのだが、モノクロの映像が、登場人物の表情に焦点を当てるので、見ていて意識が散らばらない。舞台(都市)の変化をきちんととらえながらも、それがうるさくない。都市の表情、その情報量が抑制され、人間の心理の変化が際立つ。画面の切り替えが多いし、「字幕情報」も多いのだが、モノクロの映像が、そのままストーリーの中心になる感じがする。モノクロ映画は、やっぱりすばらしい。
 ホアキン・フェニックスは演技をしているというよりも、子役のウッディ・ノーマンにあわせて反応している感じ。自分で演技し、世界をつくっていくという感じではない。「ジョーカー」と正反対の演技をしている。しかも、それがこの映画にはぴったりなのだ。なんといっても、ストーリーは感情の起伏が激しい子ども(甥)にふりまわされるおとなという役所なのだ。しかも彼は単に子どもにふりまわされるだけではない。彼は自分なりの信念をもっていて、その信念ゆえに妹とも対立している。いわば「理想」をもった頑固者なのだが、それが子どもに揺さぶられて、かわっていく。
 しかもね。ホアキン・フェニックスの映画の中での職業が、子どもをインタビューしてまわるラジオ局員というのも、とてもおもしろい。子どものことをある程度わかっているはずが、わかっているつもりだが、実際に子どもと暮らしてみると、知っている子どもとはぜんぜん違う子どもが大暴れする。どう対処していいかわからない。そういう、なんというか、大人の「自信」を打ち砕かれる過程を描いているのである。「自信」というのは、他者に対して、おうおうにして「殻」のような働きををしてしまう。それが破れたとき、彼自身も解放される。その、不思議な幸福感。
 さらに、その変化の結果として、子どもとの信頼関係ができ、一線を越えるというと変だけれど、まるで「理想の父親」のようになってしまう。しかし、そこから「叔父」にもどらなければならない。そうしないと、ほんとうの父の方が不幸になってしまう。で、当然のことだけれど、そこから引き返す。その瞬間に広がる、彼の世界の幸福の多様さ。これが、とてもいい。
 そこから耳を澄ませてみれば、それまでにインタビューしてきた子どもたちの「未来」に対する考えの、なんという美しさ。子どもがインタビューに答えたことばに変化があるわけではないが、子どもの声が「純粋」に響いてくる。ラストのクレジットで、その声がかなり長く紹介されるのだが、とてもいい。
 それにしても、ホアキン・フェニックスの、自然な演技のすばらしさ。「クレイマー、クレイマー」のダスティン・ホフマンの演技よりも自然に感じられる。そして、この演技を自然なものにしているもうひとつの理由が別にある。「ジョーカー」では非常に痩せた肉体で、存在の異様性を前面に打ち出したホアキン・フェニックスだけれど、今回はシャツの上からも(背中からの映像だけでも)、でっぷりと太った「ふつうの中年男」になっている。このふつうの感じが、ほんとうに、とてもいい。ここに描かれているのは、どこにでもあり、またどこにもない幸福である。どこにもない幸福が、どこにでもある(どこででも実現できる)ように具体的に描かれている。その細部の美しさ、確かさ(存在感)がホアキン・フェニックスのだらしない(?)太った肉体にあると書くと、叱られるかな? ホアキン・フェニックスのファンからは。しかし、太っても、美形だね。

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アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)

2022-04-24 10:52:01 | 映画

アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)(2022年04月23日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 アスガー・ファルハディ 出演 アミール・ジャディディ

 この映画がいちばんおもしろいのは、「事実」を知っているのが主人公と観客だけであるということだ。登場人物は大勢いる。主役は借金で刑務所にいる男。愛人がたまたま金貨の入ったバッグを拾う。それを換金して借金を返そうと思う。しかし、良心がとがめて、バッグを落とした人を探し、返すことになる。そして、実際に返すのだが、このことが「報道」されると、だんだん話がこんがらがってくる。金貨を返したというのは、ほんとうか。だれが、その金貨を見たか。噂(ねたみ?)が噂を呼んで、SNSを通じて、どんどん「疑い」が広がっていく。金貨を見た人が主役と愛人と、主役の周辺のわずかな人しかいない。噂を否定する「根拠」がないのだ。
 で、この映画で考えさせられるのが、この「事実」に対する向き合い方なのだ。なぜ、こんな不思議な映画が成り立つかといえば、「コーラン」を信じる人の「人間観」が影響している。コーランは神と人との「一対一」の契約である。その「一対一」の「直接性」が人間関係に影響している。簡単に言うと、大金を拾ったら、日本人なら警察に届ける。この映画の主人公は、そういうことをしない。直接、落とし主を探し出し、直接、拾った金を返す。「一対一」なのだ。「一対一」だから「証拠」はいらない。しかし、「証拠」を残さないから、第三者はどこまでも疑うこともできる。人間は「疑う生きもの」なのである。映画の中で、「神に誓って」ということばが出てきたかどうか、ぼんやりして聞き逃したが「息子に誓って」ということばを主人公は言ったと記憶している。これは「息子との一対一の信頼関係」の延長線上のことばとして「事実」を言うということ。私のことばが間違っているなら、その影響が自分の息子に及んでもいい、ということである。日本の「経済関係」で言えば「連帯保証人とし息子を差し出す(古いことばで言えば、人質として息子を差し出す)」くらいの意味がある。この「一対一」の信頼関係は神との契約の引写しである。だから、それを壊すことは、コーランを信じている人には神との関係を裏切ることであり、「罪」であり「恥」である。この映画には何度も「恥」とか「名誉」ということばが出てくるが、それは「神との一対一の関係」を裏切ることは人間にとって「罪」であり、同時に「恥」でからである。この「恥」は人間に対してというよりも神に対する感覚の反映なのである。そういうことが、ぐさりと刺さってくる映画である。
 で。
 ここからが、さらにおもしろい。この「一対一」の関係は、マスメディアによって(テレビによって)、「一対多」の関係に変わる。正確に言うなら「一(主人公)対一(テレビ)対一(視聴者=多数)」。「テレビ」は媒介だから、それは「主人公(一)対視聴者(多)」お変わってしまう。「一対一」なら「説得」できるが、「一対多」の状況では説得は非常にむずかしい。ひとりが多くの人に対応していられない。さらにややこしいのは、テレビ取材に応じているときは、まだ「主人公対テレビ」という「一対一」だったののが、現代の「メディア」は最初から「多」であり「多」のそれぞれが「一」であるということだ。SNSがわかりやすいが、「発信」はだれでもできる。だれが「取材」し、だれが「発信」しているかもわからない。そしてその「発信回数」には制限がない。(テレビの場合は、同じことを何度もくりかえし放送できない。)多く発信すれば、それが大多数になる。金を返した男は正直者だという発信が一回。それに対して男は嘘をついているかもしれない、という疑いが百回。そのとき、それを見た人は回数の多い方を信じてしまうことになってしまう。疑いを信じる根拠を、そのSNSを見た人は持たないからである。
 さらに、その「情報」が「ことば」だけである場合(金貨を返した)と、「映像」がある場合(男が、金を貸した男を殴っている)を比較したとき、「映像」の方が強く印象に残る。どんな行動にも「脈絡」があるのだが、「映像」は脈絡を無視して、男が金貸し男を殴っているという「瞬間的事実」だけをつたえる。殴ったのには「事情」があると「ことば」で言っても、それは通じないし、それを「聞かせる」ということができない。
 コーラン社会を支えていた「一対一」という基本的な「事実の場」がSNSの発達で壊されてしまっている。「事実」の特定ができないようなところにまで人間を追い込んでいる。

 ここから映画を離れて、私はこんなことも考えた。いま、世界の話題(ニュース)はロシアのウクライナ侵攻である。連日、いろいろなニュースが「報道」されている。それぞれの「報道」が「事実」を主張している。
 だが、「報道」されていることは、ほんとうに「事実」なのか。これを語れるのは、戦争で死んだ人だけである。だれによって殺されたのか。知っているのは死んでいる人だけであり、問題は、死んだ人は「証言」できないことである。
 こんなことがあった。
 私はフェイスブックを通じて、ウクライナに何人かの友人がいる。会ったことはなく、フェイスブックで「動向」を知っているだけの友人だが。その一人が、戦争がはじまってすぐ、ウクライナ兵士(たぶん)と一緒にいる写真を掲載していた。そのうちの一枚は友人の住んでいる家のなかである。家の仲間で兵士が入ってきている。その写真には「これで安全が確保できた。歓迎」というようなことばが書かれていた。あっと思った。どうしようか悩んだ。次の日、ふたたび友人のページを訪れると、その写真は削除されていた。ウクライナ兵が削除するよう要求したのか、友人が自主判断し削除したのか、あるいはフェイスブックが削除したのか、わからない。私は推測しか書くことができないのだが、もしその写真をロシア側が入手すれば、ウクライナ兵の居場所が特定できる。これは、戦争をしているときはまずいだろう。その居場所が、いわゆる「前線」ではなく、「前線」から遠く離れた都市の真ん中であるとなれば、なおさらである。
 友人は「歓迎」と書いていたが、友人が兵士を呼んだのか、それとも兵士が押しかけたのか。それも「事実」がわからない。友人が「歓迎」と書いたのか、書かされたのか、それも本人しかわからない。いま注目を集めているマリウポリの製鉄所。そこに避難している「民間人」(という表現を、読売新聞はつかっていた)は、そこに避難してきたのか、それともそこに集められたのか。その「事実」も本人にしかわからない。もし、全員が死んでしまえば、「事実」を証言できるひとはいない。「状況」から「事実」を推定することしかできない。
 「情報網」を持たない私でさえ、ウクライナの友人の家にウクライナ兵がいた(ロシアよりと推測され、調べられたのかもしれない)ということを「知っている」。証拠の「写真」を見た。しかし、「事実」については、わからない。友人に聞きたいが、もしかすると、メールなどはすべて検閲されているかもしれないと思うと、聞けない。友人がどうなるか、という保証がない。私でさえ、そういう「情報」をももっているのだから、世界には、どれだけ「情報」があふれているかわからない。私は、その膨大な情報のなかから選択された新聞のニュースを読んでいるだけである。それが「事実」であるかは、よほど慎重に見極めないとたいへんなことになる。

 この映画では「美談の男」は、結局、社会に受け入れられない。「美談」を信じてもらえない。人は、他人を称賛することよりも、他人を批判することで自分を正当化することの方を好むのかもしれない。「美談」を実行することはむずかしいからである。
 ラストシーン。
 とても美しい。男が刑務所に帰っていく。入れ違いに、一人の男が刑務所から出て行く。妻が迎えに来ている。その「一対一」。信頼はいつでも「一対一」なのである。それを見る男の表情はおだやかである。彼は、神との「一対一」の契約を守ったのである。知っている人は少ない。しかし、神は絶対に知っている。そういう安らかさである。そして、彼には、息子と愛人がいる。彼らとも「一対一」の信頼がある。
 私は神の存在を信じているわけではないが(神はいないと考えているが)、このコーランにもとづく世界観は、これからの世界(SNSが変えていく世界)との向き合い方の、ひとつの「指針」を示しているようにも思える。
 主人公の苦悩がどんどん深まるというよりも、主人公の「一対一」の関係がどんどん多数のひとのなかで希薄化されていく感じをとらえた映像、つねに周囲に男の存在が分散されていく感じの映像が、現実世界のあり方を丸ごととらえていて、とてもよかった。この分散、拡散された世界から「一対一」へどう引き返すか。これはコーランを信じている人だけではなく、すべての人間の共通の課題である。

 

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ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)

2022-04-07 14:47:20 | 映画

ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)(2022年04月07日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 ジュリア・デュクルノー 出演 アガト・ルセル、バンサン・ランドン

 冒頭、車のエンジン部分(?)のアップがつづく。エンジンではないかもしれないが、車の内部、しかもシートとかハンドルとかではなく、もっと機械的な、ふつうは人が見ることがない部分。私は車を持たないし、車に関心がないので、いま映し出されているのが何かわからない。たぶん車だろうとするだけである。強靱な構造と、それに付随する油の汚れ。あるいは、それは汚れではなく、必要な不純物かもしれないし、必要であることによって「汚れ(汚い)」ではなく「美しい」にかわるものかもしれない。何もわからない。
 けれど、そこに「ある」ということが、わかる。私のわからないものが、私とは関係なく、そこに「ある」。
 映画は、この、そこに「ある」けれど、そこに「ある」ものが何かわからな、全体がわからないから個別の意味もわからないというい状態でつづいてく。多々し、わからないといっても、最初の映像が車の内部(エンジン)であるとわかる/想像できる程度には、情報が散りばめられている。少女は交通事故で、頭蓋骨にチタンのプレートを埋め込んだ。そのチタンのせいなのか、少女は「金属」が好きである。当然、車も好きである。どれくらい好きかというと、車そのものとセックスするくらいに好きである。その結果、妊娠し、車の子ども(?)を産んでしまうくらい好きである。その一方、人間とのセックスは嫌いである。相手が男でも女でも、愛情というよりは嫌悪感の方が上回る。セックスすると(しようとすると)、相手のことが我慢できずに殺してしまう。連続殺人の果に、逃亡する。その逃亡の過程で、奇妙な消防士(隊長)に出会い……と、まあ、テキトウに、その場その場で、「その場/そのときの人間関係」が「ある」ものとして描かれる。
 これは、とてもおもしろい。そこに「ある」ものが、ストーリーとは関係なく(関係があるのかもしれないけれど/ストーリーを突き破って)、ただ「ある」ということを主張している。だいたい、車とセックスし、妊娠するということが、「現実」かというと、嘘(ありえないこと)なのだが、その嘘のなかに「車が好き/金属が好き」という「真実」があって、その嘘でしか語ることのできない真実が「ある」ということが、ただ、映像化されるだけなのである。
 こんなデタラメ、どこまでつづけられるんだろうか。
 充実した映像に酔いながら、私はちょっと心配しながら、映画をみつづけた。途中から出てくるバンサン・ランドンが妙にリアリティーがあって、主人公の少女の「嘘」を、たんなる「ある」ではなく、もっと違うものに変えていくような感じがあって、そこもおもしろいなあ、と思うのだった。
 でも、こんなデタラメ、どうなるの?
 再びそう思ったら、クライマックスに、とんでもない「どんでん返し」、というか「種明かし」。
 少女というか、主人公の女は、車の子どもを妊娠している。いよいよ出産というとき、とても苦しい。そのときの産婆役がバンサン・ランドン。彼は息子を誘拐された。何年後かにあらわれた少女を息子として受け入れている。最初は、少女を息子の名前で呼ぶ。すると少女が突然、「アクレシア」と言う。ほんとうの名前で呼んで、ほんとうの名前で私を支えて、というわけである。私は、「わっ」と叫びそうになるほど感動した。そうか「私はアクレシアである」と少女は叫びつづけていたのか。車のショーでダンスをしているとき、何人もの男にアクレシア(だったと思う)と呼びかけられ、サインも求められるが、かれらは「アクレシア」を女の名前と思っていない。車の名前、商品の名前のように、ただ呼んでいるだけだ。
 で、これも最初の方のシーン。少女が車の後ろで退屈している。父親が自分に関心をしめしてくれない。あのとき、父親は、たしか少女の名前を呼んでいない。少女は名前を呼ばれたかった。
 これは、逆に言えば、少女はだれかの名前を呼びたかった。「匿名性」のなかで生きるのではなく、固有名詞の出会いのなかで生きたかった。だからこそ、逆に、主人公に迫ってくる女が自分の名前を名乗るのに、名前を聞かれても答えない。名前は、最初にあるのではなく、信頼関係ができたあとで、名前が必要なくなったときにこそ必要なのだ。名前を呼ばなくても、だれがだれであるかわかっているとき、そのとき、あらためて名前を呼ぶということは、きっとそれは、その相手が名前を呼んだ人になるということなのだ。バンサン・ランドンが出産で苦しむ少女を励ましながら「アクレシア」と呼ぶ。そのとき、バンサン・ランドンは「アクレシア」になる。そこに「ある(生きている)」人間が、別の人間に「なる」。バンサン・ランドンが、生まれてきた赤ん坊を、まるで母親のように抱き、「私がついている」というようなことを言う。そのとき、彼は、まさに、「母親」なのだ。アレクシアそのものなのだ。
 わっ、すごいなあ。
 私はほんとうに感動したが、同時に、ちょっと待てよ、とも思った。いま、私が書いた感動は、実は、どうでもいいことである。こんな「意味」に感動していたら、映画である意味がなくなる。ほんとうに感動しなければならないのは、この奇妙な、嘘だらけの映画を「事実」に変えていくアガト・ルセルの「肉体」、その「肉体の演技」に対してである。なんだってできそうな、しなやかな肉体。そのなんだってというのは、セックスから殺人まで、という意味である。何をしたって、彼女の「肉体」は傷つかない。妊娠がわかり、堕胎しようとして鉄の棒を子宮につっこむ、突き刺す。行方不明の少年に変装するために、鼻の骨を折る。「肉体」にとってはたいへんな苦痛だが、その苦痛を精神が跳ね返していく。精神こそが肉体なのだ。妊娠した後の、醜い肉体さえ、なんだってできる強靱さを持っている。これが、衰えつづけるバンサン・ランドンの肉体(鍛えているのに、醜いと感じさせる)との対比で強調される。アガト・ルセルの肉体は、どんなにメーキャップで醜く変形させられても、なおかつ、美しく、強い。なんといっても、車の子どもを産んでしまうのだ。
 こんな、どこから語り始めていいのか、どこまで語れば気が晴れるのかわからないような作品をパルムドールに選ぶカンヌ映画祭というのは、おもしろいね、とあらためて思った。このときの審査委員長はスパイク・リーらしいが、なるほどね、とも思った。同じように車と秘密を抱えた人間の再生がテーマ(?)の「ドライブ・マイ・カー」とは比較にならない。

 「ドライブ・マイ・カー」との比較を書こうかも思ったが、もう十分に「ドライブ・マイ・カー」は批判したのでやめておくが、この映画を見た後で思い返すと、「ドライブ・マイ・カー」の脚本賞受賞というのは、まるで「チタン」がわからなかったひとは「ドライブ・マイ・カー」で車と秘密を抱えた人間の再生、沈黙と語ることの意味を理解してください、と言っているようにも見える。カンヌ映画祭は、なかなかシンラツである。

 

 

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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

2022-04-01 10:44:25 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

 映画監督・山崎哲がフェイスブックで「ドライブ・マイ・カー」を批判していた。ポイントは「日本の俳優は例によって声( 言葉) が肚に落ちてない。言葉が自分の言葉になってないんだよね。」このことばで、ふと思いついたことがあるので書いておく。
 昨年のカンヌ映画祭で「脚本賞」を受賞し、多くの人が見るようになった。先日発表されたアカデミー賞でも「国際長編映画賞」を受賞した。アカデミー賞は、まあ、追認のようなものだから、ほんとうの評価かどうか、私は怪しんでいる。でも、カンヌ映画祭の「脚本賞」は、納得はできる。「脚本」はたしかによく書かれていると思う。でも「脚本」と映画は別物なのだ。
 「脚本」も、作品によっては一こまずつ時間を指定しているものもあるだろうけれど、基本的には時間を指定しないだろう。さらに、誰が演じ、どんな声を出すかという指定はないだろう。つまり、ひとは(読者は)、脚本を自分のスピードで読むことができる。登場人物の「声」は、自分の好き勝手に想像できる。脚本を読み、30分の映画を想像する人もいれば6時間の映画を想像する人もいる。張りつめた声を想像する人もいれば、弱々しい声を想像する人もいる。時間のことは、ここでは、ちょっとわきにおいておく。
 「声」の問題を、もう一度書いておく。
 私は前回、「ドライブ・マイ・カー」について書いたとき、この映画のテーマは「声」だと書いた。そして、その「声」に作為がみえみえなので、ぞっとしたというようなことを書いた。それは最初のシーンで、すぐにわかった。見なくてもというと変だが、作為が見えるということは、結末に驚かないということである。結末に感動しない、ということである。予想された通りの展開、予想された通りの結末。安直な、すでに知っている物語の紙芝居、という感じ。
 脱線したが。
 この「声」がテーマ、そして「声」が作為に満ちているということは、たぶん、私が日本人で、日本の俳優の「声」だったから気づいたのである。ネイティブだから気がついた。初めて聞く外国人の「声」(しかもスピーカーで増幅された声)の場合、「作為の声」に気がつくかどうかは、かなりむずかしい。現実の場でなら、あ、いま、声の調子を変えた、ということは、声だけではなく、表情や仕草でもわかるが、それにしたって、話されていることば(声)を聞き慣れていないと、むずかしいかもしれない。
 カンヌ映画祭の審査員に、この「声の演技」がわかったかどうか。「声の演技」の「まずさ」が原因でパルム・ドールを逃し、「脚本賞」にとどまったのかどうか、それはわからないが。「声の演技」を気にしないで、この映画が「声」を基本にして展開し、それが「声」をもたない(というと、いいすぎになるが)手話話者との対話でクライマックスをつくりあげるという、ストーリーの構造は「脚本」を読めばわかる。映画を見れば(映画から脚本を想像すれば)、明確にわかる。
 別なことばで言いなおすと、「脚本」というのは、実際の映画、演技とは関係なく評価できるということである。「声」を聞き取る能力がなくても、「脚本」を読むことはできるのである。「声の演技」(そのよしあし)が理解できない外国人審査員だったからこそ、脚本に注目したということがありうるのだ。「声」がテーマなのに、「声」を理解できない外国人審査員が、その「ストーリーの展開の仕方」だけに焦点を当て、「脚本賞」に選んだということが、可能性としてあるのだ。
 彼らは訳者の「声」を聞かず、彼ら自身のなかにある「人間の声」を「脚本/字幕(?)」から再現し、「彼ら自身の声」に感動したのだろう。
 もちろん「日本人の声」(作為、無作為)に習熟している審査員がいて、そういう日本人の声を生かしている脚本だと評価したのかもしれないが、私には、そうは思えない。
 だってねえ。
 映画はたしかに脚本と監督が担う部分は非常に大きいが、脚本の狙いや監督の求めていることと違う何かがあらわれた瞬間が、いちばん輝かしい。脚本を超えて、役者の肉体が動き出し、まるで脚本がないかのように感じる一瞬が、おもしろいのだ。
 ちょっと思いだしたのだが。
 「サユリ」という映画。役所広司が、ほんとうはもてているわけでもないのに、女にちょっと親切にされ、それを女が自分に気があると信じて、女に「ほら、酒をのめ」と言い寄るシーンがある。その、もてない男の、一瞬の正直さ。思わず、「おいおい、おまえは振られ役なんだぞ。脚本を読んだのか。振られるのを知っているのか。ばかじゃないのか」とちゃちゃをいれなくなる。笑い出したくなる。役者は脚本(結末)を知らずに、つまり、その瞬間しか知らない人間として動いていなければならない。そういうものがないと、映画として成り立たない。
 「ドライブ・マイ・カー」の役者は、みんな「結末」を知っていて、その「結末」のために「作為の演技(声)」をしている。役所広司のように、自分の生きている現実の一瞬を、自分本位に勘違いしていない。だから、おもしろくない。すべての映像も、みんな「結末」を知っていて、それに向かって収束していく。そこには「脚本」しかないのだ。
 だいたい、劇中劇に「ワーニャ伯父さん」をつかうというのも見え透いている。「ワーニャ伯父さん」の結末(ストーリー)を知っているひとは多い。そのストーリーをちょっと見えにくくするために、他国語で演技する、なんて、「作為」以外の何でもない。「脚本賞」は「作為の構図の完成度が高かった」という評価なんだろうなあ、と思う。「ストーリーが単純明快に整理されていた脚本」という評価なんだと思う。

 

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ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』

2022-03-26 17:09:36 | 映画

ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』(★★★★★-★か★★★★+★) (2022年03月26日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 ケネス・ブラナー 出演 モノクロフィルム

 この映画の最大の特徴は、モノクロ、ということである。モノクロではないシーンもあるのだが、基本はモノクロ。このモノクロの画面が、ここに描かれているのは「記憶」だと告げる。「記憶」というのは、どんな記憶であれ、整理されている。それが変わってしまうことがない。言いなおすと、これから何が起きるのか、ストーリーはどう展開するのか、という「なぞ」がない。「なぞ」だけがもつ魅力がない。
 そのかわりに、「細部」がある。そして、その「細部」というのは「失われた細部」である。いまも残っている「細部」ではない。「失われた細部」ではあるけれど「忘れられた細部」ではない。この具体性を「懐かしい」という。
 それはそれでいいんだけれど。
 見ながら、いまではなく、別の時代に見たなら、もっと感動しただろうなあと思わずにはいられなかった。
 どういうことかというと、私は、どうしても「ベルファスト」ではなく、「ウクライナ」を思い浮かべてしまうのだ。ベルファストで起きたこととウクライナで起きていることは、問題はまったく違うはずなのだけれど、重なって見えてしまう。なぜかというと、ウクライナでも、多くの市民は何が起きているかはやっぱりわからないのではないかと思うのである。市民には、日常しかない。その日常というのは、宗教対立(武力対立)ではなくて、日々の仕事をすること、お金がないこと、学校へ行くこと、女の子にこころをときめかせること、おじいちゃんが病気になること……と、いつでも、どこでも変わりがない。そこへ、自分が望んでいない「武力対立」が踏み込んでくる。ああ、日常はどうなってしまうんだろう、と思う。
 それは「日常とは何だろう」という思いでもある。
 日常とは何か。簡単に言えば「細部」である。そして、その「細部」は他人にとってはどうでもいいことである。父親は出稼ぎに行っている。稼いだ金は競馬につかってしまう。お母さんが泣いている。宿題がわからない。おじいちゃんは、算数のごまかしかたを教えてくれる。好きな女の子の隣の席に座りたい。……という、どうでもいいことが、かけがえのない「日常」というものなのである。そして、それは、不思議としかいいようがないのだが「団結」できないものなのだ。「集団」で守ることができないものなのだ。「集団(たとえば、ふるさと、ベルファストという街、その住民)」の力では守ることができないものなのだ。「日常」はあくまで個人のものであり、それはいつでも簡単に、「日常よりも大切なものがある」という考えによって破壊されてしまうのだ。
 「日常」とは「細部」であり、「細部」とは「個人」のものであるから、そこには概念では整理できないもの、統一できないものがある。
 で、ね。
 それが、この映画では、なんというか「整理」できないはずのものが、とてもていねいに「整理」され、こういう「日常」が失われました、と描き出すのだけれど。
 そこに、私は、つまずいてしまう。
 なぜかなあ。
 私なりに考えれば(私は宗教には疎いので、ただ想像するだけなのだが)、ここにはベルファストを去らなければならなかった一家の背後にある「宗教対立の日常」が描かれていない。カトリックとプロテスタントの対立があったと簡単に説明されるが、その対立の最前線の「日常」というものが描かれてない。
 それを描き始めると、映画はまったく違ったものになってしまう。
 そこに問題がある。描き方では、まったく違ったものになってしまうことを承知で、「記憶」を整理している。整理しすぎている。「家族(家庭)」のなかにまで踏み込んでくる「暴力」を描いてはいるが、それは「踏み込まれた家庭」の視点からのみ描かれていて、「踏み込んで行く暴力」の側の「日常」の視点がない。それがないと「世界」が立体的にならない。
 まあ、これは欲張りすぎた見方かもしれない。

 というのも。

 やっぱり、ラストシーンでは、どうしても涙をこらえることができない。バスで街を出て行く一家。それを見送る老いたおばあちゃん(ジュディ・デンチ)。「振り返ってはダメ」と言う。その声は聞こえないはずなのに、主人公の少年はバスの中から、振り返ってしまう。まるで、その声が聞こえたかのように。子供というのは、してはいけない、と言われたことをしてしまうものだが、そのしてはいけないと言われたことをするかのように。(ふつうは、してはいけないと言われたことをするのは、なんというか、欲望の、本能のようなものだけれど、この映画では、それは生々しい欲望とは違うのだけれど。)
 いつでも、どこにでも「矛盾」はある。その「矛盾」が、ラストシーンで、美しく昇華される形で描かれている。

 

 

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スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』

2022-02-12 14:18:13 | 映画

スティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』(★★★★) (2022年02月12日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン13)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー

 いちばん驚いたのは。
 私の「肉体」がついていけなくなっていること。私はダンスもしなければ歌も歌わないから、前の作品(ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督「ウエスト・サイド物語」)でも私の「肉体」がついていっていたのかどうかはわからないが、今回のスピルバーグの映画では、私の「肉体」が置いてきぼりにされているのを感じた。
 冒頭の口笛のシーンは、まだ「耳」だけが動いているので、わくわく感はおなじなのだが、役者が歌い踊りだすと、途端に、私の「肉体」は傍観者になってしまう。歌いたい、踊りたい(まねしてみたい)という気持ちが起きないのだ。わくわく、どきどきが「肉体」を支配して、私の「肉体」が動き出すという感じにならない。
 「トゥナイト」や「マリア」というゆったりとした曲さえ、何か、ついていけない。妙に「洗練」されている感じ、シャープな感じがする。「肉体」が動こうとすると、「理性」がやめておけ、というのだ。こころのなかであっても、一緒に歌うな、声を出すな、声帯を動かすなと、理性が言うのである。
 「クラプキ巡査どの」はこのミュージカルでは私の一番好きな曲だが、初めて聞いたときの荒々しい強さがない。歌っている若者に対する「同情」というのか、あ、そのつらさ、知っている、という感じにならない。あまりにも洗練されすぎている。その場で思いついて歌いだすという感じがしない。最初からその曲があって、それを歌って踊っている感じがする。私がストーリーを知っているから、ということだけではない何かがあると思う。「午前十時の映画祭」で上映されたときは、そんな感じはしなかった。スピルバーグの映画になって、そう感じるのだ。「クール」(この曲もとても好き)もなんだか違う。「アメリカ」も、豪華だけれど、美しすぎる。
 あ、そうなんだ。「美しすぎる」が、どうも、気に食わない。
 映画(ストーリー)は簡単にいってしまえば、不良の対立が生んだ悲劇だが、その不良たちが、今の私から見ると繊細(純粋?)で洗練されすぎている。何かを破壊せずにはいられない「欲望」というものが「演技」としてしか伝わってこない。生身の「肉体」としてつたわってこない。「おれたちには肉体がある。この肉体を、この世界に存在させたいのだ」という欲望が稀薄なのだ。
 「演技」になりすぎていて、しかも「演技」として洗練しすぎていて、「肉体」そのもの、どうしようもない「欲望」というものが、見えにくくなっている。うまく撮れすぎている。(これはスピルバーグの映画全体について言えるかもしれない。)とくに、集団のダンスシーンはあまりにもあざやかで、まるでそれだけのショーのような感じがする。若者が好きで踊っている、体がどうしても動いてしまうという感じではなく、私たちはこんなにダンスがうまい、とそのうまさを見せている感じ。
 とってもいいんだけれど、何か、違うかもしれない、と感じる。
 これは、というか、一方、というか……。
 レイチェル・ゼグラーの声に、私は非常に驚いた。透明な輝きと、透明な強さがある。「トゥナイト」の二重唱は、まったく知らない曲に聞こえてしまった。もし映画から「抜粋」して、レイチェル・ゼグラーの歌声だけを聞いたら「ウエスト・サイド物語」とは思わないかもしれない。
 ただ、それがいいことかどうかは、また、別の問題。
 昔に比べて、歌もダンスも、みんな「うまく」なりすぎたのかもしれない。映画で見たいのは、「うまさ」でもないし「うまさ」にかける情熱でもない、と思ってしまったのだった。

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ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(★★★★)

2022-01-29 15:01:25 | 映画

ウェス・アンダーソン監督『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(★★★★) (2022年01月28日、中州大洋、スクリーン2 )

監督 ウェス・アンダーソン 出演 手作りのセット、いろんな人たち

 たいへんたいへんたいへんたいへんたいへん、おもしろい。でも、★ひとつ減点。だってさあ、最後の最後で、おもしろさを「解説」してしまっている。シェフが記者に答えた「セリフ」。「毒は、とてもうまかった。初めての味だった」と言わせている。しかし、その「初めての味」はぜんぶことばにできる。つまり「知らなかった味」ではなく「知っている味」の組み合わせ。つまり「組み合わせ方」が新しかったのだ。そして、この「解説」は単に「解説」しているだけではなく、長くなるからと言って切り捨てた「記事」を拾い上げてみたら、そこに書いてあった。それを「採用する」という手の込んだ仕掛けなのである。
 この「手の込んだ仕掛け」をいちいち言っていてもしようがない。でも、いちいちいわないとほんとうは「味わった」ことにならない。シェフが「毒の味」をひとつずつ語ったようにね。私は、そういうことは好きだけれど、大嫌いでもある。めんどうくさいからね。なかには「知らない味」もあり、それを書かないと、きっと「あの味が抜けている」ということを言う人がいる。まあ、それでいいんだけれど。
 「正確」がどうかわからないが、ひとつだけ書いておく。
 この映画ではセットが魅力。ほんものそっくり、というのではなく、手作り感がある。つまり、セットとすぐにわかる。そこに、「手作り」して遊んでいる感じがあって、とても気持ちがいい。できた料理を、入り組んだ階段をのぼって届ける。その、なんでもないけれど、単純で変な入り組み方の「リズム」。瞬間的に、ジャック・タチを思い出した。「ぼくの伯父さん」だったかなあ、パリの下町、入り組んだ街の高いところに住んでいる。その「住処」の雰囲気に似ているねえ、この手作りのセットの感じ。「ぼくの伯父さん」は、自分の家を出るときに、遠く離れた建物の鳥籠の鳥に、鏡で太陽の光を反射させて合図する。朝を送る。そのシーンが私は大好きだが、そういう「誰の迷惑にもならない自分だけの遊び」という感じが全体を支配していて、それがとっても、とっても、とっても、とってもいい。
 でもね、これは、やっぱり言ってはいけないことなんだと思う。言いたいけれど、ぐっとこらえて、ときどき、ついもらしてしまうという感じくらいがいい。最後にまとめて言ってしまっては、「わからないやつは馬鹿だ」といわれた気持ちになる。まあ、言われたって、平気だけれど。
 役者も、みんないいなあ。「演じない」ことを演じている。あるいは「演じる」を演じていると言えばいいのか、よくわからないが。登場人物になってしまわない。つまり、「役(登場人物)」を見ているというよりも、役者をみているという感じにさせてくれる。「登場人物」なのだけれど、登場人物であることを忘れさせて、この人、こういう人だったんだあと錯覚させてくれる。「あれは、役なんですよ。私じゃないんですよ」「えっ、でも、あなたにしか見えない。役じゃないでしょう」というような、とんちんかんな会話をしてしまいそう。そのうちに役者の方で、まあ、どう見るかは観客の自由だけれどという声をもらすだろうなあ。
 というような、どうでもいいことまで、私は考えてしまう。感じてしまう。この妄想している時間が楽しい。映画を忘れる。(笑い)
 映画にもどると。
 最初に「料理」が出てきて、最後にもまた「料理」が出てくる、という、「ほら、きちんと終わったでしょ」という感じも好き。
 最後の「ことばの解説」がなければ、★10個つけたいけれど、と思いながら★4個。こんな変なことで悩むというのも、まあ、快感ではあるね。

 

 


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クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★)

2022-01-15 15:21:58 | 映画

クリント・イーストウッド監督『クライ・マッチョ』(★★★★★) (2022年01月15日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティー、スクリーン8)

監督 クリント・イーストウッド 出演 クリント・イーストウッド、闘鶏の鶏

 クリント・イーストウッドが魅力的なのは、描きすぎないことである。もっと見たい、と思った瞬間に、もうそのシーンはない。少し見せればいい。少し見て、あとは観客が自分の知っていることを思い出し、そこから考え、感じればいい、という感じ。
 冒頭の朝の光の中を走る車。その朝の光に透けながら輝く木立の葉っぱ。そういう光と木の葉の感じは、たしかにどこかで見た記憶がある。どこだろう。はっきりと思い出せない。見ていないかもしれない。でも、見たと思わせる。もう一度見たい、と思う。その瞬間、もうカメラの位置は違っている。
 光、その「光線」を感じさせるシーンは、ほかにもある。イーストウッドが車にかがみ込む。そのとき逆光、太陽の片鱗のようなものが、さーっと差し込み、あ、美しいと思ったら、もう見えない。見えなかった人には見えなくてもいい、という感じかなあ。
 こういうことが、もしかしたらこの映画のテーマかもしれない。
 ひとはそれぞれ自分の人生を生きている。自分の人生にも、他人の人生にも、見える部分もあれば見えない部分もある。太陽の光と違って、人の放つ光、人の出会いは規則的ではない。偶然であって、その出会いが、なにかの光のように他人の(自分の)一部を透明な光でつつむ。なんでもないことかもしれないが、それが忘れられない何かになる。
 イーストウッドが少年に乗馬を教えるシーンが好きだなあ。どうやって馬と接するか。支配するのではなく、一緒に生きる。早足で走るとき、スピードアップをするとき手綱で指示するのではなく、体重のかけ方をかえる、というのなど、なるほどなあ、と思う。乗っている人の体重の移動が、自然に馬を「押す」形になる。おんぶされている人が体重を前にかけると、おんぶしている人の体は自然に前のめりになる。体が前のめりになると、足が少し早く動く。バランスをとるためにね。そのあとの「姿勢」についても、なんでもないようだけれど、馬が楽になるような、そして乗っている人が楽になるような姿勢である。
 相手も、私も。
 この相互に「楽」な感じが、たぶん、いまのイースウッドが私たちにつたえたいものなのかもしれない。父と子の関係、男と女の関係、友人の関係。互いに、相手の小さな部分にさっと光を当て、私は、それを見たよ。私は、それが好きだよ、と言う。これだけで、ひとはひとと一緒に生きていける。
 そして、こういうことは、まあ、忘れられてもいいことかもしれない。世界を変える人間ではない。でも、そのとき世界は変わっている。個人個人にとっては、ね。実際、この映画では、少年もイーストウッドも「新しい」世界を手に入れる。彼らの「世界」が変わる。誰も注目していないけれどね。それがいいんだね。
 ラストの一瞬前。
 少年が、大事にしていたマッチョ(鶏)をイーストウッドに渡す。あげる。これ、いいねえ。さっと描いている。イーストウッドが、「焼いて食べてしまうかもしれない」と冗談めかして言う。少年は「だめだよ」とは言わない。冗談だとわかっているから、というよりも、もっと大きな何か。少年は生まれ変わったのだ。「マッチョ」が彼の支え(理想)ではなくなったのだ。少年が「マッチョ」を超えたのだ。それを「信頼」という形(抗議しないという形)で、ぱっと描き、ぱっと打ち切る。
 演技させるのではなく、演技させない。「人工的なもの/作為的なもの」にしないということかなあ。
 イーストウッドの車と牧場の馬が並行して走るシーンも、なんでもないのだけれど、馬が美しくていいなあ、と思う。

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ジェーン・カンピオン監督「パワー・オブ・ザ・ドッグ」

2021-11-24 10:40:09 | 映画

ジェーン・カンピオン監督「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(★★★★★)(2021年11月23日、中州大洋スクリーン1)

監督 ジェーン・カンピオン 出演 ベネディクト・カンバーバッチ、キルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー

 ジェーン・カンピオン監督。これは、見なければ。女性のセックス、恋愛を「学ぶ」には、ジェーン・カンピオンの映画ほど最適なものはない。ともかくびっくりさせられる。「触覚」の官能というのはわからないでもないが、ジェーン・カンピオンの映画を見るまでは、ちょっと想像しにくかった。ウッディ・アレンのなんという映画だったか、ジュリア・ロバーツが「背中を触られると感じる」というようなことを言い、ウディ・アレンが「一晩中背中を愛撫していたので疲れた」というような愚痴をこぼす作品があったが、しれは、まあ、コメディーだしね。
 で、この映画。私はジェーン・カンピオンが監督という以外に興味はなかった。キルステン・ダンスト(スパイダーマンの恋人?)は唇が嫌いだし、この女と、どちらかというと精神力を具現化するベネディクト・カンバーバッチがセックスするのか。そこにどんな「触覚」の興奮があるのか。キルステン・ダンストが、どんなふうに官能に目覚めていくのか、と、先入観を持ってスクリーンに向かってしまう。
 で、びっくり。
 始まってすぐすぐ。キルステン・ダンストが働いている(経営している?)店へベネディクト・カンバーバッチが入っていく。夕飯だ。テーブルの上に造花がある。これをベネディクト・カンバーバッチが「しゃれている」と手にとる。そこまでは、まあ、ベネディクト・カンバーバッチが粗野なカーボーイではなく、繊細な感覚を持っている男の「伏線」(大学で、哲学だか文学だかを専攻した。古典の素養もある)としてわからないでもないが、その造花を手にとった後、造花の花びらに指で触れて、その動きを見る。何かを思い出すように、触っている。えっ? これって、いままでの映画なら女の動作じゃないか。変だなあ。
 ところがね、これが「変」ではないのだ。なんとこの映画は、女の「触覚」とセックス(官能)を描いているのではなく、男の触覚の官能(セックス)をベネディクト・カンバーバッチを通して描いているだ。ことばを変えて、簡単に言いなおすと、新しいゲイ(ホモセクシュアル)の映画なのである。
 もちろん、すぐにはそうとはわからない。
 途中には、キルステン・ダンストがベネディクト・カンバーバッチの弟、ジェシー・プレモンスと平原のなかでダンスするシーン、そっと手を触れ合うシーンがあって、やっぱりこの女の触覚の官能がテーマか、と思わせたりする。
 ベネディクト・カンバーバッチは、弟のジェシー・プレモンスがキルステン・ダンスト結婚したことにいらだっている。家の中に「女」が侵入してきたことにいらだっているのか。それはベネディクト・カンバーバッチが女にセックスをの欲望を感じていて、それを横取りされたからではないということが徐々にわかってくる。
 これに、キルステン・ダンストの連れ子、コディ・スミット=マクフィーがからんでくるから、とてもややこしい。ベネディクト・カンバーバッチは造花をつくったのが女ではなく、コディ・スミット=マクフィーだと知って驚くのが、最初に書いた造花に触れるシーンだ。この痩せた少年、女のようだとからかわれる少年をベネディクト・カンバーバッチは、やはり嫌っているのだが、その理由が単に女っぽい(カーボーイには不向き)からではないということが、わかってくる。それはカーボーイになる前のベネディクト・カンバーバッチの「姿」だったからだ。
 で、この描かれていないベネディクト・カンバーバッチの少年時代に何があったのか。ことばで説明されるだけだが、冬の山で遭難しかけた。そのとき、一人の男が助けてくれた。こごえる少年の体を裸で抱きしめて温めてくれたのだ。このときの「触覚」が忘れられないのだ。あのとき、造花の花びらを触っていたのはベネディクト・カンバーバッチの指だけれど、その想像の先にはベネディクト・カンバーバッチが花びらになって、だれかに触られていたのだ。そのことが、映画が進むに連れてわかるようになっている。
 男の触覚の官能は、二度、克明に描かれる。ベネディクト・カンバーバッチが彼を助けてくれた男のイニシャルが入ったスカーフ(?)をズボンの中から取り出し、においをかぎ、そのスカーフをつかって彼自身の顔を愛撫する。何度も何度も愛撫を繰り返し、こらえきれなくなってスカーフをズボンの中へ入れ、オナニーをはじめる。
 コディ・スミット=マクフィーは、そのシーンを直接見たわけではないが、間接的にベネディクト・カンバーバッチの「秘密」を知ってしまう。そして、その「秘密」を利用して、母を憎んでいるベネディクト・カンバーバッチを殺そうと思う。
 この「殺し」がまたまた「繊細」というか、その「殺人」に「指」がどこまでも関係してくる。「殺し/殺される」はセックスそのものであり、そこには「指/触覚」が絡んでいるというのが、この映画のテーマなのだ。ひとは「触覚」によって支配されている、とでもいっているようだ。
 ベネディクト・カンバーバッチは革をつかってロープをつくっている。そのロープをコディ・スミット=マクフィーにプレゼントするという。ところが革が足りなくなる。その不足の革をコディ・スミット=マクフィーが持っている。炭疽病で死んだ牛の皮。そうと知らずに、それをつかったために、ベネディクト・カンバーバッチは炭疽病で死ぬのだが、まあ、そんなストーリーはどうでもよくて。
 このロープの仕上げのとき、ベネディクト・カンバーバッチとコディ・スミット=マクフィーは二人きりになる。ここからが男の触覚の官能を克明に描く二度目のシーン。ベネディクト・カンバーバッチがコディ・スミット=マクフィーにたばこを渡し、コディ・スミット=マクフィーが火をつけて、吸いさしをベネディクト・カンバーバッチにくわえさせる。動いている指はコディ・スミット=マクフィーの指。それは、ある意味ではセックスなのだ。少年が大人を誘っている。支配している。それはベネディクト・カンバーバッチ自身の見果てぬ夢だったかもしれない。指とたばこと唇。それが何度もスクリーンで展開する。
 「指/触覚」は、このクライマックス以外にも何度も描かれる。ベネディクト・カンバーバッチは手袋をしない。牛を去勢するとき、他のカーボーイから「手袋をしないのか」と聞かれるが、しない。キルステン・ダンストは先住民からもらった手袋をはめ「なんて、やわらかいの」とうっとりする。コディ・スミット=マクフィーは櫛の歯を指ではじいて母親をいらだたせる。指は暴力を振るう。指は官能に溺れる。指は間接的な攻撃にも使うことができる。ロープを編むのも手、指の仕事。炭疽病で死んだ牛の皮をはぎ、凶器としてつかうのも指。指がからみあうのが、この映画なのだ。
 この繊細で暴力的な指を、ジェーン・カンピオン監督は、雄大なアメリカの山と平原を舞台に展開する。その映像はとてつもなく美しい。近景、中景、遠景を組み合わせながら揺るぎなく展開する。
 そうか、ジェーン・カンピオンにはゲイの官能は、こういうふうに見えているのか、と目をさめさせられる。ラストシーン(ここでは詳細を書かない)も、非常に不気味で、人間の複雑さをたっぷりと味わわせてくれる。
 舞台は「現代」ではないが、「時代」を超える人間の本能/感性をを描いた傑作だ。「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」も舞台は「現代」ではなかった。「時代」設定をあえて「過去」にすることで、変わらない人間の本質を描く(浮き彫りにする)というのがジェーン・カンピオンの姿勢なのかもしれない。
 書きそびれたが、音楽もとてもいい。「現代的」だ。それがこの映画をいっそう清潔にしている。

 

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随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
(郵便でも受け付けます。郵便の場合は、返信用の封筒を同封してください。)

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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「詩はどこにあるか」2021年8、9月合併号を発売中です。
200ページ、1750円(税、送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/item/DS2002171


オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「深きより」を読む』76ページ。1100円(送料別)
詩集の全編について批評しています。
https://www.seichoku.com/item/DS2000349

(4)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(5)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(6)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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