詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(52)

2005-10-27 14:54:45 | 詩集
三島由紀夫「鹿鳴館」(「三島由紀夫戯曲全集上巻」新潮社)

 686ページに朝子と久雄の会話がある。久雄が父と自分との関係、家庭での生活を語る。そのあと、

朝子 まあ、そんなだとは知らなかつた。

とことばを漏らす。ここに「詩」がある。

 他人(久雄)の家庭のことなど人(朝子)が知るはずもない。知らないから他人なのだ。久雄が朝子のことばをついで即座に「あなたが御存知の筈はありません。人の家のことなんか。」というのはもっともな論理である。
 だからこそ、その前の朝子のことばの「詩」が引き立つ。
 「鹿鳴館」には、ちょっと真似してみたい科白、他人を参らせるのに都合のいい科白が何度も出てくるが、そうした華麗なことばよりも私は引用した朝子のことばに「詩」を感じる。何度読み返しても、その行で立ち止まる。

 「文章読本」のなかだったと記憶するが、三島は戯曲の文体について語っていた。三島の語るところによれば、戯曲で大切なのは、科白のなかに「過去」がなければならない、ということである。人は誰でも過去を持っている。その過去が科白のなかにあらわれなければならない。過去が科白のなかにあらわれ、現実とぶつかり、未来へ進んで行く――それが戯曲の文体である。

 この三島の説をもっともよく語っているのが、上記に引用した朝子のことばである。

 朝子には恋人の間にできた男子がいる。その男子こそ久雄である。朝子は、そのことを偶然知る。そして久雄の口から久雄の生活、久雄の父親(朝子の恋人)の関係を知る。その関係には、朝子の知っている恋人(父親)からは想像もできなかったことも含まれる。それで、

朝子 まあ、そんなだとは知らなかつた。

ということばが口をついて出る。

 このことばのなかには、そして、時間としての過去だけではなく、こころの過去、愛情の過去が噴出している。
 愛情が朝子を支配している。そのために朝子は無防備である。無防備であるからこそ、ふと、ことばにすべきではないことばが立ち上がってきたのである。
 だから「詩」なのである。

 「過去」があり、「過去」ゆえに知りえずにいたことがある。そして、今、その「過去」のすべてを知った上で、朝子は、「知らなかつた」世界へ踏み出していく。その一瞬が、この一行に凝縮されている。

 朝子が実際に行動をおこす場は現在であり、未来への夢(希望)が現在の行動を支配する――というのが人間の活動だけれど、朝子が行動を起こすとき、その現在へ、朝子のしらなかった「過去」が次々にたちあらわれて来る。未来へ突き進むことは、ほとんど「過去」をかきわけて突き進むことと同義である。(ここに「鹿鳴館」の戯曲のすばらしさがある。)
 そのきっかけが、引用した一行に凝縮されている。
コメント
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