詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(56)

2005-10-31 14:20:01 | 詩集
唐詩三百首1(平凡社東洋文庫)

 李白「関山月」を読む。末尾の2行。

高楼当此夜
嘆息未応閑

 「応」に「詩」がある。
 実景が「応」の一文字によって想像の世界に転換する。その急激な運動が、想像の切なさを彩る。
 精神、感覚の急激な運動をすくいとり、定着させることばが「詩」である。
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詩はどこにあるか(55)

2005-10-31 14:13:54 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「こどもの定期」。17ページの末尾の行。

正確なことを知っていくと みんなどうなるのだろう

 この一行に「詩」がある。荒川の核心がある。
 どうなるか。
 人と人は出会う。触れ合う。忘れられなくなる。「正確」は「正直」である。「正直」にまで触れると、人は人を決して忘れない。

 この作品に森鴎外の「寒山拾得」が出てくるので書くわけではないが、今回の荒川の詩集を読みながら私は森鴎外を思い出した。人を追う手つき、まなざし、「正確なこと」だけをことばにしようとするときの人間のにおいのようなものが森鴎外を思い出させる。

 20ページの5行目。

自分が忘れられてはいない、と感じるひとときは濃厚なみそ汁のようなものだった

 「濃厚なみそ汁」。ここに「詩」がある。「濃厚なみそ汁」ということばで表現された「正確なこと」は他のことばには置き換えられない。だから「詩」である。
 「濃厚なみそ汁」とともに、私は、そこに描かれた人間に触れる。そして、その人間をけっして忘れることができなくなる。
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