詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(49)

2005-10-12 14:26:54 | 詩集
森鴎外「伊沢蘭軒」(「鴎外選集 第七巻」岩波書店)

 鴎外の散文精神は「無態度の態度」。次のように説明している。

材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維(こ)れ谷(きは)まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。


 今、「詩」は鴎外のいう「無態度の態度」にしか存在しないのではないか。あらかじめ何事かを設定して、それにむけてことばを動かすのではなく、ただことばを事実に即して動かしていく。その動き――精神の軌跡にこそ「詩」がある。



 「四十五」に鴎外は伊沢自身の旅日記を引いている。美しい文章がある。

山路を経るに田畝望(のぞみ)尽(つき)て海漸く見(あらは)る。

 「見える」と「あらわれる」が融合している。
 海はもちろん常にそこに存在しているのだから「あらわれる」ものではなない。しかし「あらわれる」と受け止める。視覚がそうとらえる。視覚の動き(衝撃)を「あらわれる」ということばが明確に描き出す。――こうやって表現された感覚・精神の動きが「詩」である。


海に傍(そ)ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。

 「しきたり」に「詩」を感じる。
 「動詞」の比喩――そこに「詩」を感じる。精神が肉体をくぐるときの新鮮な刺激――それが「詩」であるかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩はどこにあるか(49)

2005-10-12 14:21:52 | 詩集
森鴎外「伊沢蘭軒」(「鴎外選集 第七巻」岩波書店)

 鴎外の散文精神は「無態度の態度」。次のように説明している。

材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維(こ)れ谷(きは)まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
</blickquote>

 今、「詩」は鴎外のいう「無態度の態度」にしか存在しないのではないか。あらかじめ何事かを設定して、それにむけてことばを動かすのではなく、ただことばを事実に即して動かしていく。その動き――精神の軌跡にこそ「詩」がある。



 「四十五」に鴎外は伊沢自身の旅日記を引いている。美しい文章がある。

山路を経るに田畝望(のぞみ)尽(つき)て海漸く見(あらは)る。

 「見える」と「あらわれる」が融合している。
 海はもちろん常にそこに存在しているのだから「あらわれる」ものではなない。しかし「あらわれる」と受け止める。視覚がそうとらえる。視覚の動き(衝撃)を「あらわれる」ということばが明確に描き出す。――こうやって表現された感覚・精神の動きが「詩」である。


海に傍(そ)ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。

 「しきたり」に「詩」を感じる。
 「動詞」の比喩――そこに「詩」を感じる。精神が肉体をくぐるときの新鮮な刺激――それが「詩」であるかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする