森鴎外「伊沢蘭軒」(「鴎外選集 第七巻」岩波書店)
鴎外の散文精神は「無態度の態度」。次のように説明している。
今、「詩」は鴎外のいう「無態度の態度」にしか存在しないのではないか。あらかじめ何事かを設定して、それにむけてことばを動かすのではなく、ただことばを事実に即して動かしていく。その動き――精神の軌跡にこそ「詩」がある。
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「四十五」に鴎外は伊沢自身の旅日記を引いている。美しい文章がある。
「見える」と「あらわれる」が融合している。
海はもちろん常にそこに存在しているのだから「あらわれる」ものではなない。しかし「あらわれる」と受け止める。視覚がそうとらえる。視覚の動き(衝撃)を「あらわれる」ということばが明確に描き出す。――こうやって表現された感覚・精神の動きが「詩」である。
「しきたり」に「詩」を感じる。
「動詞」の比喩――そこに「詩」を感じる。精神が肉体をくぐるときの新鮮な刺激――それが「詩」であるかもしれない。
鴎外の散文精神は「無態度の態度」。次のように説明している。
材料の扱方に於て、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くことゝする。路に迷つても好い。若し進退維(こ)れ谷(きは)まつたら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行当ばつたりである。これを無態度の態度と謂ふ。
今、「詩」は鴎外のいう「無態度の態度」にしか存在しないのではないか。あらかじめ何事かを設定して、それにむけてことばを動かすのではなく、ただことばを事実に即して動かしていく。その動き――精神の軌跡にこそ「詩」がある。
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「四十五」に鴎外は伊沢自身の旅日記を引いている。美しい文章がある。
山路を経るに田畝望(のぞみ)尽(つき)て海漸く見(あらは)る。
「見える」と「あらわれる」が融合している。
海はもちろん常にそこに存在しているのだから「あらわれる」ものではなない。しかし「あらわれる」と受け止める。視覚がそうとらえる。視覚の動き(衝撃)を「あらわれる」ということばが明確に描き出す。――こうやって表現された感覚・精神の動きが「詩」である。
海に傍(そ)ひたる坂をめぐりくだるとき、已夕陽紅を遠波にしきたり。
「しきたり」に「詩」を感じる。
「動詞」の比喩――そこに「詩」を感じる。精神が肉体をくぐるときの新鮮な刺激――それが「詩」であるかもしれない。